東京に朝がやってきた。土曜日の朝は、金曜日までの仕事や学業の疲れが残っていて、少し気怠い。日の出と共に、街が起き出し、ゆっくりと動き出す。電車が走り、車が道を行く。今日も、普通の土曜日と、全く変わらなかった。
「っくしゅん!」
 アリサがくしゃみをした。先ほどまで竜馬が寝ていたベッドに、アリサが寝ている。時計は既に10時を差しており、窓から見える太陽はだいぶ高くなっていた。
「梅雨の合間に晴れか。気持ちいいなあ」
 竜馬が洗濯物を干しながらつぶやいた。調子はすっかりよくなり、風邪は治ってしまったようだ。服も、汗を吸った寝間着から、普段着に替えている。代わりに、アリサが風邪になってしまったようで、体調を崩して寝込んでいた。
「うう、まさかうつるなんて思いもしなかったわ…」
 のそのそとベッドから出て、竜馬の部屋を出るアリサ。目をこすり、大きくあくびをする。
「そりゃあ、あんだけべたべたすれば、風邪がうつるのも無理ないだろう」
「何よう、必死の看病をしてあげた私に、そんなきついこと言うの?」
「はは、悪い。感謝してるよ」
 洗濯物を干し終わった竜馬が、ベランダへの窓を閉めた。
「だるい…父さんも母さんも家にいないし…」
 アリサが髪を手で撫でながら、健康茶をコップに注いだ。
「いないのか?」
「うん。今日も明日も、出張で家にいないのよ。だからこうして、気兼ねなく竜馬の家に泊まれたんだけど…」
 コップをテーブルに置き、ふすまを背に座るアリサ。あまり気分はよくないようで、視線が虚空を彷徨っている。
「んー、困ったな…お粥食うか?」
 竜馬がテーブルの上に、昨日の残りのお粥を、皿に移して持ってきた。その匂いをかいで、アリサは口を押さえた。柑橘系の飲み物は大丈夫な彼女だが、きつすぎるものは好きではない。
「ごめん、柑橘系がきついのは…」
「ああ、そうだった。作り直すよ」
 鍋を軽く洗い、火にかける竜馬。計った米を研ぎ、炊くときより多い水を注ぎ、蓋をした。
「あー、これで米が最後か。姉貴の稼ぎに期待するか」
 米櫃の中の、米が砕けた粉を洗い流しながら、竜馬がぼやく。
「ありがとう。ねえ、迷惑かけちゃってる?」
 不安げな顔で、アリサが聞いた。
「俺だってお前に手間かけたしな。迷惑だとは感じないよ」
 コップを持つアリサの向かいに、竜馬が腰を下ろした。何の気もなく、竜馬がテレビをつける。ちょうど、遅い朝のニュース番組を放送しているところだ。
「ズボン持ってこればよかったな…」
 自分のスカートをつまみ、アリサがつぶやいた。
「ああ、そっか。ちょっと待っててくれ」
 自室に入る竜馬。しばらく、タンスの中を漁っていたが、1着の寝間着を取り出した。
「これ着ててくれ。サイズはあわないかも知れないけど」
 寝間着をアリサに渡す。アリサは竜馬の顔をぼんやりと見ていたが、はっと気が付いた顔をして、寝間着に顔を埋めた。
「ああ、竜馬の匂い〜」
 鼻をこすりつけ、匂いを吸い込むアリサを見て、竜馬はため息をついた。アリサは風邪を引いても本質が変わらないようだ。
「バカ。それ、姉貴のだよ。姉貴のクローゼットがいっぱいんなったから、こっちのタンスに入れてただけだ」
「え、そうなの?」
 竜馬の呆れた声に、アリサが寝間着から顔を離す。
「うう、残念だわ。せっかく竜馬のぬくもりを感じられると思ったのに…」
 がっかりしたような顔で、アリサはスカートのホックを外した。
「何してんだよ」
「え?着替えようと…」
「こ、こっちで着替えるなよ。ほら、そっち行って」
 竜馬は自分の部屋のふすまを開き、アリサを押し込んだ。
「あらぁ、別に私は見られても恥ずかしくないのよ〜?」
 アリサはにやにやと笑い、悪い顔をする。
「えーい、俺が恥ずかしいんだよ」
「くふふ、かわいい〜」
 なでなで
 竜馬の顔を両手で挟み、頬を撫でるアリサ。その顔は幸せそうだ。
「お前、風邪になっても、全然変わらないのな?」
 竜馬はアリサの手を払い、居間に戻ってふすまを閉めた。
「そんなに簡単に変わらないわよ。ちょっと苦しいけど、竜馬と一緒にいられる時間は、まだ終わってないし〜?」
 ふすま越しに、衣服と毛皮が擦れる音が聞こえてくる。
「もうそろそろ終わるだろ?」
「えー。病気で苦しいのに、私を放り出すつもり?」
 着替えたアリサが部屋から出てきた。
「これ以上一緒にいたら、何するかわからないって言うのはある」
 部屋の隅に置かれた、アリサのカメラをちらりと見る竜馬。風呂場の盗撮シーンはもちろん削除して、今は竜馬がバッテリーを預かっている。もちろん、アリサが勝手に撮影することは出来ない。
「何もしないわよ〜。だって、そんな体力ないもん。ああ、お腹空いたなあ…」
「それもそうだが、2人きりというのは…」
 ピピピピピ
 アリサのカバンの中から、電子音が聞こえた。
「あ、電話。誰かしら」
 カバンの中を漁り、アリサが電話を受ける。
『もしもし!真優美ですけど、アリサさん、変なことしなかったでしょうね〜!』
 電話から、真優美の怒鳴り声が響いた。ハンドフリーモードにしているわけでもないのに、竜馬の耳にもよく聞こえた。
「し、しないわよ。そんなに疑ってるの?」
『当たり前です〜!もう…あれ、なんか声、変じゃないですかぁ?電話のせいかな』
「竜馬の風邪がうつったのよ。竜馬はすっかりよくなったけど、私が体調崩しちゃって…」
 アリサの電話が続いている。竜馬は立ち上がり、台所の鍋の様子を見た。まだお粥は当分出来ないようだ。
「なんか、ちょっと間食出来るもの…」
 台所を見回して、竜馬はリンゴが置いてあることに気が付いた。昨日、アリサと真優美が買い物に行ったときに買ってきて、まだ食べていなかったものだ。
「これで少し待っててもらうか」
 アリサの電話する声と、テレビの音を背中で聞きながら、竜馬はリンゴの皮を剥いた。一瞬、幼い日に、母が剥いてくれたリンゴを思い出した。自分が食べない間に、姉と妹が全部食べてしまって、がっかりした覚えがある。リンゴを剥き終わった竜馬は、手を洗った後に、リンゴの皿を持って居間に戻った。
『ですから、あたし、後から行きますね〜。あと、美華子ちゃんが、竜馬君に漫画を返したいから、一緒に行くって』
「うう、わかったわよう。竜馬と2人きりがほんとはいいんだけどな…」
 電話口から漏れた声が竜馬の耳にも届いた。真優美と美華子も来るようだ。静かで気怠い土曜日も、またいつもの騒がしい土曜日になってしまうだろう。
『じゃあ、後で行きますからね〜』
 電話が唐突に切れた。アリサは携帯電話を折り畳み、寝間着のポケットに入れる。
「真優美と美華子が来るって。ああん、もう、幸せタイム終わっちゃうのよ〜」
「そっか。いろいろ、手伝ってもらおう。お粥出来るまで、これでも食べててくれ」
 アリサの前にフォークを置く竜馬。悔しそうな顔で、アリサがフォークを手に取り、リンゴを一つ刺した。口に運び、租借する。
「なんで果物っていうのはこんなに美味しいんだろうね。うん、美味しい」
 アリサはにっこり微笑んで、2つ目を取った。
「ほら、口移し。食べて〜」
 リンゴをくわえたアリサが、竜馬に顔を近づけた。
「いらないよ。口移しだなんて、恥ずかしいこと、よく出来るなあ」
 苦笑いしながら、竜馬もリンゴを一つ取った。
「何よ〜。お礼の気持ちを見せただけなのに…」
 アリサがぶうたれて、リンゴを口の中に放り込んだ。
「お礼なんていらないさ。俺の方がお礼するような立場だろ?」
「ん…まあ、それもそうね。じゃあ、今日一日、看病してくれる?」
 竜馬の言葉に、アリサがにっこりと微笑む。こうして見ている分には、アリサはとてもかわいらしい女の子だ。竜馬は、自分が親になったような感情が湧き上がってくるのを感じた。
「ああ、もちろん。まずはマッサージか?」
 素直に応じた竜馬に、アリサは意外そうな顔を見せる。だがすぐに、それは嬉しそうな微笑みに変わった。
「いいね〜。してくれると嬉しいな」
 にこにこしながらリンゴを食べるアリサを見て、竜馬は思った。これも悪くはない、と。日の光が、雨でくたびれ、水の匂いをさせている街を乾かしている。夏はもう遠くはなかった。


 (続く)


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