「とんでもないシーンに出くわしたね」
 いつもは何事にも動じない美華子が唸っている。
「入って大丈夫かな…」
 こんこん
 ドアをノックする清香。中から返事はない。
「怪我でもしたのか?」
 がちゃり
 修平がドアを開けると、目の前にはペットボトルがあった。否、飛んできていた。
 ぱかーん!
「いてー!」
 ペットボトルが修平の額に当たり、間の抜けた音を出した。不意打ちを食らった修平は、廊下に倒れ込んだ。
「だ、大丈夫ですかぁ?」
 真優美が倒れた修平を慌てて起こす。
「あ…す、すまない!てっきり、先ほどの男だと思ったのだ」
 中は大きな鏡がある、畳の控え室だった。巫女服を着たままの少女が、修平に駆け寄る。
「相変わらずおてんばだね、恵理香ちゃんは」
 清香がにこにこしながら声をかけると、恵理香と呼ばれた少女は耳をぴんとさせ、直立した。
「まさか清香姉の知り合いだったとは、知らなかった…大層失礼なことをしてしまったな。謝罪するよ」
 恵理香がぺこりと頭を下げる。
「紹介するよ。この子が、さっき妖孤役をやってた、汐見恵理香ちゃん。あんた達と同い年で、役者しながら高校に通ってるの」
「へえー。同い年なのに、大人びて見えるね」
 竜馬は感心して、恵理香を上から下まで見た。服が服なので体型は見えないが、それなりに筋肉がついているようだ。アリサがクリーム色の体毛に長い金髪、真優美が褐色の体毛にパーマの銀髪をしているのに対して、恵理香の青みがかった銀髪は竜馬にとって新鮮だった。毛染めを使えば、彼女と似たような色にはなるだろうが、この自然な色合いは出せないだろう。
「まあ、立ち話もよくないだろう。あがってくれ。今茶を出すよ」
 恵理香に誘われるままに、一同は和室に入った。個室というわけでもないだろうが、他には誰もいなかった。どうやら今は恵理香一人だったらしい。小さなテーブルの周りに座布団を並べると、恵理香はお茶を入れた湯飲みを並べた。
「ほへー…」
 真優美が大きな鏡に目を奪われている。しばらく惚けて鏡を見ていた真優美だったが、髪の乱れを見つけ、手櫛で直し始めた。
「湯飲みが足りないのだ。形が不揃いだが、勘弁してくれ」
 目の前に置かれた湯飲みを持ち上げる竜馬。最初、熱い緑茶が出てくるものだと思い身構えた竜馬だったが、中に入っていたのは冷たい麦茶だった。
「寿司屋みたいな湯飲みだね」
 美華子が湯飲みを持ち、まじまじと見つめた。湯飲みの周りには、魚偏の漢字が多数書かれていた。鰤や鰯などの簡単な漢字は読めたが、中には読めないものも多数ある。
「うむ。今は店を畳んだ寿司屋の店主から譲り受けた」
 恵理香は一口お茶を飲む。
「君が竜馬か。清香姉から話はよく聞いているよ。なかなかにいい顔をしているじゃないか」
 恵理香が手を差し出す。
「どんな風に?」
 恵理香の手を握り、握手しながら、竜馬は聞いた。
「自堕落で面倒くさがり屋の弟がいる、とね。私にはそうは見えないが…」
「まあ、自堕落っちゃ自堕落かもね」
 アリサがくすりと笑う。彼女の目は、竜馬と恵理香の手に釘付けだ。一瞬悔しそうな顔を見せたアリサだったが、優雅に恵理香に近寄ると、会釈をした。
「自己紹介がまだだったわね。アリサ・シュリマナよ。アリサって呼んで?竜馬の彼女をしているの」
 見せつけるように、竜馬の腕に抱きつくアリサ。それを竜馬はよしとせず、すぐに引き剥がした。
「彼女ってのはこいつの嘘だから、気にしないでくれ」
「んもう、恥ずかしがっちゃって、かわいいんだから。くふふ」
 しかめ面の竜馬に、アリサがくすくすと笑う。
「よろしく。あなたにあえて光栄だ」
「こちらこそ。さっきの舞台、すっごくかっこよかったわ」
 恵理香が自然な微笑みを浮かべ、手を差し出す。アリサも微笑みながら、握手をした。
「そっちで鏡を見てるのが真優美ちゃん、こっちの子は美華子」
 アリサが2人を恵理香に紹介した。美華子が頭を下げたのに対して、真優美は名前を呼ばれたことにも気づかず、鏡を見ている。
「真優美ちゃん?」
 竜馬が再度名前を呼ぶと、真優美が振り返った。
「あ…ご、ごめんなさい。あの、こんなおっきい鏡、初めて見て…」
「よいのだ。それが最初に目に入るということは、身だしなみに気をつけている証拠だろう」
 おどおどしている真優美に、恵理香が優しく声をかけた。
 竜馬はこの少女に、少なからず好感を持てた。物腰低く、礼儀正しい性格。自分とは違う世界に住んでいるせいもあるだろうが、色々な意味でしっかりとしているように見える。
「閑話休題、清香姉が舞台を見に来るなんて珍しいな。今日はよほど暇だったのか?」
「そんなわけないじゃん。いつも見に来てはいるんだよ?ただ、裏に入っていかないだけで」
「ほう、そうだったか。演技しているときは熱中してしまってな。客席を見ていないのだ。今日はわざわざ見に来てくれてありがとう。拙い演劇で申し訳ない」
 恵理香が一同を見渡して頭を下げた。
「別に拙いとは思わないし。他人の私が言うのもあれだけど」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
 無表情の美華子に、恵理香がまた慇懃に頭を下げた。
「そういや、さっきの男は誰だったんだ?あんまりいい雰囲気じゃなかったけど…」
 修平が口を開いた。
「ああ、あれか。気にしないでくれ。少々、トラブルがあってな」
「トラブルって…大丈夫ですかぁ?」
 髪を直した真優美が、テーブルまで来て、心配そうな顔をして恵理香を見つめた。
「大したことではないんだが…んー…」
 真優美の表情からは、本当に心配しているらしい心が読みとれる。しばらく唸っていた恵理香だったが、真優美を心配させてはいけないと思ったのか、話し始めた。
「去年、私がまだ中学生だったころ、この辺りにある神社の祭りで、バイト巫女をやったんだ。君らは知っているか?かなり大きな祭りなんだが」
「ああ、知ってるわ。なんとか奉納祭ってやつでしょ?今年は彼と一緒に行こうと思ってるの」
 それとなく言い、竜馬の腕に抱きつくアリサに、竜馬はため息をついた。何をしても無駄だと悟った竜馬は、後で訂正しようと思いながら、アリサをそのまま放っておいた。
「知ってるなら話は早い。彼はその神社の神主でな。そのとき私がいることによって、収益が多くなったということで、巫女になってくれないかと言っているんだ」
 いかにも困ったものだ、という表情で、恵理香はため息をついた。
「神社なのに、収益ですかぁ?」
 真優美が不思議そうに首をかしげる。
「まあ、な。今のご時世、住職や神主じゃなかなか食ってはいけん。その点では、彼には同情する。しかしな、私は巫女になりたいわけではないのだ」
 語尾が少し強くなる恵理香。大きな尻尾がいらいらと揺れている。
「そんな事情、知らなかったな〜。恵理香ちゃんとは仲良いつもりだったけど」
 清香が腕を組み、考え込んだ。
「聞かれなかったからな。家の恥に少し関係しているのだ」
「家の恥って?」
「彼は私の父母と仲がよくてな。父が暴走して、私を巫女にしたいと思っていると来たものだ。どうすればいいのやら。ちょうどよい、誰か意見を持たないか?」
 恵理香が一同に聞くと、一同がそれぞれ考えはじめた。
「高校生なんだろ?じゃあ、勉強したいからって理由じゃ、ダメなのかい?」
 修平がお茶を飲みながら聞く。
「勉強できる環境ではないのだよ。今私が通っている高校は、不良高校でな。芽視山高校、といえばわかるか?」
「まじか。府炉谷高校と並ぶ、低レベル高校じゃ…あっ」
 言ってしまってから、竜馬は口を押さえた。
「失礼じゃない、竜馬」
 アリサが竜馬の尻を、ぎゅうっとつねる。
「いつっ!ああ、ごめん…」
 今回ばかりは、アリサにつねられても、竜馬は何も言えなかった。
「よいのだ。私も、入りたくて入ったわけではないのでな。何せ、舞台を休めない日に、行きたい高校の受験日があってな。泣く泣く諦めたのだよ」
 各々の湯飲みに、恵理香がやかんから麦茶を足した。
「不良高校なんてやめてしまえ、というのが彼の意見なのだよ。別にやめてもいいのだが、やめたらそれこそ思うつぼだ。役者の仕事も続けたいし…」
「じゃあ、役者一本槍で行きたいからって言えばいいんじゃない?好きなんでしょう?」
 アリサがもっともなことを言った。
「こんな拙い演技で、役者になれるとは思っていないよ。好きだからこそ、まだ煮詰めたいのだ。役者の専門学校に入ることも考えたが、それで問題が解決するとも思わないしな」
 うーん、と部屋の中にうなり声が響いた。と、唐突に、ぐうっと真優美の胃が大きく鳴った。
「あ…ごめんなさい、恥ずかしいなあ…えへへ」
 照れ隠しに真優美が笑う。
「よし、食事にでも行こうか。せっかく来てもらったんだ。私の知ってる和食屋を紹介しよう。着替えるので、少々時間をくれ」
 恵理香は立ち上がり、にっこり微笑んだ。


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