「ん…」
だいぶ経った後、竜馬はようやく目を覚ました。体の重さと熱が数倍になっている気がする。汗をびっしょりかいている。
「ますます調子が悪いな…」
体を起こした竜馬は、部屋の中がかなり暗くなっていることに気が付いた。手を伸ばし、電灯の紐を引く。一瞬、自分がどこにいるか、何をしていたかがわからなくなり、つい先ほどまでのことを考える。
幻覚にも似た、よくわからない夢を見ていた。夢の中の竜馬は、ベッドの上にいるという感覚がなかった。確かに自分はベッドの上で寝ているし、布団の感触もわかる。しかし、いつの間にか自分が小さくなって、ベッドのシーツの上を歩いている気になっていた。体の重さがある程度の現実感と疲れを与える。しばらくすると、彼の目の前に、大きさのよくわからないキューブの集団が現れた。触れそうでも触れないし、近くに感じても遠いように感じる。そして、自分の手足の大きさが不安定になり、天井の木目が近づいたり遠のいたりする。そして、誰かが積み上げてきた世界が、木目のせいで壊れていくような錯覚が竜馬を襲う。今こうして目覚めてからも、その気持ちの悪い感覚が残り、気分はよくなかった。
小さい頃から、風邪を引いたときには、竜馬は同じような幻覚を見ていた。起きていても寝ていても、大体は同じだ。大きさと重さの感覚が狂い、自分がどこにいるか、わからなくなっていく。風邪を引いて睡眠をとるときに、必ず見るこの夢が、竜馬はとても嫌いだった。
「とりあえず水だ、水…水分だな…」
ふらりと立ち上がり、居間へのふすまを開ける竜馬。先ほどまで散らかっていたはずの居間は、いつの間にかきれいに片づいていた。漫画雑誌やゲーム、本などが、邪魔にならない位置にまとめてある。
「おはよう。よく眠ってたわね」
台所に向かっていたアリサが振り向いた。先ほどまでの制服ではない。長袖のTシャツと、裾の短いスカートを履いている。Tシャツの白色と、青色のスカートのコントラストに、竜馬は目がくらんだ。
「これ、全部やってくれたのか?」
食器棚に目をやると、適当に詰んであった食器が、全て大きさ順に並び替えてあった。その中から、コップを一つ取る。
「まあね〜。ところで、調子はどう?」
「よくないな〜。風邪ひくと、変な夢を見るんだ」
「夢?どんなの?」
興味津々のアリサに、竜馬は先ほどの夢を話してきかせた。コップに水を一杯くみ、一気に喉に流し込むと、頭痛が少し薄れた気がした。
「それ、聞いたことある。なんだっけ。ほら、おとぎ話の…」
「おとぎ話?獣人のなら、ファスティ・サクとかいうのが有名だけど。ほら、冒険物の…」
「違う違う。地球人のおとぎ話よ〜。ああ、もう、思い出せない。もう少しなのに〜」
アリサがいらいらと尻尾を振った。竜馬も、いろいろなおとぎ話を思い浮かべてみるが、アリサがどれのことを言っているかがわからない。
「んとね、女の子が主人公で。変なところに迷い込むのよ。タイトル、なんだっけ…」
やかんに水と何かのパックを入れ、火にかけながら、アリサが言う。
「ああ、不思議の国のアリス?」
「そう、それ。竜馬が体験したのって、アリス・シンドロームっていうやつだと思う」
「アリス・シンドローム?」
聞き慣れない言葉を、竜馬は復唱した。
「うん。物の大きさとか、時間の感覚が、無茶苦茶になるのよ。偏頭痛持ちとかがよく体感するの。熱が出たときとか、似たような感じになるって、聞いたことがあるわ」
「それかもな。あー、だるい…」
コップにもう一杯水を飲む竜馬。冷たい水が五体に染み渡るようだ。
「それにしても、すごい汗ね〜。だいぶ消耗しちゃった?」
顔をばしゃばしゃと洗う竜馬の首筋に、アリサが顔を近づけた。
「ああ。俺、どのくらい寝てた?」
「そうねえ。かなり長かったわよ。今、もう8時だし」
アリサが腕時計を見せる。銀色の鎖と、大きな文字盤の、少し洒落た時計だ。
「そういやアリサ、よく換えの服を持ってたな」
コップを流し台に起き、竜馬はテーブルの横に座る。
「一旦家に帰って、いろいろ持ってきたのよ。風邪薬に、お茶、着替え…」
部屋の隅に置いてあったバッグを取るアリサ。中から一つ一つ、確かめるように、物を出していく。
「ビデオカメラに、ヘアブラシに、時計に…あっ」
からん
カバンの中から、何かの缶詰が転がり落ちた。緑と銀色を基調とした、四角くて薄い缶だ。缶の表には、緑の文字で「ストップエイズ」と書かれている。アリサは何も言わず、それをカバンの中にしまった。
「それからね、えーと…」
「待て!今あからさまにおかしいものが見えたぞ!」
竜馬が慌てて指摘した。
「気のせいよ〜。竜馬の願望が幻覚でも見せたんじゃない?くふふ」
アリサが含み笑いをしながら、竜馬を見つめた。
「ギャグ展開がなくなって、俺は安心していたというに、お前というやつは…」
呆れたような、怒ったような目つきで、竜馬がアリサを睨む。
「でも、そろそろこういう展開にも飽きてきたわね〜。もうちょっとこう、新しいタイプの方向性が必要よね」
「…何を言ってるんだかよくわからん」
相変わらずなアリサに、竜馬はため息をついた。
「あ、そうだ。そろそろお茶が出来たころかな」
立ち上がり、台所へ行くアリサ。ガスレンジの上で、やかんから湯気が立ち上り、中がぐつぐつと煮えたっていた。火をとめ、コップに一杯入れる。
「これに、これと、これと、これを…」
よくわからない粉末を、次々にお茶の中に入れていくアリサ。スプーンでよくかき混ぜて、竜馬の前に置く。
「これは…?」
コップの中の液体を見て、竜馬がたじろいだ。元々は茶色の、普通のお茶だったのだろうが、緑色だか茶色だかよくわからない、どす黒い色をした液体と化している。ドクダミ茶のような、モロヘイア茶のような、独特の臭いを放っている。
「健康にいいお茶なのよ。あと、風邪に効くものをいろいろくわえたの。あんまり美味しくないけど、飲んで飲んで」
「美味しくないってレベルか?なんか、こう、やばいような…」
竜馬は試しに、スプーンの先を舌でつつくように舐めた。辛さと苦さ、そして何かよくわからない生臭さが、口の中に広がる。舌が痺れたような気もする。
「悪いが遠慮するわ…」
竜馬はスプーンを入れなおし、そっぽを向いた。
「あ、そっか。熱いのね?」
コップを手に取り、アリサが息をふきかける。立ち上る湯気が、彼女の息に飛ばされ、消えていく。
「ほら、冷ましたから、飲んで?」
アリサはにっこりと微笑んだ。
「好意から来てるってことはわかってるんだ。いつもみたいに、俺を苦しめようとしてるわけじゃないこと、すごくわかる。でも、さすがにそれは飲めなくて…」
竜馬はぶつぶつと、アリサに言い訳をする。
「あ、あんなところに宇宙船」
「え?」
アリサが窓の外を指さし、竜馬は思わずそちらを向いた。その瞬間をアリサは見逃さない。
がっ!
「んあ!」
竜馬の両頬を片手でつかみ、口を開けさせる。ぐいと後ろに押して、少し上を向いたところに、毒のような健康茶を流し込んだ。
「ああ、この、竜馬が苦しむ顔…かわいい…食べちゃいたい…」
「ごぼごぼ!あ、あぐう!」
コップの中身を一気に流し込み、背筋をぶるっと震わせ恍惚の微笑みを見せるアリサ。対照的に、いきなり液体を流し込まれた竜馬は、それが気管支に入らないように飲み込むので精一杯だった。竜馬は気が付いた。アリサのこの行動には、好意から来ている部分と、そうでない部分があることに。
「げほっげほっ!殺す気か!」
大げさに咳をして、竜馬はアリサに食ってかかった。
「殺さないわよ〜。本当に殺すつもりなら、こんなまどろっこしいこと、しないでしょ?」
「本気で受け取るんじゃねえ!だからお前…う…」
竜馬が胸を押さえた。体の中から、熱が上がってくるような感覚が来る。
「始まったみたいね〜。ちょっと失礼?」
竜馬を抱き上げ、竜馬の部屋に連れていくアリサ。彼をうつぶせにベッドに寝かせて、掛け布団をどかした。
「何を飲ませたんだ…なんか、ものすごく暑い…」
「簡単に言えば、汗を思いっきりかく薬と、血行を良くする薬よ。これで汗をがーっと出して、強くマッサージして、収まってきたころにお風呂に入る。それで最後に、毛を軽くグルーミングすると、疲れがすっきりとれてるの。獣人はこれで風邪を治すのよ」
アリサは手際よく、竜馬の下にバスタオルを敷いた。シーツが汗で汚れないように、気を使っている。
「じゃあ、任せていいんだな?別に変なことは何も起きないんだな?」
「うん。ちょっと強くするけど、大丈夫よね?」
足の下にもバスタオルを敷き、竜馬の背中に跨るアリサ。短いスカートがめくれ、太股が直に当たる。
「すまん。頼むわ」
竜馬は体から力を抜いた。アリサのふわふわな毛皮の感触が、服越しに伝わってきて、どきりとする。
「じゃあ、行くよ〜」
竜馬の見えない角度で、アリサがにやりと微笑んだ。
「んっ!」
ぐぎっ!
「ふげっ!」
気合い一閃、アリサが力を入れると、竜馬の背中が大きく鳴った。同時に、竜馬の体に激痛が走る。
「お、おい、強い強い!うあ!」
「そうでもないわよ。そのうち楽になるから、任せて任せて。ほら、気持ちいいでしょ?」
アリサの言葉には、あからさまに、サディスティックな色が見える。彼女が背中を押し、指を立て、筋肉をもみほぐすたび、竜馬にはかなりの痛みが来た。逃げだそうにも、熱のせいか体に力が入らない。
「うあ、あ、あああ…!」
アリサの力強い押しに、竜馬はうめき声をあげて、がっくりと力を抜いた。
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