「…アリサ、怒ったかな」
 時計の長針が、45度ほど動いた後、竜馬はぽつりとつぶやいた。
「あいつが悪いんだよな。あんな、いつもうっとおしくて、気まぐれで…」
 そう言いながら、竜馬の中に、だんだんと不安な気持ちが膨らんできた。アリサは確かに、気まぐれでうっとおしくて、他人のことを考えずセクハラをするような人間ではあるが、それと同時に他人に優しくする一面も持っている。今も、竜馬のことを楽にしようと、マッサージをしたり、食事を作ってくれたりしている。ひょっとすると、自分がアリサをしっかりと見ていなかっただけではないのだろうか、と竜馬は思った。一度そう思うと、不安はだんだんと大きくなっていく。
「やっぱ謝ろう…思えば、いろいろしてくれてたもんな…」
 ベッドから起き上がり、床を踏みしめる。居間へのふすまを開けると、そこにアリサの背中が見えた。今の竜馬の目には、アリサの背中が小さく見える。
「なあ、アリサ」
 控えめに声をかける竜馬。彼の声に、アリサはびくりと背中を震わせた。
「な、なあに?」
「いや、さっきは悪かったと…」
 そう言いながら、アリサの前に回り込む竜馬。彼女の手には、一枚の紙が握られていた。さっと、竜馬に見られないように、アリサが紙を隠した。
「今のは?」
「え?れ、レシピよ。健康レシピ。それより、お粥出来てるから、食べて食べて」
 アリサが立ち上がり、小さな取り皿を取った。キッチンにある鍋の中からお粥をよそい、竜馬の前に置いた。
「くふふ、美味しいわよ〜」
 一瞬、アリサの顔が邪悪に歪んだ気がして、竜馬は目をこすった。見直せば、アリサはいつもと変わらない微笑みで、竜馬を見つめている。そこまでアリサを悪者として見てしまう自分に、嫌悪感を抱きながら、竜馬はスプーンを手にとった。
「なんか、色がおかしいんだが…」
 皿の中を見て、もう一度目をこする。異様に黄色い気がする。鼻が詰まって、匂いまではわからないが、竜馬には普通のお粥には見えなかった。
「気のせいよ。まあ、食べて?」
「ああ、うん。そうする。ほんと、悪いな…」
 竜馬は深くため息をついた。
「どうしたの?」
 アリサが竜馬の顔を覗き込む。
「いや、何でもない」
 スプーンにお粥をすくい、一口目を口に運んだ。
「ん?」
 舌の上に、強烈な酸味が広がった。それと同時に、甘みも。この味に、竜馬は覚えがあった。
「ああ、ミカン味か…これ、美味いよ」
 二口、三口と食べながら、竜馬は言った。
「…え?」
 アリサはなぜか、意外そうな顔をして、竜馬を見つめて固まっていた。
「あ、美味しい?うん、そうよ、愛情たっぷりですもの。もう、竜馬ったら、やっと私の愛に気づいてくれたのね?」
「愛はどうでもいいけど、本当に美味いなあ」
 かちゃり
 竜馬はスプーンを置いて、アリサを見つめる。
「な、何よ。どうしたの?」
 見つめられ、アリサは恥ずかしそうに、目線を逸らす。
「いや、案外普通でよかった。さっき、怒らせちゃったんじゃないかって、思ってさ。いろいろしてもらってんのに、悪かったよ」
 竜馬が深々と頭を下げる。
「べ、別にいいのよ。私、もう怒ってないし」
 謝られて、さらに恥ずかしくなったようで、アリサは目を逸らして髪をいじりはじめた。長いブロンドがアリサの指に巻き付く。アリサの頬に、竜馬が手を伸ばし、そっと撫でた。
「柔らかい。手入れしてるんだな」
「だって、女の子だもん。当然よ〜」
 軽く、犬にするように撫でると、アリサは嬉しそうに鼻を鳴らした。
「それにしても、このお粥、美味いな。おかわりもらっていいか?」
「あ、うん。どうぞ?」
 竜馬はすぐに皿を空にした。台所に立ち、おかわりをよそっていると、鍋の横にビデオカメラが置いてあるのを見つけた。録画スイッチがオンになったままだ。
「ああ、これで料理シーン撮ってたのか」
「え?」
 カメラを取り上げた竜馬を、アリサが引きつった顔で見つめる。
「ちょうどいいや、どうやって作ったか、ちょっと見せてくれよ」
 巻き戻しボタンを押し、データを巻き戻す。
「だ、だめえ!」
「え?」
 アリサがビデオカメラを奪おうと、竜馬にむしゃぶりついた。突然のことに、竜馬は意味もわからず、流し台に背中をぶつける。そのとき、アリサの指が、「誤って」再生ボタンを押してしまった。
『何よ。竜馬なんか、もう大嫌い!あ〜、だめ、噛みつきたくて仕方ないわ』
 ビデオカメラから、アリサの声が流れ出した。当の本人は、その声を聞いて、凍り付いた。
「なんだ、やっぱり怒って…」
 竜馬がそう言ったとき、画面に瓶が映った。黄色い液体のたっぷり入った瓶だ。
『わさびとかからしもいいけど、たまには新しい刺激が必要よね。涙目の竜馬が目に浮かぶわ〜、くふふふ』
 嫌らしい笑い声を挙げながら、画面の中でアリサが、鍋に液体を注いでいく。アリサが瓶を置くと、ラベルに書いてある文字が写った。そこには、「注意!強い酸味、刺激によって、獣人体系の方は健康を害するおそれがあります」と書いてあった。
「…要するに、俺を苦しめようと、ミカンソースを入れたってことか?」
 ビデオを一時停止して、アリサに問いただす竜馬。アリサはばつが悪そうに、尻尾を振ったり耳を動かしたりしていたが、観念して頭を下げた。
「うう、だって、真優美ちゃんのことは誉めるのに、私のことは嫌いだって言うから、悔しくて…」
「んー、まあ…結果的に悪い方向には行かなかったし、別に怒らない…ん?」
 アリサを慰めようとした竜馬が、ビデオカメラの画面に表示された、録画時間に目を奪われた。既に40分程度、録画している。マッサージのときに取り出したはずだから、そんなに長い間録画しているはずがない。興味本位で、竜馬はデータ一覧を見た。
「ほら、竜馬、カメラ返して?」
「いや、ちょっとまって。なんか、録画時間が長い気が…」
「な、なんでもないのよ〜。ただちょっと、録画テストをしてただけで…」
 竜馬の手を、アリサがぐいと引っ張る。
「いいじゃん、見せてくれよ」
 そんなことをしている間にも、竜馬はカメラを操作する。2本、動画が保存されているらしい。1本目を再生すると、食器やタオルを置いてある棚に、カメラが納められているらしいワンシーンが、画面に表示された。
 がらっ
 風呂場のドアが開く音が、カメラから流れた。画面に、全裸の竜馬が、風呂場から出てきたところが映し出された。
『だいぶすっきりした。風邪なんか引くもんじゃないな…』
 竜馬の声が流れた。そこまで見て、竜馬は、その動画がどういう意図で、どのように撮られたかを理解することが出来た。
「ち、違うの!これは…違うのよー!」
 再度、カメラを奪おうと、アリサが掴みかかる。
 はらり
 アリサのスカートのポケットから、先ほどの紙が落ちた。その紙はレシピなどではない。今の動画のワンシーンとおぼしき、竜馬の裸画像が、印刷されていた。まさかと思って、部屋を見回す竜馬。見ればアリサの荷物から、カメラと対応して写真や動画を印刷する、ハンディタイプのプリンターが、顔を覗かせていた。
「…」
 竜馬は無言でアリサを見つめていた。何も言わず、彼女の顔を、ただじっと見つめていた。
「あ、そ、そうだ。私、お布団敷くね。夜中に体調を悪くしてうなされても、私がいるから安心してね?」
 アリサは竜馬の部屋へ、いそいそと足を進める。
「この…変態女ぁ!」
 ぱしぃん!
「きゃいん!」
 気が付けば、竜馬の平手が、アリサの尻を、力いっぱい叩いていた。


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