アリサはぎゅっと、竜馬に抱きついていた。いつもならば、力強く、竜馬の体が壊れるほどに抱きついているだろうが、今はそんな必要はない。手を離しても、竜馬はどこへも行かないことが、はっきりとわかっているからだ。
「もう離れたくないの…」
アリサは小さな声で言い、竜馬の胸に鼻をこすりつけた。大好きな男の匂いを胸一杯に吸い込み、安心感を体中で味わう。
「離れる必要なんてないさ」
竜馬は優しくアリサを撫でる。髪を、耳を、そして頬を。竜馬の手が毛を撫でるたび、アリサは幸福が心の中に降り積もるのを感じた。我慢できず、涙があふれる。
「どうした?もしかして、嫌だったか?」
竜馬は心配そうな表情でアリサを見つめた。
「ううん…嬉しいから…なんでかな、泣いちゃうの…」
竜馬の手が、アリサの涙を拭った。
「アリサ。今まで俺は、なんでお前のかわいさに、気づくことが出来なかったんだろう。本当に悪かった」
竜馬の頬を、涙が伝った。アリサがそれをぺろりと舐める。
「私こそ、ごめんね…素直になって、少し自分を抑えて、竜馬と接していればよかったね…うん、今まで、ごめん…」
いつもは言えなかった、素直な台詞が、アリサの口から出た。今こうして竜馬といられればそれでいい。例え、この後に地獄へ堕とされようとも。
「ねえ、キスして?」
アリサは竜馬の目を見つめる。
「いいとも。かわいいわんこは、どこにキスしてほしいのかな?」
「もちろん口よ〜。くふふ、かわいいわんこだなんて、恥ずかしいな」
竜馬の目を見つめるアリサ。彼の顔が近づいて来たのを見て、そっと目を閉じた。
ごんっ!
「きゃん!」
アリサは強い衝撃を感じて目を開けた。目の前にいるのは竜馬ではなく、堅く無愛想な床材だった。
「いったー…夢か…幸せだったな〜…」
後ろに下がろうとして、自分がうつぶせに倒れていることに気が付く。顔を上げると、そこは保健室だった。相変わらず、保健室の主である先生はまだいない。隣のベッドにカーテンがかかっているところを見ると、誰か来て休んでいるようだ。
「寝たら気分よくなったわ。今、何時だろ…」
時計を見れば、既に4限が終わる時刻だ。1限2限の調理実習は、とっくに終わっていることだろう。
「もう昼休み…早いなあ…」
ポケットから携帯を出し、メールをチェックするアリサ。特に誰からのメールも来ていない。立ち上がり、靴を履く。
「んー…」
隣のベッドから聞こえてきた声に、アリサは体を堅くした。そっと中を覗くと、そこには竜馬が寝ていた。長袖シャツを着て、ネクタイが横に曲がっている。
「まさか…」
アリサの脳内を、先ほどの夢が駆けめぐる。竜馬がここにいるのは、まさか自分を待っていたからではないか、という考えに彼女が至るまでに、そう時間はいらなかった。
「まさかそんなこと…」
一度は否定してみるが、その考えは大きくなっていく。何より、目の前には無防備な竜馬が寝ている。
「キス、くらいは、いいよね…」
アリサは周りに誰もいないことを確認して、竜馬の顔にそっと自分の口を近づけた。
「ん…」
竜馬はアリサの口から逃げるように寝返りを打った。うっすらと竜馬の目が開く。
「うわ!」
目の前にアリサの顔を見て、竜馬は小さく悲鳴をあげた。だが、目の前にあるのがアリアの顔だとわかると、安心した顔で息をついた。
「竜馬、起きた?竜馬も保健室に来てたのね〜」
アリサは期待を込めて、竜馬に声をかけた。もし真優美の段取りがよければ、竜馬は今頃ラブポイズンの効果で、愛情に対してオープンになっているはずだ。
「昨日徹夜してよ。調子悪いんだ。お前は?」
「私もちょっとレポートやってて…」
他愛ない話をしながら、アリサはそれとなく竜馬の手を握った。
「なんだよ」
竜馬は少し嫌そうにアリサの手を外した。
「ああ、もう我慢できない!」
がばっ!
アリサが靴を脱ぎ、ベッドに昇り、竜馬に覆い被さった。
「何すんだ!てめえ、本物の痴女か!」
「そんなこと言っちゃって…本当は竜馬もこうしたいんでしょ?ほら、誰もいないわよ?」
アリサはにやにやしながら、鼻面を竜馬の胸にこすりつけた。その手が、ズボンに伸びる。
ぺしーん!
「きゃん!」
竜馬の手がスリッパを握り、電光石火の早さでアリサの頭を叩いた。
「いたた、何するのよぅ」
アリサは頭を押さえる。もちろん、竜馬の上からはどかない。
「それはこっちの台詞だ!この…」
がらっ
竜馬がもう一回殴ろうとしたときに、ドアが開いた。2人がそっちを見る。
「君たち〜。そういうことをするのは、出来れば放課後に、家でにしてほっしいものですねぇ。はい〜」
野太い男の声が、狭い保健室に響き渡り、アリサはびんと尻尾を立てた。目の前に立っていたのは、スキンヘッドで彫りの深い顔をしている、マッチョな男性だった。
生徒会発行の、天馬高校白書にはこうある。如月愛子、地球人男性。国籍は日本。身長推定2メートル、体重推定80キログラム、体脂肪率推定3パーセント以下。彼が殴れば鉄の扉に拳の跡がつき、彼が蹴ればプレハブ小屋が吹き飛ぶという。2文字で表すならば兄貴。だが、心はとても優しいし、生徒とも気さくに接する良い教師。教える科目は保健だが、本当は体育を教えたいらしい。トレードマークは白衣とランニングシャツで、一部の女子には人気がある。
「避妊しないと、どうなっても私はしりまっせんよぉ〜?それに、そのベッドは、病人が使うものです。さあ、元気ならば、降りなさい〜。ただでさえ、私はいっそがしいんですから…おかしな病気が…」
ぶつぶつと文句を言いながら、如月先生はポケットからメモ帳を取り出した。
「あのー、おかしな病気ってなんですか?差し支えなければ、お聞かせください」
アリサはかしこまってベッドから降りる。
「いやぁ〜、なんでも、性格がおかしくなった生徒が、大量に出ましてね…たしかあれは、1年2組。教室全体が、まっさにカタストロフになっています、はい〜」
アリサはその言葉に、背筋が凍り付くのを感じた。真優美が間違えたに違いない。竜馬自身が何も変化がないところを見ると、彼は飲んでいないに違いない。
「竜馬、いつ頃保健室に?」
「1限の半分くらいのときだ。そんときは、みんな普通だったぜ?」
やっぱり、とアリサは心の中でつぶやいた。
「今、1年2組はどんな感じですか?」
書類に状況を書き込んでいる如月先生に、アリサは聞いた。
「いつもの昼休みとは、ぜんっぜん違いますねぇ〜。心配なら行ってみたらどうですね?もし原因究明したら、私のところに来てください、はい〜」
「わかりました。必ず」
アリサは保健室のドアを開ける。靴を履いた竜馬がその後を追った。
「アリサ、お前、まさか何か知ってるのか?」
竜馬がアリサの背中に向かって言う。その言葉に、アリサがぎくりとして、立ち止まった。
「し、知ってるわけないじゃない。何でそう思うの?」
振り返り、竜馬の目を見るアリサ。竜馬の目からは、何も読みとれない。
「いつもの癖だよ。尻尾見てりゃわかる」
アリサの尻尾は、ふらふらと左右に揺れている。それは今走っていたからだけではなかった。
「んもう、尻尾とかお尻とか見るなんて、やらしいわね〜」
アリサはその場でくるりと1回転した。スカートがひらりと持ち上がる。
「はぐらかすなよ。ほんとのこと言わないと、ひどい目にあわせるぞ」
竜馬はアリサのスカートから目を逸らす。
「ひどい目、あわせてほしいわ。ねえ、どんなことするの?」
アリサが上目遣いで竜馬の目を見つめた。
「それは…」
がんっ!
アリサの後頭部に何かが当たり、アリサは前倒しに倒れた。顔が竜馬の胸に押しつけられる。
「いったー!誰よ!」
涙目になり、アリサが振り返る。そこでは、2人の生徒による、壮絶な乱闘が繰り広げられていた。よく見れば、1年2組の仲がいい、地球人のカップルだ。普段は彼氏優位で彼女がそれについていっていたのが、今は気弱な彼氏が彼女に一方的に責められている。
「ほんっとダメ人間なんだから!この!」
彼女がその場に置いてあった花瓶を投げる。彼氏はそれを避けたが、射線上にいた竜馬の頭に花瓶が当たった。
がちゃん!
「いてえ!」
割れた花瓶の破片が廊下に散らばる。
「と、とりあえず避難!」
アリサは、頭を押さえている竜馬を抱え、一目散に走り出した。1階の隅、普段使われていない、倉庫になっている教室に、アリサは竜馬を抱えて逃げ込んだ。
「もう大丈夫みたいね」
息をつき、竜馬を下ろすアリサ。抱えていた彼の手が、自分の胸に触れていたことに気が付き、少し恥ずかしそうな顔をした。
「一体何があったんだ?今1年2組に行って大丈夫なのか?」
竜馬は机の上の埃を払い、突っ伏した。竜馬の向かいにはアリサが座って、肩で息をしている。
「なんかおかしいのよね。あんなことになるとは…」
アリサが小さく独り言を言う。竜馬には聞こえないと思っていたらしいが、竜馬の耳にはばっちり届いていた。
「ほら見ろ。やっぱり何か知ってるんじゃないか」
アリサの顔を竜馬が睨む。
「だってぇ、こんなことになるとは、思ってもいなかったんですもの。無関係だと思ってたのよ」
「何をしたんだ?ほら、怒らないから言ってみ?」
ぶすくれた顔をするアリサに、竜馬が優しく聞く。
「実は…」
アリサは俯いて、ぼつりぼつりと話し始めた。通信販売で薬を買ったこと。その薬は、人の愛情を増幅すること。そして、それを竜馬に飲ませようとしていたこと。最初は普通の顔をして聞いていた竜馬だったが、薬の効能を聞いたころから雲行きが怪しくなり、飲まされるかも知れなかったということを聞かされたときに怒りが爆発した。
「バカ野郎!そんな危なそうな、いかにも怪しいもの、なんで!」
「なによー!それもこれも、竜馬が正直に、私を好きだって言ってくれないのがいけないのよ!」
竜馬の怒りに触発されたかのように、アリサが言い返した。
がたんっ!
部屋のドアが大きく揺れ、2人はそっちを向いた。外に人影はない。どうやら風のようだ。
「…ともかく、何が起きたか、確認しなきゃならない。あれは、人を凶暴にする薬だったのかも知れないし、そうじゃなくて何かおかしいことを起こす薬だったのかも知れない。地球人の体質にはあわない薬だったりな」
竜馬はイスから立ち上がった。
「教室に行けば、残りの薬と説明書があるわ」
「まずはそれを見てみよう。行くか」
竜馬は教室のドアを開け、外へ踏み出した。
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