「えぐ、えぐ…ううう…」
 真優美が泣いている。とても悲しそうに、とてもつらそうに。プールサイドのベンチに座り、涙をぽろぽろこぼしている。
「バカ…竜馬君のバカ…大嫌い…うう…」
 拭っても拭っても涙が溢れる。真優美の心の中は、悲しさでいっぱいだ。ストレートに断られたなら、まだよかっただろうが、冗談だと思われていた上に、はぐらかされて他の女の子の名前まで出てきた。あまりにも優柔不断すぎる。精一杯の勇気が、愛情が、竜馬に踏みにじられたかのように、真優美は感じていた。
「わ、っと」
 ばしゃっ
 いきなり、真優美の頭の上から、水が降り注いだ。否、水ではない。匂いからするに、オレンジジュースのようだ。
「う、うう、うあああああん!」
 とうとう真優美は声をあげて泣き出した。
「わ、悪りぃ!大丈夫っすか?」
 ジュースをかけた相手があわてて真優美の髪を拭いた。薄目を開けて相手を見る真優美。日焼けした肌に、筋肉のついた体、金色に染めてある髪は短く、目鼻立ちの整った顔つき。欠点をつけろという方が難しいような、地球人の色男が、真優美の目の前に立っていた。
「だ、大丈夫ですぅ…えぐ、えぐ…」
 真優美が泣きながら答えた。涙はすぐには止まらない。
「ほら、深呼吸深呼吸」
 男の言葉に従い、真優美が大きく息を吸った。吸って、吐いて、吸って、吐いて。何度か繰り返しているうちに、だんだんと落ち着いてきた真優美は、涙を拭った。
「えーと、その…ご、ごめんなさい〜…迷惑かけちゃって…」
 ばつの悪そうな顔で真優美が謝った。
「こっちこそ、悪い。足下よく見てなくてさー。あの、お詫びっつったら変だけど、何か奢ろうか?」
 男が真優美に頭を下げた。真優美は彼の顔を見て、一瞬どきりとした。竜馬よりずっと男前だし、声も耳に心地よい。何より、彼の笑い顔には、人を安心させる何かがあった。
「それじゃあ、お言葉に甘えちゃおうかしら…あ、でも、知らない人にはついていくなって…」
「彦根明良。俺の名前。20歳。これで、知らない仲じゃないっしょ?君の名前は?」
 彦根と名乗る男が手をさしのべた。
「ヒコネ、アキラさんですか…あ、あたし、真優美・マスリって言います…15歳です…」
 やや気後れしながら、真優美はその手を握って、立ち上がった。
「いやほんと、人多いっつーか。後ろからどーんってこう押されちゃって、気づいたときにはもうカップひっくりかえってさ。悪いことしたね。獣人って、柑橘系ダメなんだべ?」
 真優美の髪をそっと撫でる明良。彼女の銀髪についたオレンジジュースは、拭いただけでは全ては落ちず、甘酸っぱい匂いを発していた。
「え、ええ。でも、あたしは柑橘系、大丈夫なので、そんなに心配しないでいいですよ〜?」
「そうなんだ?よかった〜。敏感な鼻とか言われても、俺らよくわかんないし、どう償ったらいいもんかわかんねーからさ」
 心底安心した顔で、明良が頭を掻いた。
「でも、ジュースかけただけですよ?償うなんて、普通の人は考えないんじゃ…」
 カフェのイスに座る真優美。ポケットに手を入れようとして、今自分が水着姿であることを思い出した。こうなれば、本当に奢ってもらうか、遠慮するかしかない。
「だって、そういうの無責任じゃね?放置とかありえんでしょ?」
 そう言いながら、明良がメニューを手に取った。
「そうですよねえ…何か、怒らせたとか、嫌な思いさせたと思ったら、謝るのが普通ですよねえ…彦根さん、正しいです…」
 はあ、とため息をつく真優美。先ほど泣いていたときと同じ、物憂げな表情だ。耳は寝てしまい、尻尾は元気なく垂れている。
「どうした?誰かに嫌な思いでもさせちゃった?」
「いえ、そうではないんですよぉ」
 心配そうな明良の言葉を、真優美が否定した。
「よけりゃ相談乗るよ?嫌ならいいけど」
 明良が優しく真優美の頭を撫でた。一瞬、真優美の中に、初対面なのに馴れ馴れしくされて嫌だという感情と、頭を撫でられて嬉しいという感情が交差した。
「実は、ですねぇ…」


「…だから、悲しくて悲しくて…あ、ホットドック2つ、お願いします」
 真優美は一息に全てを話し終えた後、ウェイトレスに注文をした。彼女の前には、空になったピザの皿や、先ほど食べ終わったペスカトーレスパゲティの皿、飲みかけのコーラのコップなどが置いてある。
「だいたいわかった。相手の男…錦原だっけ?バカだなー。マジなに考えてんだかわかんねえ。断るにしろ、つきあうにしろ、はっきりしないとうざいっしょ」
 先ほどまで何も言わずに話を聞いていた明良が、やや怒ったように言った。
「でしょう?もう、竜馬君なんか、知らないんだから…」
 かちゃり
 フォークを置いて、真優美がうつむいた。しばらく、2人の間に沈黙が流れる。
「ホットドック、お待たせしました」
「あ、どうも〜」
 ウェイトレスが来て、テーブルの上に皿を置いた。
「あのさ、迷惑じゃなきゃ、俺が話つけてやろうか?」
 明良が考えあぐねた末に、真優美に提案した。
「いえ、いいですよぅ。聞いていただいただけで、ほんとに楽になって…」
 真優美がホットドックに手をつけた。彼女の犬口が、もそもそとホットドックを噛んでいる。
「ぶっちゃけ、そんなん相手にせんでも、他に男いるっしょ?なんでそんなのを?」
 不思議そうに明良が聞く。真優美はホットドックを食べながら、しばらく考えていたが、顔をあげた。
「やっぱり、いい人だから、かなあ…よくわかんないけど、好きになっちゃって…」
「ふぅん。女心ってのはよくわかんねーな」
 真優美の答えを聞いても、明良は釈然としない顔をしている。
「そういうものですよぉ。彦根さんは、女の子、好きになったことないんですかぁ?」
 真優美が優しく微笑んだ。ホットドックにケチャップとマスタードを追加してかけ、口に運ぶ。
「もちろんある。今付き合ってるのは、見かけは普通だが性格がものすっげえいい子でね。ただ、親が付き合うのに反対してて、大変なんだ」
 苦笑いをする明良。だが、その顔は幸せそうだ。真優美は明良の彼女を想像してみようと試みたが、彼の言うような少女が思い浮かばなかった。
「好きあってるんですか?」
「当たり前だろ?そうじゃなかったら、彼氏彼女なんかやってらんねえよ?」
 面白い冗談を聞いたかのように笑う明良。彼の笑顔を見て、真優美は羨望を感じた。自分も竜馬とそんな仲になれたら…
「あー、真優美ちゃん、やっといた…」
 背中の方から聞こえてきたのは、竜馬の声だった。
「あ…ど、どうも。そっちの人は、お知り合い?」
 海パン姿の竜馬が、明良に気づいて、頭を下げた。自分の姿と明良の姿を見比べている。
「ああ、この人は彦根さん。大学生だそうで、さっきちょっと知り合ったんですよぉ」
 油断なく竜馬を見つめながら、真優美が言った。尻尾はいらいらと揺れている。その顔には微笑みが宿っていたが、張りつめるような怒りが見え隠れしていた。
「その、すいません。うちの連れの面倒見てもらっちゃって…」
 曖昧に笑いながら、竜馬が明良に頭を下げた。
「いやいや。こっちも彼女と話してて楽しかった。別に謝るこたねえよ」
 明良がイスに深く座り直した。竜馬は彼のまっすぐな目を見て、心の奥を見透かされているような気になった。
「えーと…じ、じゃあ、真優美ちゃん、行こうか?」
「行きませんよ?みんな一緒じゃなくてもいいんじゃないですか?」
 おどおどしながら言う竜馬を、真優美がきつい口調で否定した。
「お、怒ってる?さっきはごめん。俺、どう答えていいかわからないで…」
 竜馬が情けない顔で頭を下げた。
「別にいいですよぉ。どうも答えてもらおうと思ってませんもの〜」
 真優美がころころと笑った。明らかに怒っている。彼女の言葉の端からは、竜馬に対する怒りが見てとれた。
「大体、竜馬君にはアリサさんがいますもんね〜。十分幸せでしょ?」
 竜馬を見下したかのように言う真優美に、今度は竜馬の堪忍袋が開いてしまった。
「なんでアリサになるんだよ。俺、あいつのこと嫌いだって、知ってるはずだろ?」
 語彙を荒くする竜馬。真優美は薄ら笑いを浮かべ、パンを一口食べた。
「あら〜?あたしの見間違いでしたっけ〜?一緒にご飯食べたり、風邪のとき看病してもらったりしたんでしょう?」
「それはそれ!付き合う気があってしてるわけじゃないよ!」
「おあいにく様〜。あたし、彦根さんに、彼女になってくれないかって告白されちゃった後なんですよぉ〜」
 真優美が明良の首に抱きついた。それを見て、竜馬は心の中に吹雪が吹き荒れるのを感じた。
「悪いけど、君のことは聞かせてもらった。あんましいいとは思えねえんだけどな」
 最初は驚いた明良だったが、真優美の心がわかり、話を合わせる。
「な、何を聞いたってんです」
「この子の本気を受け取らずに、はぐらかしたことだ。俺が話聞くまではずっと泣いてたぜ?」
 明良がまじめな顔で竜馬を見据えた。
「そ、それは、急なことで…い、今だって、彼女が本気だって知ってから、10分も経ってないし…」
「時間は関係あるか?告白されたその場で返事を渋って、女泣かせたのと同じ状況だとは考えねえのか?」
 うっ、と竜馬は唸った。明良の言葉は、一見言葉尻を捕らえているように見える。だが、言われたことを考えてみれば、正当性があるのがわかる。
「でも、俺、こういうことはじっくり考えたいんです…」
 竜馬は自信なげにうつむいた。
「じゃあなんでそう言わず、他の女なんか引き合いに出した?気持ちは嬉しいって言葉だけで、どんだけ相手が傷つくか、考えたことすらねえのか。気持ちは嬉しいけれどだめです、とか繋がるよな?」
 冷静にゆっくりと、明良が竜馬の逃げ場を奪う。
「あ、あんたなんなんだよ。そんなこと言われても、俺今まで彼女いなかったし、初めてだからどう対処していいのかわかんないんだ」
「泣いてる彼女がかわいそうだっただけだ。君も断るにしろ、誠意ぐらいは見せろ」
「な、なんだよ。要するにかわいそうな女の子をひっかけたのかよ、あんたは」
 むっとした竜馬が、明良に言い返した。一瞬、嘘を言ってしまった真優美が慌てそうになったが、彼女の背中を明良がぎゅっと抱く。
「あ、あたしは、彦根さんに話を聞いてもらって嬉しかったんです!そんなひどいこと言って、自分のことを棚に上げないでください!べーだ!」
 真優美が竜馬に向かって舌を出した。
「そういうこと。なんだか話がつかねえな。もう少し考えてからこの子を迎えに来てくれ」
 明良が最後まで冷静に言い放つ。竜馬は心に大きな刃物が刺さったように感じた。包丁やナイフではない。例えるならば、斬馬刀。このダメージには耐えられない。
「…ごめん、真優美ちゃん。彦根さん、すいませんでした…」
 竜馬はしょんぼりしながらその場を去った。ふらふらしている。どんと人にぶつかったところで、過度に謝っている後ろ姿が見えた。
「えと…その…」
 真優美が慌てて明良から離れた。恥ずかしそうに尻尾が揺れる。
「実は、俺の彼女も来てんだよ。よければ、話聞いてみねえ?女同士、有益な話になるかもしんねえよ?」
 不安げな真優美の頭に、明良が手を置いて、にっこり笑った。


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