1年2組の教室は、一見いつもと変わらなかった。だが、いつもの1年2組を知っている人物から見れば、おかしいことは一目瞭然だ。昼休みに健全にトランプをしていた連中が、今はカード麻雀をやっている。いつもは小説本を読んでいるおとなしい女子が、今は携帯音楽プレイヤーで音楽を聴きながらアダルト雑誌を読んでいる。適当なことばかり言っていた若者風の生徒が、今は真面目に勉強をしている。
「何なんだ…」
 竜馬はそのありさまを見て、別の教室に入ったかのような錯覚を覚えた。修平、真優美、美華子は見あたらない。変わってしまった友人を見ないで、ほっとしたような残念なような気持ちで、竜馬はイスに座り込んだ。
「あった。これよ」
 アリサはカバンの中から、白い箱を取り出した。連邦標準文字でラブポイズンと書かれている。
「まず説明書だ。何か書いてあるか?」
 説明書を取り出し、机の上に広げる竜馬。15ヶ国の言葉で、それぞれ注意書きが書かれている。
「特におかしいことはないはずなんだけど…あ!」
 アリサは小さく声をあげた。彼女の目線を辿ると「この薬品は薄いピンク色で、ハッカの匂いがします」と書いてある。だが実際の薬は、無色透明だ。
「説明書のミスじゃないのか?」
 どこを見ているか気づいた竜馬が、薬瓶を手に取る。
「どうだろ、わかんないけど…」
 ぶぶぶ
 アリサのポケットで、振動音が鳴った。携帯電話が着信を報せている。見たことのない電話番号に、アリサは少々ためらったが、電話を取った。
「もしもし?」
『もしもし。いきなりのお電話、申し訳ございません。株式会社ギャラクシー通信販売オメガの販売担当、アガザルと言います。アリサ・シュリマナ様でよろしかったでしょうか?』
 しわがれた早口で、電話の主は捲し立てた。
「ええ、そうですけど…」
 嫌な予感がして、竜馬をちらりと見る。竜馬には電話の内容は聞こえていないようだが、相手が誰だかはわかったようで、しかめ面でうなずいてみせた。
『実はこの間、当社の商品である、ラブポイズンをお売りしたと思います。間違いありませんでしょうか』
「ええ、間違いないです。それが何か?」
 電話が竜馬にも聞こえるように、アリサは音を大きくする。
『実は、包装関係でミスがございまして、その瓶に入っているのはラブポイズンではございません。なので、服用をしないで、返品して…』
「えー!もう使っちゃったわよ!」
 アリサの大声に、一瞬教室が静まり返った。だが、すぐに元の通りうるさくなりはじめた。
『えーと、どのように使用しましたか?対象者の年齢や、症状は…』
「高校生、教室1教室分よ!なんだかわからないけど、いつものみんなじゃなくなっちゃってる!」
『え、ほ、本当ですか…あ、あの、少々お待ちください』
 電話の向こうで、かすかにメロディーが流れてくる。しばらくして、そのメロディーは唐突に切られた。
『薬品開発部門のペネロープです。今回は当方の手違いで…』
「そんなことはどうでもいいわ。一体これは何なのよ」
 女性の声を遮るアリサ。竜馬が困った顔で薬瓶を見下ろす。
『実はそれは、現在開発中の試作品でして。人工的に躁鬱病を起こす薬なんです』
「そううつびょう?何それ?」
『えーと、簡単に説明いたしますと、急激な高揚感や抑鬱感のことです。これは精神治療に役立つということで、売り出すつもりだったのですが、まさかこんなことになるとは…』
 電話の向こうで、大きなため息が聞こえる。
「ため息をつきたいのはこっちよ。どうすれば治るの?具体的に、何が起きるの?」
『それが、すぐに治す方法は、今のところないんです。1時間から2時間で元の通りに戻ります。それに、なにぶん開発中のものでして、効能が安定しないのです。性格的に反転してしまったり、深層意識下で自分が望むような性格になったり、凶暴になったり、思っていることと逆のことをしはじめたり…一過性の精神障害ですから、治ったら元通りになるのですが、もしかするとこれが原因で、何かしてしまう可能性も…』
「…大変!」
 アリサがいつになく深刻な表情を作った。
『と、ともかく、すぐに我が社のエージェントを向かわせます!大変申し訳ございません!』
「ええ、急いで。失礼するわ」
 アリサは電話を切って、竜馬の方を向き直った。
「どうしよう…」
「1時間か2時間、おとなしく待つしかないな。お前はこのことを如月先生に報せて来てくれ。俺、修平達を探してくる。この説明書、持ってってくれ」
 竜馬は説明書を折り畳み、アリサに持たせる。
「わかった!」
 急いでアリサは部屋を出ていった。その後ろ姿を見送って、竜馬は席を立った。今のところ、何か起きそうな気配はない。性格が変わったことによるトラブルはあまり発生していないようだ。
「おう、竜馬。戻ってきてたんか?」
 後ろから聞き慣れた声が聞こえ、竜馬は振り返る。そこには修平が立っていた。そして、彼の周りには、クラスの女子数人が修平に熱い視線を送っていた。
「どうしたんだ、この人たち」
 何か危ない雰囲気を感じて、竜馬はたじろぐ。
「いや、よう知らんけど、ついてくんねん。俺、なんかしたんかなあ…」
 訳が分からないと言った表情で、修平が頭を掻いた。
「つか、何で関西弁なんだよ」
「いや、自分ではわかれんけど…別に変に喋ってるつもりないねんで?んな、おかしいかな…」
 自分の席に座り、机の中からパンを出す修平。その隙を見逃さず、集まっていた女子がなだれこんできた。
「うわっ!」
 竜馬は女子に押し流され、床に倒れた。
「あ、あの、これ食べてください!」
「すいません、これ…」
「そんなパンなんか栄養バランス悪いでしょ、これを…」
「お弁当、あげます!」
 修平の机は、あっという間にレストランか弁当屋の店先のような豪華さになった。
「いや、あんな、気持ちは嬉しいんやけど、俺そんな食えんし、みんなが食べる分がなくなってまうやろ?ほら、調理実習もあったし、あんま腹減ってないねん」
 困った顔で遠慮する修平。そんな彼を見ながら、女子が口々に賛辞を述べた。どうやら修平は、薬のせいで、いつもはなりを潜めていたもてる要素が出てきたらしい。
「ばかばかしい。たかが昼飯1つでこんな騒ぎになるなんて」
 竜馬は呆れ顔でぼやいた。と、今まで修平を取り囲んでいた女子が、今度は竜馬を取り囲む。
「たかが昼食ってなによ!」
「錦原君、かっこいいと思ってたけど、そんな女心のわからない発言するなんて!」
「えーい!やっちゃえ!」
 女子が一斉に竜馬に襲いかかった。防御しようにも、四方八方から攻撃され、為すすべもなく床に倒れる。
「何でこうなるんだ!」
 竜馬は叩かれた頭を押さえながら、逃げるように教室を出た。
「まさかあんな効果まで出るとは…」
 女子に囲まれて、慌てている修平を振り返り、竜馬がつぶやいた。


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