セルジオのオフィスについたのはそれからちょうど30分後のことだった。オフィスには相変わらずこもった熱気と薄いかび臭さが漂っている。窓には暗幕がかかり、電気がついている。
「ああ、ティナさん」
 ドアをあけたとき、ソファーに座っていたアクラーの女性が顔をあげた。犬のアクラー、全身が茶色い毛で、頭髪が少し濃い茶色をしている。彼女の名前はエルナ・フィアット。爆弾魔事件でティナと知り合った婦警だ。
「おう、来たか。じゃあ早速、と」
 セルジオが壁のスイッチを押す。上から白いスクリーンが下がり、部屋の明かりがすべて消えた。天井の古いプロジェクターから画面に疑似三次元の映像が映し出される。
「まずはこの波形データを見てほしい」
 セルジオが端末をいじり、画面には青い球が表示された。球の周りに、不規則に波が起き、色が赤や青などにしきりに変化している。
「あれ、これって…」
 ジョンが画面を食い入るように見つめる。
「わかるの?」
 ティナがジョンの方を振り向き、聞いた。
「間違ってるかもしれないけど、これって人間の思考波形データだよね?波の出方から見て、女の人じゃないかな」
 ジョンの言葉に、セルジオとエルナが振り向く。
「驚いたな。そこまでわかってるなら話は早いな」
 端末のキーをたたくセルジオ。画面の球は縮小され、左側に移動する。同時に、右側に別の似たような波形を出す球が現れた。
「実はな、今見せた左のやつは、今回ティナが破壊したアンドロイドのチップから抜き出したやつなんだよ」
「そんな馬鹿な。人間の脳を持ったアンドロイドだったって言うの?」
 セルジオの言葉に、ティナが顔をしかめる。
「ええ、もしかすると、そうかも知れないんです」
 エルナがまじめな顔で答える。
「まず、右側。こいつは人間の脳を擬似的にシミュレーションしたものだ。そして次に…」
 キーをたたく音が響き、右側の画面が変わった。球が茶色になり、波形が安定している。
「こいつがアンドロイドのパターン。見比べてみればわかるように、全然似ていない。ティナが破壊したアンドロイドのチップからは、人間の、それも女性の脳に非常によく似たものが見つかったと言わざるを得ないわけだ」
 全画面が切り替わり、破壊されたアンドロイドの波形パターンが大きく表示された。
「人間の脳の完璧なエミュレーションはまだ発明されてない技術でしょ?アリス以上なんて…」
 ジョンはうつむいて考え込む。アンドロイドを人間らしくさせようとする研究は20世紀末から続けられていた。24世紀初頭、ある科学者が、天才的な技術で一体のアンドロイドを完成させる。アリスと名付けられたそれは、現代のアンドロイドの基礎基本となった。今はスミソニアン博物館で陳列されている。
「要するに、何が言いたいかと言いますと、ただのストーカーなどではなく、企業や科学者などが関係しているかもしれない、というわけです」
 エルナがまじめな顔で言った。画面に映し出された球は、重苦しい雰囲気とは関係なく、波を出し続けている。
「それで、どうしろっていうの?今から機械工学でも学べって?」
 ソファーに座り直し、足を組むティナ。古いソファーがぎしぎしと音を立てる。
「そういうわけじゃない。こんなテクノロジーを持ってる科学者相手だから、他にどんな隠し球を持ってるかわからないってことさ」
「ああ、そういうことか…」
 セルジオに言われ、ティナは考え込んだ。これからどんなものが相手になるか、想像できない。相当戦いにくい状況になることは必至だ。
「そうそう、ティナさん。こんなもの持ってきました。また召し上がってください」
 押し黙ったティナを見て、エルナがポケットから小さなビニール袋を出す。受け取ったティナが袋を開くと、中には手作りらしいクッキーが入っていた。少し驚いた顔のティナを、エルナはにこにことほほえみながら見つめる。
「いいの?もらっちゃって」
「もちろん。前の事件のとき、助けてもらったお礼もしてませんでしたし。それに…」
 エルナはそこまで言って目線を落とす。
「それに、なに?」
 後を引き継ぐようにジョンが聞き、エルナは目線を上げた。
「それに、ティナさん、頼りになるお姉さんという感じで。これからも友人として、仲良くしていきたいな、と」
 その言葉を聞き、セルジオがくすくすと笑い始める。
「何がおかしいのさ?」
 怪訝な顔のティナを見て、セルジオが笑いをかみ殺した。
「なんでもないさ。ただまあ、女学生にはよくある話だと思っただけでな」
 エルナとジョンはセルジオの言葉を聞いて、ただにこにこしていたが、ティナはその裏のあまり上品ではない意図を読みとって、渋い顔をした。
「そういう発言は品格を疑われるからやめときなさいって、前から言ってるでしょ?」
「はは、そう僻むなよ。お姉さんよ。弟と妹の前だぜ?」
 セルジオはスクリーンをしまい、カーテンを開けた。部屋の中に太陽の光が入り込む。
 改めてティナはエルナとジョンの顔を見た。一人っ子だった彼女も昔は兄弟や姉妹が欲しいと思っていたが、この年になってまで欲しいとは思わない。
「そうさ。あたしはお姉さんさ。年の離れた弟と妹を持ってうれしいよ。用事はこれだけ?そろそろ戻らないと」
 ぶうたれた顔で立ち上がるティナ。ティナが立ち上がったのを見て、ジョンも立ち上がる。
「ごめんなさい。そういうつもりじゃ…」
「わかってるよ。これからもよろしくね」
 少しうろたえるエルナの頭に、ティナはぽんと手を置いた。
「用事はこれで終わりだ。いざとなったら、俺とか市警に相談してくれよ?」
「ん、わかった。ありがとうね」
 セルジオの声を背中に受け、ティナは戸をあけた。事務所内の空気より暑い空気がふわっと階段を昇ってくる。ジョンが後ろ手に閉めた戸が、ばたんと音をたてた。
「弟かあ。俺、ティナに取ってはそういう扱いなんだね」
 階段を下りながらジョンがつぶやく。
「そういう面もあるってことさ。見習いってことは変わらないんだから、甘えてきても何も出ないよ」
「厳しいなあ。せめて、下着を洗濯かごに入れるのは自分でやってほしいね、お姉さん」
「わかったわかった」
 ティナはジョンの言葉を適当に流しながら外に出た。2人を包むように、熱風がビルの谷間を吹き抜けていった。


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