「皮肉なもんだね」
 ティナは一言つぶやいて、グラスのウィスキーを喉に流し込んだ。浮かんでいた氷がガラスとぶつかってからんと音を立てる。
「なにが皮肉なの?」
 隣に座っていたネージュが、うつぶせになったまま視線だけティナに移した。膝上の白いスカートに夏用の青と黒の縞が入ったブラウスを着て、健康的な足を見せている。小型のエア・フライヤーが窓の外を通り、振動が窓を叩いた。
 高層ビル群に浮かぶ小さなバー。二人はそこでゆっくりとした時間を過ごしていた。アドラシスコの街を一望できるこのバーはティナのお気に入りだ。ゆっくり飲み、ゆっくりと酔い、歩いてアパートに帰って寝る。ネージュと別れるとき、どこか抜けたような寂しい気分になるのが、彼女の夜の終わりだった。
「あたしがこんな仕事して、それで得た金で酒飲んでることさ」
 ティナはぐいとコップの中身を飲み干し、ティナはバーテンを呼び止めた。バーテンがコップにウィスキーを注ぎ、その上から水をかける。
「こんな仕事って…誇るべきことじゃない。街の治安を守ってるのは」
 金色の長髪を手でもてあそびながら、ネージュは気が抜けたように答えた。スカートの上からはみ出ている尻尾がたらりと垂れている。彼女はどうやら、かなり酔っているようだ。
「治安を守ってるといっても、銃を撃って拳を振るってるのよ。変わらないかもしれないほどひどいことをしてる」
「ふぅん…でも、犯罪者だって悪いことしてるわけじゃない。少しは制裁が必要だと私は思うけど」
「目には目を、とは考えちゃいけないんだよ。あたしはそのことをよく知ってる」
 無意識のうちに、ティナは懐の銃をスーツの上から撫でた。このマッドキャットは、主の命令で鉛弾を吐き出す。ティナがなにも命令しなければ、ただの鉄と火薬の塊にすぎない。それに、ティナという主が命令を下すことによって、殺人兵器と化す。銃に罪はない、使う人間に責任と罪が宿る。
「ねえ、あんまり考えるのはよくないと思うわ。今追ってる爆弾魔は、建物を破壊して人に不安を与えているのよ。それでも、制裁が必要ないって言える?」
 ネージュは起きあがり、グラスのカクテルを口に含んだ。柑橘系の香りが一瞬彼女を包み、消えていく。彼女の横に立てかけてあるケースには、ショットガンが入っているのだろう。
「…裁くのは裁判官。あたしはただのアタッカーだから」
 ティナはうつむいて、バーボンを一口含む。ネージュの言葉に正当性がないとは言わないが、ネージュにはどうも順法精神のない部分がある。その部分に染まることはあまり良いことではないだろう。
「まるで学校の教科書みたいな答えね。ま、何も言わないけど」
 ネージュは小さくあくびをして、カウンターにつっぷした。どこか遠くの空をヘリコプターが飛んでいるらしい音が聞こえる。エア・フライヤーが普及したこの時代にも、懐古主義者はヘリコプターを乗り回している。ただ、燃料代金にせよ、効率にせよ、あまりほめられたものではない。
「ねえ…ネージュの両親はどうしてるの?」
 ティナの言葉に、ネージュは顔をあげた。少しティナを見てから、微笑む。
「普通に暮らしてるよ。遠い街で」
「ふう、ん、そっか…連絡とかは?」
「月に1度程度だけど取ってる。親に心配かけるから、いつまでもこんな危ないこと、やってられないんだけどね」
 カクテルを飲み干し、ネージュはバーテンを呼び止めた。グラスに注がれるのは赤色のカクテル。サクランボを使用したカクテルだ。甘い匂いが立ち上り、バーテンは中にサクランボを浮かべた。
「そっか…」
 ティナは少し考え込んで、うつむいた。治安を守る誇りある職業といえど、危ない職業に変わりはない。ティナだって、死にそうになったことは1度や2度ではない。
『アタッカーをしてなければ、マジシャンだって死ぬことはなかったんだろうな…』
 ティナは昔のパートナーのことを思いだしながら、ぼんやりと宙を見た。ティナが唯一背中を任せた男、マジシャン。彼は本名すら明かさない謎の男だった。ティナのミスで、彼は命を失った。冷たい土の下で今は眠っている。
「なに考えてるの?」
 ネージュはにこにこと笑いながら、サクランボを口に含む。
「ん、アタッカーっていうのも、いろいろ大変な職業だと思ってさ」
 ティナはポケットから箱を取り出し、中のたばこを抜いて火をつけた。甘ったるい匂いがたばこの白い煙に混ざり、天井へ立ち上って消えていく。
「あれ、たばこ吸うようになったの?初めて知ったわ」
「ああ、これ。アロマシガーっていって、たばこじゃないんだ。いつも吸ってるわけじゃなくて、たまに吸うんだよ」
 アロマシガーの横にはピンク色でロイヤルアロマと銘柄が入っている。見た目はたばこそのものだが、主成分は全然違うものだ。ただ、これでも一酸化炭素などの一部の有害ガスは吸入することになる。
「いい匂い…たばことは別物ね…」
 ネージュはゆっくりと振り向いて、窓の外を見た。人間が作った灰色の都市に様々な色がつき、夜の闇は醜いもの全てを覆い隠している。エア・フライヤーの影がときどき見える。
「ねえ、ティナ。アレッド君のことなんだけど…」
 時計の長い針が45度ほど動いた後、唐突にネージュが口を開いた。夜が深まり、バーにはティナ達の他にもいろいろな客が来ている。
「ジョンがどうかした?」
 ティナはピスタチオの殻を指でもてあそびながら答える。
「彼、アタッカーの見習いなんでしょう?あんまり小さいうちからこういう世界に入らせるのは、よくないと思うの」
 ネージュは1つ尻尾をふり、スカートの乱れを直した。長い間飲んでいて、2人ともだいぶん酔いが回っている。ティナなどは人間というより毛皮のようだ。
「あいつの意志さ。意志をつみ取ることは、あたしにはできないよ」
 アロマシガーの灰が灰皿の上でくすぶっている。声の調子を聞くと、ティナがジョンを危険な目にあわせたくない、という意志が読みとれる。
「ローズ・シャインを」
 テーブル席でカップルが大声で笑っている。それを背にしながら、ティナは赤ワインを注文した。彼女の一番好きな銘柄だ。バーテンは何も言わずにワインの瓶を取り出す。
「もし、もしも。あの子の心や体に一生消えない傷をつけたら、あなたは責任をとれる?」
 赤いワインがグラスに注がれるのを横目で見ながら、ネージュは語調を強くした。彼女もジョンを心配していることは確かだ。
「あたしはジョンを信じてる。あいつは弱い男じゃない」
 ワインを一口含み、香りを感じる。甘いような酸っぱいような香りが彼女を包み込む。ワインは数ある酒の中でも美しいとティナはよく考える。ビールのようにせわしなく泡を吐くこともなければ、テキーラやウオッカのように力強さを見せつけることもない。優しい果物が流した涙のようだ。
「信じてあげるのはいいことだと思う。でも、子供にアタッカーは荷が重すぎるわ」
「そうかもね。でも、あたしはジョンを止めることはしないよ」
「なんでよ」
 ネージュのいらいらした問いを聞き、ティナは無意識に微笑んだ。
「運命、かな。あたしの元に来た運命」
 ティナの答えに、ネージュは少し驚いたような顔を見せた。ティナは普段、合理主義で物を考える。精神論で重大な事項を決めたりするような女ではない。なのに、彼女は運命という一言で、少年を危機に立たせている。
「ネージュには話したっけ。あたしも小さいころ、事件にあって。それ以来アタッカーを目指してたんだ。あたしの父親もアタッカーだったんだよ」
 ティナがすらりと言うのを聞き、ネージュはティナの過去を思い出した。大学生のころ、聞いた覚えがあった。
「皮肉なもんだよね。今こうして、アタッカーを続けること疑問を感じることが多くなったのに、そんなあたしを頼って男の子が来てる。嬉しいような、悲しいような、変な気分だよ」
 ティナはグラスのワインを飲み干し、大きく息をつく。それを合図にしたかのように、店内のスピーカーからロック調の強い曲が流れ出した。
『信じることを恐れてはいけない。
 真実はいつもそばにいる。
 疑うことを当たり前にしてはいけない。
 あなたを間違った方向へ導くから』
「信じることを恐れてはいけない、か…」
 ティナは曲を聴き、心の中でふっと笑った。今の状況にぴったりの曲だ。2340年のベストヒット、サンダーマリアというバンドの曲だ。今から5年も前も曲なのに、まだ流行っている。一時期、街を歩けばこの曲がかかっていた。サンダーマリアはすでに解散し、世になくなっているが、まだファンは多い。ティナもその一人だった。
「かっこいいこといっちゃって、あの子に惚れてるんじゃないの?」
「なにいってんのよ。まだ毛も生えそろってないような子供に惚れるわけないじゃない」
 ネージュのからかうような言葉をティナは笑い飛ばした。バーテンが別の客のグラスに黄色い酒を注いでいる。
「そっかー。私は結構かわいいと思うけどね。ああいうタイプ、好きよ」
 ネージュも笑い返し、グラスを空けた。
「まあ、もう少し育てば…」
 ティナがカウンターに突っ伏したちょうどそのときだった。
 ドォォォォォン!
 背中の方で大きな爆発音が聞こえる。振り返ると、3つほど隣のビルが火を吹き、闇の中に赤い炎を見せていた。
「な、なにあれ」
 赤い火柱を見つめてネージュが凍り付く。ティナは財布から20ドル札を2枚ほど出すと、それをバーテンに投げるように渡した。
「ネージュ、例の爆弾魔よ!急いで!」


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