アリサが寝ているころ、調理実習は何事もなくスタートしていた。人間少年の竜馬は、同じく人間少年の修平と組んで、調理実習を進めていた。竜馬は普通体系、髪がぼさぼさしている少年で、修平は大柄な、角刈りの少年だ。他に、真優美と美華子が同じ班で、ここにアリサが加わるはずだった。班決めはクラスで適当、5人から6人のグループを作るということだったので、それなりに仲のよかった5人が組んで調理することになっていた。
「あー、くそ、切れねえ」
修平が包丁を持ち、鶏肉を切ろうと悪戦苦闘している。美華子と修平が並んで、それぞれまな板の上に食材を乗せ、包丁を使っているが、2人とも上手くいかないようだ。美華子は黙って作業を続けているが、少しいらいらしているようで、表情が固まったままだ。修平は肉を切ろうと悪戦苦闘している。
「うーん…たった2時間じゃ、これだけ作るのは、無理ですよぉ」
真優美が前の黒板を見て、ため息をついた。炊き込みご飯、ポテトサラダ、野菜炒め、チキンソテーに卵スープ。最後に、シュークリームを作って出来上がり。熟練の主婦やシェフならば、これぐらい簡単に作ってしまうだろうが、素人の高校生集団には少々荷が重いようだ。あちこちで、様々なトラブルが起きている。
「刃物は引くときに力が出るんだよ。肉は軟らかくて切りにくいから、出来るだけ引くように切るんだ」
修平の手から包丁を取り、竜馬が実演してみせる。本来ならば、こういった基本事項は教師が教えるのだろうが、教師はいつの間にかどこかへ消えていた。
「上手いもんだなー。俺、ますます脇役になっちゃうよ」
竜馬の包丁さばきを見て、修平が感嘆の声をあげた。
「料理の上手い下手で主役脇役を決められちゃたまんないよ。ほら、やってみ?」
包丁を修平に返し、手を洗い直す竜馬。その間に、美華子が皮を剥いたジャガイモを、鍋の中に入れた。
「なあー、錦原。これ、どうやって使うんだ?上手くいかねえんだよ」
隣の班から、一人の男子が来て、竜馬に声をかけた。彼の手には、ピーラーが握られている。よく見れば、ピーラーの刃がぐらぐらと動いており、壊れていた。
「これ、壊れてるじゃん。新しいの取ってこないと」
「まじかよ。どこに置いてあったっけ?」
「確か、食器棚の…」
男子生徒について、竜馬が席を外した。修平は鶏肉と、美華子は椎茸と戦っている。
「ビタミン剤なら、みんなが飲んだっておかしくないよね…」
真優美はポケットから、先ほどの小さな瓶を取り出した。竜馬の食事だけに入れるのは面倒くさいと感じた真優美は、周りを見回して、誰も見ていないことを確認してから、鶏ガラスープの素に液体をかけた。どろっとした透明な液体が、固形スープに絡まり、染み込んでいく。
「ただいま。米炊かないといけないんだったな」
何も知らずに、竜馬は美華子の切った椎茸を取った。
「タケノコ、椎茸、ゴボウに鶏肉、と。あとゴボウ切ってくれ。あ、チキンソテー用の鶏肉は、切らないでいいからな」
手際よく米を研ぎ、水を切る竜馬。小さなボウルに、調味料を入れ、計量スプーンで混ぜる。
「野菜多すぎ。なんなの?本当に腹が立つ」
ゴボウを刻みながら、美華子がいらいらを表に出した。
「美華子ちゃん、包丁が似合いますねえ」
真優美がにっこり笑い、最初から半分になっているタマネギの皮を剥く。
「それ、皮肉?」
「違いますよぉ。ただ、いいお嫁さんになるんじゃないかな〜って」
「やっぱり皮肉だわ」
ガンッ!
叩きつけるように、美華子は包丁をまな板めがけて振り下ろした。
「そんなことしたら、包丁がだめになるよ。こう、切るとき工夫すると、効率よく…」
ずるっ
美華子に包丁の使い方を指南しようと、後ろから近づいた竜馬だったが、足下にこぼれていた水のせいで転んでしまった。
「うわっ!」
そのまま、美華子に後ろから抱きつく形で、竜馬は転んでしまった。美華子の背中に顔が押しつけられる。
「っと」
美華子が包丁を取り落とす。金属の流し台に落ち、からんと音を立てた。
「わ、悪い、大丈夫?」
慌てて竜馬が美華子から離れる。
「大丈夫。次から気をつけて」
「あ、うん、悪い…ケガなかった?」
竜馬が美華子の横に立ち、心配そうな顔で手を見る。
「ない。それより、ゴボウ刻んだから、ご飯炊いて欲しいんだけど」
「わかった…」
竜馬が肩を落とし、炊飯器を開いた。美華子の刻んだゴボウと、細切りのタケノコ、鶏肉、椎茸を取り、炊飯器の中に入れる。仕上げに調味料を流し込んで、蓋をした。コンロを見れば、ちょうど片方ではジャガイモがいい具合に茹であがり、もう片方では新しく湯が沸いていた。
「はあ…」
ため息をつきながら、竜馬は湯の沸いた鍋に鶏ガラスープを入れた。美華子の態度はよくわからない。怒っているのか、それとも普通なのか。悩みながら、鶏ガラスープと同じ皿に卵を割り、箸で溶いて鍋に流し込む。竜馬の行動が、真優美は気になるようで、ちらちらと竜馬を見た。
『正直に話して、ビタミン剤を竜馬君だけに飲ませた方が。良かったのかなあ。でも…』
「真優美ちゃん、どこまで剥くんだ?」
修平の一言で、真優美ははっと気が付いた。手元にあったタマネギが、かなり剥かれて小さくなっている。
「あ、ご、ごめんなさい〜」
真優美は慌ててタマネギをかき集め、粗く洗うと、まな板の上に置いた。修平がそれを受け取り、みじん切りにする。
「目が染みるの、なんとかならないんだろうか…」
竜馬は目をこすった。彼の目からは涙があふれている。美華子と修平も同じように目が痛いらしく、時折目をこすっていた。真優美はそんな一同から少し離れ、使い終わった食器を洗っていたが、彼女の敏感な鼻がタマネギの臭いを吸ってしまうせいで、鼻をすすっていた。
「これなー、硫化アリルっていう化学物質のせいなんだよ。空中に飛散するから目が痛くなるんだよな。手にも臭いがつく。殺菌効果があるし、悪いものでもないんだけど、こうなると話は別だよな」
目を拭い、タマネギを刻む修平。包丁の動きがおぼつかない。
「いかん、気分悪くなってきた…頭痛が…」
竜馬が目を押さえて、俯いた。
「どうした?いつも料理してるお前が、タマネギごときにやられるとはふがいないな」
一度刻んだタマネギを、さらに小さく刻む修平。美華子は少し修平から離れ、ティッシュを出して鼻をかんだ。
「違うんだよ。昨日、ろくすっぽ寝ないで、レポート書いてたんだ」
竜馬はジャガイモをザルにあけて、フライパンを置く。何度も調理実習に使われたらしいそのフライパンは、所々錆びていた。
「レポート…ああ、社会の。あんなのわかるわけないし」
ジャガイモを受け取った美華子が、ボウルの中でポテトサラダを作り始める。
「昨日は一晩、ネット見ながら調べ物。寝たのが3時だぜ?遅刻しそうになって、普段使わない自転車飛ばして学校に来たんだよ…」
フライパンに油を流し込み、モヤシを入れる竜馬。景気のいい音と共に、フライパンから湯気が立った。
「お前、入学当初は自転車だったのに、今乗ってないもんな。どうしたんだ?」
「みんなで歩いて帰るとき邪魔じゃん。あ〜くそ、目がかすむ…」
竜馬の持つフライパンがぐらりと揺れた。モヤシが数本、コンロの上に落ちる。
「みんな調子悪いんですね〜。アリサさんも、今保健室で寝てますよ〜」
「まじか。あー、保健室にも行けないじゃねえか」
真優美の言葉に、竜馬はため息をついた。
「別に大丈夫だと思うけど。だって、アリサにもそんな体力なかったし。錦原、過敏すぎ」
ポテトサラダのボウルにタマネギを一掴み入れ、美華子が言った。金色の目から、一筋涙がこぼれる。クールな美華子も、硫化アリルには勝てないようだ。
「素直に保健室行ったらどうよ?心配なんだよな。ほら、代わるから」
修平が竜馬の手から、フライパンの持ち手を受け取った。
「すまんな〜。ああ、食欲までなくなってきた。スープ、出来上がった感じだから、味見してくんない?」
小さな取り皿にスープを少し入れる竜馬。次の仕事に手を出そうとしていた真優美を捕まえて、皿を渡す。
「あ、美味しい」
真優美がスープの味見をして、にっこり笑った。少し白く濁ったスープは、他の班の作ったスープとは違っている。
「そんなに?」
「ええ。食べてみてください〜」
真優美は美華子にスープの取り皿を渡す。
「確かに美味しい。普通と違うような。何使ったんだろう」
美華子もその味を気に入ったようだ。配られたプリントを出して、スープの作り方の項目を凝視している。周りの班も、それを聞きつけて、少しずつ寄ってきた。
「じゃあ、俺、保健室行くから、後頼むわ」
手を洗った竜馬は、ふらりと部屋を出た。
「あ、竜馬君、せめてスープだけでも食べていきませんか?」
真優美が慌てて竜馬を引き留める。ここで竜馬がスープを食べなければ、彼にビタミン剤を飲ませることが出来ない。
「いや、俺はいいや」
竜馬は調子が悪い顔をして、手を振った。
「うーん、美味しいのに…少し取っておきますから、後で食べてくださいね〜?」
「んー…わかった」
真優美の声を背中に聞きながら、竜馬は家庭科室を後にした。
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