世界が暗い。何も見えない。自分がどうなっているかもわからない。浮いているのか、沈んでいるのか、立っているのか、寝ているのか。
 音が切れ切れに聞こえる。サイレンの音。誰かの声。思い出せそうで思い出せない名前と顔。誰の声だろう。
 体中に熱がない。寒さが忍び寄ってくる。冷たい感覚が体を包む。
『ああ、死だ。これは死だ』
 彼の脳裏に死がよぎる。未練はある。しかし死に贖う力が存在しない。腕が動かない。足が動かない。
『もうだめかな』
 あきらめを持つ彼の心に、不意に声が響く。
『君は死なない。まだ早いようだ』
 一瞬、目の前に男の顔が浮かんだ気がした。褐色肌で、短い黒髪、少し年を取ったアジア人。見覚えがある。思い出せない。
『誰、だっけ…』
 思い出そうとしていると、体に熱が伝わってきた。暖かな熱。体を包むように優しく。
『じゃあな。ティナを頼む』
 最後にそう聞こえた気がした。


前へ 次へ
Novelへ戻る