数十分後。2人は買い物を済ませて、竜馬の部屋に戻っていた。アリサがうどんを作り、真優美がその間に竜馬の様子を見る。竜馬はだいぶ熱があがってきて、ベッドに寝たまま目を閉じていた。気分も落ち込んでいるようで、話も弾まない。そして、時折つらそうに咳をする。そのたびに、真優美は心配でどうしようもない気分になっていた。
「それで〜、全然問題解けなくて。赤点だったらやだなあ。竜馬君、どうでしたぁ?」
「俺はそれなりに出来たよ。期末の時は、みんなで集まって、勉強会しよう」
「ええ、いいですねえ」
 真優美がにこにこと笑った。こうして話している彼女は、とても幸せそうだ。
「お待たせ、出来たよ〜」
 部屋の戸を開け、アリサが入ってきた。彼女はお盆を持っており、どんぶりが3つ乗っている。暖かな湯気に乗って、鰹出汁の匂いが広がった。
「おう、ありがとう」
 どんぶりを受け取る竜馬。箸を取り、麺を掴む。
「お、っと」
 片手でどんぶりを持っていた竜馬が、どんぶりを取り落としそうになって、危ういところで受け止めた。汁が数滴、布団の上と顔に飛んだ。
「あ〜。大丈夫ですかぁ?」
 真優美が置いてあったタオルで竜馬の顔を拭いた。その手は優しかったが、病気で肌が敏感になっている竜馬には、少し痛かったようだ。顔をしかめる。
「今日は泊まっていくわ。そんなふらふらで、見てられないもの。リンゴ買ってきたから、後で剥いてあげるね」
 麺を噛みながら、アリサが言った。
「いや、いいよ。俺、平気だし」
「何言ってるの。誰かが一人、家にいるだけで、結構楽になるのよ?ほら、今だって、つらそうじゃない」
 アリサが強い口調で、竜馬を諭した。素直に見れば、竜馬を心配しているだけのように見えるが、今までさんざん彼女にいろいろされてきた竜馬から見れば、何かをたくらんでいるようにも見える。助けてほしいが助けてほしくない、という、矛盾した気持ちが、竜馬の中に湧き起こっていた。
「あたしも泊まっていきたいけど、今晩はちょっと用事があるんですよ〜。うう、困ったなあ…」
 悔しそうな真優美。真優美の方は、純粋に竜馬を心配しているように見える。彼女なら、アリサのようなことはないだろうが、かなりのドジをするので、差し引きはゼロといったところだろう。
 竜馬の同級生としては他に、人間少年の砂川修平や、人間少女の松葉美華子といった友人がいる。修平は同じ男で、気心の知れる仲だが、緊張感や危機感というものが少なくて呆れてしまうことがある。美華子は、普段はクールで仕事もちゃんとこなすが、あまり物を言わないので何を考えているかわからない。
「姉貴がいてくれれば…そうすりゃなあ…」
 竜馬は深くため息をついた。
「なによー。そんなに頼るのがいやなの?」
「そりゃそうさ。あんまり他人に迷惑はかけたくない。それに…」
 竜馬は麺をくわえた。
「それに、何よ」
「この隙に乗じて、何かしようとたくらんでるやつがいそうでな」
 竜馬が、アリサをじろりと睨んだ。アリサが汁を啜りながら、ぎくりとした。尻尾がぴんと立つ。
「そ、そんなわけないじゃない。ただ心配なだけで…」
 アリサが、どんぶりで顔を隠すようにうどんを食べる。
「アリサとか真優美ちゃんは、図星を言い当てられると、尻尾をこうびしって立てるんだよな。その後に、なんだか微妙な感じで、ふらふら尻尾を振る。わかってるんだぞ」
 竜馬がアリサに追い打ちをかけた。アリサはしばらく、弁解しようともごもごしていたが、やがて諦めた。
「だってぇ、こんなチャンス、見逃せないじゃない。一緒にいられるっていうだけで、私がどれだけ幸せになれるか、わかる?」
 アリサが、いかにも乙女のような顔をして、自分の長い髪をいじる。こうしている分にはとてもかわいい、と竜馬は思った。先ほどのようなセクハラや、突然の暴走や、ちょっかいがなければ、アリサだって普通の女の子なのだろう。彼女は以前、竜馬のことを「私のための愛すべきいじめられっ子」と表現したことがある。その言葉から、彼女の竜馬に対する、少々歪んだ愛情を見ることが出来た。
「される方としては迷惑なんだよ。お前、手加減ってものを知らないだろ」
 竜馬は突き放すように言い、汁を最後まで飲むと、空になったどんぶりを置いた。
「ああん、もう、ほんと奥手なんだからぁ。ほら、ほっぺに汁ついてるよ?」
 竜馬の頬に、アリサが顔を近づけて、ぺろりと舐める。
「ええい、やめんか」
「だってぇ、好きなんだもの…」
 アリサは竜馬に抱きつき、毛皮をこすりつけるように、頬ずりし始めた。ちらりと真優美を見ると、悔しそうなうらやましそうな顔をして、2人をじっと見ている。
「ほら、真優美ちゃんも見てるだろ、やめろよ」
 すりすりと頬をすり寄せるアリサを、竜馬が押し返す。
「なーに?そんな顔して。そうよね、真優美ちゃんはこういうことをする勇気、ないもんね〜」
「お前、挑発するのは…」
 ばきっ!
 真優美の握力で、握っていた箸がまっぷたつに折れた。アリサと竜馬が、びくりと震える。
「り、竜馬君がいやがってるじゃないですか。やめてあげたらどうですか?」
 ぎゅっ
 竜馬の頭を抱き、アリサから引き剥がす真優美。嫉妬と怒りが彼女の表情から読みとれる。彼女の目に、蛍光灯の光とアリサの顔が映っていた。
「今日は泊まって行きます〜。だって、2人きりにしたら、アリサさん、竜馬君にひどいことを…」
 ぶぶぶ
 竜馬は後頭部に振動を感じた。見れば、真優美のスカートのポケットに入っている携帯が、着信を報せている。
「真優美ちゃん、電話っぽいよ」
「え?あ、はい」
 竜馬の頭を離し、真優美が慌てて電話を取る。
「はい、もしもし。あ、お母さん〜?あのね、今日、友達のところに泊まって…え?あ…そ、そうだけど〜…」
 真優美の表情が曇った。相手はどうやら母親らしい。小さく音が漏れて、竜馬とアリサの耳に入る。少し怒っているような口調だ。
「わ、わかったよぅ…うん…じゃ…」
 真優美が電話を切り、携帯電話をポケットに入れた。ふうと息をつき、目線が虚空を彷徨う。
「帰ってこいって言われちゃった…ううう…」
 真優美が泣きそうな目でアリサを睨んだ。
「そんな目で見ないでよ。悪いけど、私のせいじゃないからね」
「うう…そ、そうだけど…悔しいよう…」
 真優美が自分のカバンを背負って、玄関の方へ出ていく。アリサと竜馬が、空になったどんぶりを持ってその後についていった。
「まあ、また暇が出来たら来てあげて?」
「言われなくてもそのつもりです〜。もし、もしあたしがいない間に、竜馬君に何かしたら、思いっきり噛みますからね?」
 真優美が靴を履いて、ドアを開けて部屋を出る。出て行った後、アリサが鍵を閉めた。
「さてと。2人きりになったわけだけど…」
 どんぶりを流し台に置くアリサ。彼女の尻尾が、期待に揺れている。対照的に、竜馬の顔は、いかにも病人といった風に、げんなりとしていた。
「竜馬…私、男の子が欲しいの」
 ばたん!
 アリサのストレート過ぎる言葉に、竜馬は思わず転んでしまった。畳に顔面を打ち付ける。
「そういうことはやめろと、何回言えば…げほっ…」
 竜馬が立ち上がろうとしたとき、収まったと思った咳がぶりかえす。心なしか、熱も上がってきているようだ。
「なんか、さすがにアレみたいね。ここからはまじめにいきましょうか」
 立ち上がれない竜馬を、アリサがぐいと引っ張った。竜馬の体の下に手を入れ、お姫様だっこの要領で持ち上げる。
「お、おい、自分で歩けるって」
「あんまり体力を使わない方がいいでしょ?」
 落とさないように抱きなおし、竜馬を運ぶアリサ。竜馬の頬に、アリサの胸があたる。アリサはそれを知ってか知らずか、大股に部屋を横切り、竜馬を優しくベッドに寝かせた。
「氷枕とか作ってあげようか?」
「氷がなかった気がする。あー、なんか頭が重い…」
 竜馬は目の上に腕を置き、ぐったりと横たわる。
「あ、そうだ。いいこと思いついた。ちょっとまってて?」
 アリサが部屋から出ていくのを、竜馬は目の端で見送った。
「面倒なことになったなあ…」
 竜馬は小さな声で、独り言をつぶやいた。今の状況は、あまりいいとは言えない。悪い部類に入るだろう。金はなし、病気はしている。おまけに、油断するとどうなるかわからない相手と、2人きりだ。
「お待たせ〜」
 アリサがにこにこしながら部屋に戻ってきた。彼女の手には、水の入った洗面器がある。
「顔でも洗うのか?たしかにすっきりするかも知れないけど…」
「そうじゃないわよ〜。こうするの」
 洗面器を床に起き、アリサがその前に正座した。
 ぴしゃ
 尻尾を洗面器の水に浸す。水浸しになった尻尾を持ち上げると、片手できゅっとしごいて、軽く水気を払った。
「尻尾?何を…」
 ぺたん
 ベッドの縁に座ったアリサが、水気を含んだ尻尾を、竜馬の額に乗せた。ひんやりと冷えた尻尾が、竜馬の頭から熱を奪う。
「どう?気持ちいい?」
 竜馬の頭を撫でながら、アリサが優しい声で聞いた。
「…うん」
 目の端に、アリサのスカートを捉えながら、素直に竜馬が答える。
「そう。よかった」
 にっこりと微笑むアリサ。竜馬の目に映る、今のアリサは、いつもの暴走する犬娘ではなかった。
「…少し眠くなってきた。寝ていいか?」
「うん、どうぞ?」
 竜馬は目を閉じる。彼が眠りに落ち、夢を見るまで、アリサが尻尾をどかすことはなかった。


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