「さあて、と。じゃあ、始めようか」
 部屋に入ったアリサと真優美が、学校のカバンを下ろした。2人とも学校帰りで、制服を着たままだ。
「竜馬君、風邪引いてるなんて、知りませんでしたよぉ」
 真優美が水道の蛇口をひねり、置いてあったスポンジを手に取りながら言った。
「あ、皿洗いなんてしなくていいんだ、俺が後でするから…」
 竜馬が慌てて真優美を制止した。とは言っても、体が自由に動かないので、言葉でだけだが。
「いいですよぉ。このくらい、あたし達でしますよ。ね、アリサさん?」
「ええ。じゃあ、私はこっちやっつけちゃうわ」
 真優美が皿にスポンジをこすりつけている間に、アリサは部屋の中を掃除し始めた。
「いや、本当にいいんだ。俺、出来るし…」
 2人を止めようと、竜馬は少し腰を上げたが、すぐにへなへなと座り込んでしまった。
「大丈夫?」
 アリサが竜馬の額に手を置いた。ひんやりとした肉球が、竜馬の頭から熱を奪う。
「自覚ないんだが、俺、熱あるか?」
「んー、わかんない。もっとあっちこっち触ってみないとね〜。くふふ」
 アリサの手が竜馬の頭をなで回し、首筋に移る。Yシャツの中に入ってこようとしたところで、竜馬はその手を捕まえた。
「お前な〜、それは立派なセクハラ…げほっ」
 いつもの通りアリサに文句を言おうとして、竜馬は咳をしてしまった。喉に軽く痛みが走る。
「朝はあんなに元気だったのにね〜。抱きついた私を突き飛ばすくらいに」
 竜馬の元気の無さに拍子抜けしたアリサが、手を出すのをやめて掃除に戻る。
「なんかわかんないけど、帰ってきてから調子がおかしくなって。参ったな、金もないのに…」
 竜馬が壁を背にしてがっくりとうなだれた。
「お金ってあとどれくらいあるの?」
「そこにあるだろ。そんだけ」
 竜馬の指の先を目で追うアリサ。500円玉を目にしたアリサが、困った顔をした。
「材料は何があるのかな…冷蔵庫、開けますよ〜」
 冷蔵庫を開け、真優美が中を見る。牛乳が1リットルと梅干し、そしてバターと各種調味料があるのみで、胃を満たせるような食材は見あたらなかった。
「これだけで2、3日はきついですねぇ…」
 真優美もすぐに困った顔になった。竜馬自身、土日を乗り切ることすら無理だということは、わかりきっていた。だからこそ清香も、早急に金が必要だと、どこかへ出かけたのだろう。竜馬としては、姉に部屋にいて欲しかった。今はアリサと真優美がいるが、そのうち帰ってしまうだろうし、消極的な気分になっているときに、部屋に一人きりというのは、つらい。
「とりあえず、制服から部屋着に着替えたら?」
 長押にかけてあるハンガーを、アリサが取る。
「そうするよ…」
 ハンガーを受け取り、竜馬が自室へのふすまを開けた。
「大変そうだし、手伝ってあげるわ」
「あ、ああ。助かる」
 竜馬のブレザーの上着とYシャツを、アリサが手際よく脱がせた。ハンガーに掛けて、その場に投げ出してあった寝間着を手に取る。寝間着の上着を、竜馬の頭からかぶせるように着せて、裾と袖を引っ張った。
「ほら、こっちも…」
 アリサは次に、竜馬のベルトに手をかけた。
「いや、こっちはいい。自分でやるから…」
「何言ってるの!」
 ベルトをつかむ手を押し戻した竜馬に、アリサが大声を出す。
「ただでさえつらいんだろうし、こういうときは人を頼って?この年で恥ずかしがることもないでしょ。ほら、ちゃんと立って」
「あ、ああ…悪い」
 言われるままに、竜馬は直立した。アリサがこんな怒り方をしたのを、竜馬は今まで見たことがなかった。彼の知ってる幼少時代のアリサは、治療と称して怪しい化合物を飲ませたり、調理と称して炭の塊を皿に乗せて出したりするような少女だった。もしそのとき、今と同じ状況になったとしたら、アリサは竜馬を裸にした上で、全身タオルと言って体をこすりつけていただろう。
「…でも、実は単純に、脱がせたいだけじゃないのか?」
 竜馬が思ったことを口にすると、アリサの手がぴたりと止まった。
「あ、わかる?くふふ、旦那の服の着せ替えを手伝う奥さん、いいじゃない。ね〜」
 アリサが竜馬に抱きついてすりすりと顔をこすりつける。
「やめろって。しまいにゃ、本気で怒るぞ」
「冗談よ〜。そんな顔しないで?」
 疲れ切った竜馬とは対照的に、アリサはにこにこしながら、脱がせやすいように跪いた。
 かちゃかちゃ
 竜馬のベルトを外し、ズボンを下ろす。そのままズボンを足から抜き取ると、軽く畳んで横に置いた。
「お皿洗い、終わりまし…」
 部屋を覗き込んだ真優美が、2人を見て固まった。
「な、何、何をやってるんですかー!」
 悲鳴にも似た声で、真優美が叫ぶ。アリサは彼女が、どんな目で自分たちを見ているかを理解して、にやりと笑った。
「あらぁ。彼氏にご奉仕するのは、彼女として当然だと思うけど?」
 アリサの言葉に、竜馬は今の状況を、遅蒔きながら理解した。何もやましいところがないと、彼は思っていたが、真優美がどんな目で自分を見ているか理解してしまった。
「ばっ、バカ!お前、何を言ってるんだ!真優美ちゃん、違うんだ!」
 しどろもどろになりながら、竜馬が弁解する。真優美に見せつけるように、アリサがトランクスのゴムに指をかけた。
「まだズボンを脱がせただけじゃない」
 アリサがにやにやしながら、竜馬の顔を上目遣いで覗き込んだ。竜馬の顔が赤くなったのは、熱のせいだけではなかった。
「そんな、そんな…う、うう…」
 涙目の真優美がアリサを睨む。アリサはにやにやしながら、竜馬の下半身に、犬鼻をこすりつけてみせた。薄い布地を通って、アリサの鼻息が、竜馬の肌にあたる。
「お前なー!」
 ぐいっ
 竜馬は懇親の力を込めてアリサを引き剥がした。
「あはは、すぐにひっかかるから面白いわ〜。真優美ちゃん、安心して。ただズボンの履き替えを手伝ってただけだから」
 アリサが笑いながら、竜馬に寝間着のズボンを手渡した。竜馬はまだ文句が言いたかったが、何も言うことが出来ず、おとなしくズボンを履いた。
「うう、ほ、ほんとですかぁ?」
 真優美が泣きべそをかいて、目をこする。
「本当だよ。大体、俺がアリサなんかと、何かするか?」
「そうですけど…今は竜馬君も消耗してるし、何か起きるかなって…」
「起きないよ…ったく…俺をなんだと…」
 ぐうっ
 呆れて竜馬が座り込んだとき、胃が鳴る音が響いた。
「怒ったら腹が減ったな…はあ…」
 頭を掻き、竜馬がうつむく。間髪を入れず、2度目の音が鳴った。
「何か買ってくるね。うどんとかがいいかしら」
 先ほどまでの嫌らしい表情を消して、アリサが立ち上がる。
「そこまで迷惑はかけられない。いいよ」
「くふふ。そう思うなら、キスしてくれる?それで代価にするから」
 アリサが口を竜馬に近づける。そして、自身の口を指さして、にっこり笑った。
「…じゃあいいよ、そこにあるインスタントラーメン食うから…金もないし」
「ああん、冗談よぅ。大丈夫、このくらい出してあげるから。真優美ちゃん、行こう?」
 さらに落ち込み始めた竜馬を見て、危ないと感じ取ったアリサが、逃げるように外へ出ていった。後を真優美が追う。外に出ると、まだしとしとと雨が降っていた。
「真優美ちゃん。私、あることに気が付いちゃった」
 傘を差し、雨の中を歩きながら、アリサが言った。
「どんなことですかぁ?」
 真優美が後に続き、素直に聞く。
「今の竜馬はへなへな。つまり、ちょっとその気になれば、あんなことやこんなこと、簡単に出来ちゃうってことよ。くふふ」
 アリサがまた、何かをたくらむ悪い顔になっている。
「そんなの、だめですよう。だって、よくないもん」
 恥ずかしそうに、真優美がうつむく。
「あら、興味ないの?真優美ちゃん」
「そ、そういうわけじゃないけど…」
「無理矢理なんかしないわよ。ちょっと弱ってるみたいだし、思いっきり優しくしてあげようかなって思って。そうすれば、私に傾いてくるわ〜。どう?」
 畳みかけるように、アリサが真優美を言葉で揺さぶった。
「確かにいいかも…でも…いつもと違うんじゃ、騙してることになりませんか〜?」
 真優美の顔は、悪いことをしているような、罪悪感たっぷりの表情になっていた。
「何を騙すというのよ。私はただ、抱きついてすりすりしてぺろぺろしてちゅーしたいのを我慢して、竜馬の疲れを癒してあげるだけよ?騙してることにはならないもん」
 アリサがそう言いながら、水たまりを避けて歩いた。雨の降り方が少し強くなり、2人の周りに寒い風が吹く。
「はあ…擬音が嫌にいやらしいのは、知らないふりしますけど…」
 2人の横を、水しぶきをあげながら、車が通り抜けた。
「ところで、それで得をするのはアリサさんだけじゃないんですか?」
 真優美の言葉に、ぴくりとアリサの耳が動いた。
「そ、そんなわけないじゃない。おほほのほ〜」
 適当なことを言って逃げようとするアリサを、真優美がじろりと睨む。
「ま、まあ、早く買って帰りましょう。竜馬がお腹を空かせてるわ〜」
 無言の抗議をする真優美に耐えきれず、アリサが逃げるように足を早めた。


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