マッサージが終わった後、竜馬は風呂に入った。アリサがあらかじめ、風呂を沸かしておいたので、竜馬はすぐに入浴する事が出来た。人体とは不思議なもので、あれだけ強い力で揉まれた体が、湯に浸かってしばらくすると楽になっている。心なしか、熱も下がり、体のだるさが軽くなったような気もする。
「ねえ、一緒に入ろうよぉ〜、ねえ、ねえってば〜」
 がったんがったん
 風呂場のドアが揺れる。外では、アリサがドアを開けようとがんばっていた。風呂場は内側から鍵をかけることが出来る。そのおかげで、アリサは入って来ることが出来ない。
「だから、嫌だって。お前、さっき、入っただろ?」
「そうだけど、竜馬と一緒に、もう一度入りたいの〜」
 がったん
 ドアが、また大きく揺れた。つい先ほど、竜馬がマッサージの余韻に浸っている間に、アリサは風呂に入っていた。竜馬は体中が痛くて動けなかったので、先に入れと言われても入ることが出来なかった。アリサは自分が風呂に入っている間に、竜馬がよからぬことをするのではないかと期待していたが、結局何も起こらなかったので、少々がっかりしているようだった。
「ねえ、恥ずかしいの?だって、小さい頃、一緒に入ったことあるじゃない」
 アリサの言葉に、竜馬は過去のことを思い出した。アリサと一緒に、風呂に入った記憶を。そのころと違い、今のアリサは女らしい体つきになっている。一瞬、幼い彼女の裸体が、竜馬の脳内に思い出された。
「まだ小さかっただろ。一度だけだし」
 顔を赤らめて、竜馬は湯に沈んだ。直接見ているわけではないのに、とても恥ずかしい気がする。
「竜馬は一度きりで終わっていいの?寂しくないの?ねぇ、入れてよぉ〜」
 アリサが、ねっとりとした色気のある声で、竜馬を誘った。
「なんだよ、それ。ともかく、お前、服着ろよ。そのままの格好じゃ、俺、外出られないじゃねえか」
「出ればいいじゃない」
「出られないって。このまま、外に出たら、その…見ることになるじゃないか」
 気恥ずかしさを感じ、竜馬は声のトーンを落とした。
「ほんっとへたれなんだから。もういいわよ。着替え、ここに置いておくからね」
 ようやくアリサは諦めたらしい。風呂場の磨りガラスから、シルエットが遠ざかる。竜馬は安心して、風呂場の外に出た。
「だいぶすっきりした。風邪なんか引くもんじゃないな…」
 風呂場とトイレは、台所の隣にある。台所と居間の間には、開け閉めが容易な仕切りがあり、居間から見えないようにすることが出来る。竜馬が外に出たとき、仕切りは閉めてあった。アリサはその向こう側にいるらしい。
 バスタオルで体を拭き、新しい下着と寝間着を着る。先ほどまで着ていた物を、その場に置いてあった洗濯かごに入れる。
「すっきりした…」
 竜馬は仕切りを開け、居間へ一歩踏みだし、そこで凍り付いた。
「あ…!」
 そこには、まだ服を着ず、バスタオル一枚で体を覆っているアリサの姿があった。
「なななな、お、お、お前、服、着ろよ!」
「そっちに置いてあったし、竜馬が出てきちゃったから、取りに行けなかったのよ」
 アリサに言われて、竜馬は振り返る。タオルや食器が置いてある棚に、アリサの服一式が、畳まれて置いてあった。
「お、お前な…」
 竜馬は思わず唾を飲み込んだ。アリサは毛がしっかりと乾いておらず、いつもよりかさが少ない。体のラインが見えるその姿に、強く女性を感じた。
「どう?私、きれい?」
 アリサはくるりと独楽のように、その場で回る。
「し、知らないよ」
 竜馬は目を逸らし、自分の部屋へ入った。めまいがしたのは、熱のせいだけではない。
「あ、そうだった。もう一回、マッサージしないといけないんだったわ」
 自分の衣服を取ったアリサが、ぽんと手を叩いた。
「もう一回、必要なのか?」
「うん。それで完璧。今度は強くじゃなくて、弱く、小刻みにするのよ。本当はグルーミングなんだけど…」
 ぶぶぶぶ
 ベッドの枕元で、振動音が鳴る。竜馬の携帯が、着信を報せていた。
「悪い、電話だ」
 竜馬は慌てて携帯電話を手に取った。
「はい、もしもし」
『もしもし?俺。砂川だけど』
 着信を受けると、電話から、聞き慣れた声が響いてきた。竜馬の友人の一人、修平だ。
「ああ、どうした?」
 ベッドに腰掛け、楽な体勢を取る。
『おう。この土日に、ちょっと山梨の爺さん家に行くんよ。それで、土産はどんなもんがいいかと思ってさ』
「土産ねえ。適当で…」
 電話をしている竜馬の前に、アリサがひょっこりと部屋の中へ入ってきた。まだ服を着ておらず、バスタオルのままだ。耳をはたはたと動かし、誰からの電話かを確認している。まるで、彼氏の浮気を疑う彼女のようだ。
『適当って言っても、漬け物や梅干しなんかいらないだろ?菓子がいいか?』
「いや、今は漬け物とか梅干しが嬉しいな。実は、金がなくなってよ。姉貴は出稼ぎに出ていなくなっちゃうし、おかずも買えないで…」
 アリサに向かって、虫を追い払うように、竜馬が手を動かした。むっとした顔で、アリサが背を向ける。
 はらり
「あ!」
 アリサの巻いていたバスタオルが、重力に引かれて落下した。肩から背中、腰、尻尾にかけての後ろ姿が、竜馬の目に入る。
「うわっ!」
 竜馬は思わず叫んで、顔を逸らした。
『おい、どうした?歩きながら電話してて、転んだか?』
「い、いや、なななんでもないんだ、なんでも…」
 竜馬は取り繕うとしたが、舌が廻らない。
「や〜ん!恥ずかしい〜!」
 これはチャンスとばかりに、アリサは色っぽい声を出した。アリサの耳には、電話口から漏れた、修平の声が聞こえている。
『おい、アリサちゃんの声が聞こえたんだが…』
「なんでもないんだ!俺は何もしてないぞ!」
 いぶかしげな声の修平に、竜馬は慌てて弁解する。
「竜馬ぁ〜、いや〜、見ないで〜!」
 にやにやしながら、アリサが黄色い叫び声をあげた。
『…ああ、またアリサちゃんが暴走してんのか』
 呆れたような声で修平が言った。アリサの耳がぴくりと動く。結局は、彼の方が一枚上手だったようだ。
「あ、ああ…わかってくれるか?」
 修平の言葉に、竜馬は冷静さを取り戻す。
『もちろん。アリサちゃんが家に遊びに来てるのか?』
「いや、実は風邪引いちゃってな。アリサが看病してくれるっていうから、それに甘えて…」
『大変だなー。ちゃんとお礼言えよ?』
 竜馬は裸のアリサを見ないように、ベッドの上にあぐらをかいて、アリサに背を向ける。
「何よ、本当に裸なの!」
 アリサがバスタオルを巻き直し、竜馬の携帯をひったくる。
『わーかったわかった。そういうことにしとくよ。じゃあ、漬け物でも買って帰るから、竜馬にそう伝えてくれ。じゃあな〜』
 ぶつっ
 電話が唐突に切れた。アリサはしばらく耳を当てていたが、諦めたように携帯電話を折り畳んだ。
「ふん、だ。何よ。ロマンスを理解しようとしないんだから…」
 アリサは拗ねるように、携帯電話を竜馬に返した。出来るだけ、アリサの方を見ないように、竜馬が受け取る。
「アリサも服着ろよ。これで2次感染なんて言ったら、大変だろ?」
「わかったわよ。なんだか興が削がれちゃった。もうセクハラなんかしませんよーだ」
 アリサが膨れ面で、部屋から出ていく。
「なんでそんな切れてんだよ」
「そりゃ怒るわよ。竜馬もかまってくれないし、修平だってあんな態度取るし」
 衣擦れの音が、開いた戸から聞こえてくる。
「前も言ったけど、結構自己中心的だよな、お前。何を言っても聞かないし、やめろって言ってもやめないし。一方通行の恋愛は、恋愛とは言えないんだぞ」
 自分の思考を整理しながら、竜馬が言った。アリサと再会してから2ヶ月。彼女を観察して、自分を見直しているうちに、竜馬は「真面目なときのアリサ」は、それほど嫌いではないことがわかった。多少のトラウマは自分の中に見えるが、それが大きな問題になるかと言えば、そうではない。ではなぜ、こんなにアリサに、良くない感情を抱くのか。それについてかなり考えた竜馬が、導き出した結論が、これだった。
「正論で来るなんて、ずるいなあ…もうこの話はおしまい」
 アリサは気分を損ねたらしく、あまり面白くないような声で、話を打ち切った。かちゃかちゃと、何かがぶつかる音が響いてきた。
「あ、コップは片づけないでいいよ。またそれでお茶飲むし…」
「違うわよ〜。そろそろお腹が空いただろうし、お粥をつくっておこうと思って」
 さらさらと、砂を流すような音が聞こえる。米を研いでいるらしい。数分して、コンロに火をつけて、服を着直したアリサが、部屋に戻ってきた。後ろ手でドアを閉める。アリサの手に、ビデオカメラが持たれている。
「なんだよ、それ?」
「ん?ちょっと、思い出として、記憶しておこうと思って。ほら、笑って笑って」
 アリサがビデオカメラを覗き込む。
「恥ずかしいなあ。撮るなら普通のときに撮ってくれよ」
「いいじゃない。きっと、後で、いい思い出として見られる日が来るわよ」
 パソコンの置いてあるデスクの上に、アリサがカメラを固定した。ちょうど、竜馬の寝ているベッドを向いている。
「じゃ、もう一回マッサージするから、うつぶせになって?」
「あ、うん。頼む」
 アリサに言われる通り、竜馬はうつぶせになった。アリサが跨り、背中を押していく。先ほどとは違い、力があまり強くないので、竜馬はリラックスする事が出来た。
「んー、なんか、やりにくいなあ」
 ぎゅう
 アリサが手で竜馬の背を掴んだ。
「たぶん、服が大きいからだと思う。ちょっと、上脱いで、シャツだけになってくれない?」
「ん?ああ」
 芋虫が動くように、もぞもぞと手を動かし、竜馬は上着を脱いだ。脱いだ上着をアリサが取り、丁寧に畳んで枕の横に置く。
「よくなってきた感じする?」
 ぐにぐにと、背中を押しながら、アリサが聞いた。尻尾がはたはたと揺れ、竜馬のズボンの上を撫でている。
「んー。風邪の方はつらいけど、体の方はだいぶ楽になってきた。悪いな」
「悪いことないわよ。竜馬のことが大好きだもん。これくらい、別にどうってこと、ないから」
 にこにこと笑い、アリサは手を動かした。
「人肌って、つるつるしてて、気持ちいいな〜」
 竜馬のシャツに、アリサが下から手を入れ、背中を撫でた。一瞬、竜馬の背中にぞくぞくと鳥肌が立った。
「私からしてみれば、人肌の方が気持ちいいのよね。小さいころから、地球人とか爬虫人とかは、体毛がある方がふわふわで気持ちいいって言うんだけど、竜馬はどう思う?」
「え?んー、悪くはないと思う。真優美ちゃんがすり寄ってきたときとか、ものすごく柔らかいんだよな」
 竜馬の手に、真優美の体毛の感触が蘇った。チョコレートのような色をした、彼女の体毛は、しっかりと手入れをしているらしく、撫で心地がとてもいい。
「私はどう?」
 竜馬の背を撫で、アリサが聞いた。声に、嫉妬が混ざっている。
「悪くはないんじゃないか?」
 窓の外を見る竜馬。外はすっかりと暗くなっていて、まだ雨が降っている。
「それだけ?」
「それだけだよ。他にどう言えばいい?」
「もっとこう、手触りがいいとか、柔らかいとか…」
 さらなる言葉を期待するアリサ。尻尾をぱたぱたと振っている。
「お前の場合は、手触りとか以前に、うっとおしいからなあ…」
 ぎゅうううう!
 アリサが無表情で、竜馬の背中をつねりあげた。
「いってえ!」
 竜馬の体が、痛みでびくんと跳ねた。
「もう知らない。お粥の鍋、そろそろ煮えてるから、行くわ」
 機嫌を悪くしたアリサが、いらいらと尻尾を振りながら、ビデオカメラを持って退室した。
「なんだよ…なんか、ものすごい気まぐれだよな…」
 竜馬は一人で文句を言い、上着を着直す。部屋の中に、雨の音だけが、小さく響いていた。


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