「…うるさい」
 アリサが窓の外を見ながら、小さくつぶやいた。どこだかわからないが、発情期の猫が、特有の甘え声を響かせている。
「確かにうるさいですねえ…」
 真優美がアリサの言葉に同意する。午前1時、眠りたくても眠ることの出来ない高校生集団をあざ笑うかのように、猫の声が大きく響き渡った。
 眠気がアリサの脳を蝕んでいた。怒りの沸点が低くなり、些細なことも彼女の神経を逆なでする。周りを見回せば、同じように眠い顔をする竜馬、瞼を閉じて声だけ出す真優美、あぐらをかいてぴくりとも動かない修平などが見受けられる。
「寝たのか?」
 竜馬が軽く修平を揺さぶる。修平は顔を上げない。耳を近づけると、寝息が聞こえた。
「脱落〜。これで残ったのは私たち3人だけね〜」
 アリサはにやにや笑う。その場に適当に置いてあった布団を引くと、寝てしまった修平を持ち上げ、その上に寝かせた。
「ふあぁぁぁ…」
 真優美が何度目かわからないあくびをする。彼女もうつらうつらしていて、すでに半分寝て半分起きている状態だ。アリサは自分の勝利を確信した。
 そもそも、竜馬はあまりにも奥手すぎる。竜馬の眠そうな顔を見て、アリサはそう考えた。竜馬のことが好きでたまらないのに、彼はそれに対していい感情を持たないばかりか、アタックをかけているのにそれを無視するのだ。
『そりゃ、あのときはひどかったけど…』
 アリサは小学生のころのことをぼんやりと思い出した。そのころは、竜馬も今よりずっと少年で、今より純粋だった。そんな彼がかわいくて仕方がなかったアリサは、よくちょっかいを出していた。アリサにしてみればいい思い出だが、竜馬にしてみれば苦痛でしかなかったのだろう。今も同じようなことをするたびに、竜馬が怒るのが、面白くて仕方がない。
『でも…』
 それは自分からの愛ではある。だが、彼からの愛はないし、どれだけアタックをかけても押し戻されるだけだ。それがアリサを困らせている。楽しくて、面白くて、それなりに間の空いたこの関係を続けるのと、愛を竜馬に受け取ってもらい、なおかつ愛を受け取る関係になることでは、地球と火星ほどの差がある。どちらも捨てがたいが、後者の大きな欠点は、自分を押し殺さないといけないということだ。それに、それで竜馬が振り向いてくれるという保証もない。
「竜馬は私のことが嫌い?」
「ああ、嫌いさ。聞くまでもないだろ」
 アリサの問いに、予想通りの答えが返ってくる。寂しさと怒りを少しずつ、心の中でもてあそびながら、アリサは平静を装った。
「どうしてそんなに嫌い?子供のころ、ひどいことをしたから?」
「それもだし、今もだ。性格があわない」
「ねえ、竜馬。もし、私がおっとりして、竜馬の好みの性格になったら、付き合ってくれる?」
 思ったことを素直に聞く。竜馬はきょとんとしていたが、少ししてから笑い出した。
「そりゃ無理だろ。少なくとも、俺にそんなちょっかいかけてるうちはな」
「そう?出来ると思うけど…」
 そこでアリサは言葉を切った。目の前をふらふらと何かが飛んでいる。目を凝らして見てみると、それは小さな蛾だった。電灯の光に釣られて入ってきたのだろう。
「あら、蛾」
「え?」
 蛾という単語を聞き、竜馬が嫌な顔をする。どうやら虫が嫌いらしい。アリサは蛾を指で捕まえると、竜馬の顔の前に突きだした。
「ぎゃあ!」
 がたっ!
 竜馬がアリサの指から逃げるように後ろに倒れた。置いてあった棚にぶつかり、棚が大きく揺れる。小学生のころもこんなことがあったと思い出したアリサは、にんまり笑いながら蛾を顔の前に近づけた。
「ほら、パタパタさんよ?パタパタするのよ?」
「パタパタさんってなんだよ!やめろよ!性格悪いな、お前!だから嫌いなんだよ!」
 嫌いという言葉に、アリサはまた少し怒りを感じた。
「なーによう、ほんとすぐ怒るんだから。ちょっとした冗談じゃない」
 窓を開け、蛾を外に追い出すアリサ。手を軽くはたき、台所で指を洗う。竜馬には冗談が通じないのだろうか。
「ふあぁぁ…」
 真優美がまた大きくあくびをした。いつもならばここで、一言二言、竜馬を擁護することを言うのだが、よほど眠いらしく何も言わない。アリサはここで、また悪い考えを思いついた。
「さっき、こんなの買ってきたのよね。みんなで食べましょうよ」
 コンビニの袋の中からラムネ菓子を取り出す。色とりどりのフルーツラムネだ。袋を開くと、小さな包みを一つ手に取った。
「ありがとう〜」
 真優美がアリサからラムネを受け取り、口に入れる。その瞬間、アリサは小さく笑った。
「どうしました?」
「ひっかかったわね。そのラムネの包みには、睡眠薬が入っていたのよ!」
 びしと指を差すアリサ。真優美は驚いて、手に持っていた包み紙を取り落とした。
「な…」
「ふふふ、眠くなるわよ〜。だんだん眠くなるわ。ね〜むくなる〜」
 アリサの言葉を聞き、真優美が目が眠そうに薄くなる。
「アリサ、お前、外道か!」
「違うわよ。目的のために必要な手段を執っただけよ?」
 アリサは真優美の後ろに回り込み、顔の毛を優しく撫でながら言った。
「くふふ。あんたも、竜馬をどうかしようと考えてたんでしょ?」
「そ、そんな…こと…」
「嘘つかないで?」
 優しく真優美をなで回すアリサ。真優美はとうとう目を閉じてしまった。
「うう、り、竜馬君を一日、彼氏にしようと思ったんですよぅ…」
「どうして?」
「だ、だって、大好きなんだもん…」
 真優美の言葉に竜馬が顔を赤くする。この2人は何か怪しい。前に何かあったのか、一時期ぎくしゃくしていた時があった。そして真優美に鎌を掛けてみれば、案の定彼女も竜馬に惚れていた。アリサ自身、自分に自信があったので、真優美をライバル視してはいない。だが、こんな竜馬の態度を見ると、嫉妬の気持ちが沸き上がる。
「でもそれだけ眠くちゃ、もう無理よね。あそこには柔らかい布団があるわよ?」
 修平が寝る布団を指さすアリサ。真優美は眠気に耐えられなくなったのか、とうとう何も言わなくなった。
「はい、脱落〜」
 アリサが優しく真優美を寝かせる。糸の切れた人形のようだ。顔を上げると、竜馬が怖い顔をして、アリサのことを睨んでいた。
「とんでもないやつだな、お前」
「市販のラムネの、それも取り出したばかりの包みに、どうやって睡眠薬を入れるのよ?真優美ちゃんが勝手に暗示にかかっただけよ〜」
 アリサは適当なことを言いながら、眠った真優美の肩をぽんぽんと叩いた。昔、母親にしてもらったように、優しく。
「さーて、2人きりね。どうしようかしら?」
 竜馬の座っている場所から、テーブルを挟んで反対側に座る。
「どうもしねえよ」
 竜馬は不機嫌な顔をしていた。よほどアリサのことが嫌いなのだろう。
「あら、どうもしないの?みんな寝ちゃったのに?」
 するすると移動して、竜馬の横に座るアリサ。竜馬は彼女から離れようと動き、部屋の角に行ってしまった。角から逃がさないようにアリサが隣に座る。
「そ、そういうところが嫌なんだよ。もう少し慎みを…」
「そんなの方便よね。好きな相手に近づくのがどうしていけないの?」
「お前には恥ずかしいという感情はないのか?」
 竜馬の目線が泳いでいる。もう一押しだと、アリサは確信した。嫌い嫌いと言ってはいるが、ここで押せば彼も何かしらの反応を見せるだろう。
「そんな寂しいこと言わないで?」
 竜馬の首に手を回し、頬をそっと撫でる。人肌のすべすべした感覚がアリサは好きだ。だからこそ、いつも必要以上に竜馬を撫でてしまう。竜馬はそれをうっとおしがって、いつもすぐに逃げてしまうので、満足行くまで撫でることは出来ないが。
「は、離せよ」
「嫌よ。離したらどうするの?逃げちゃうんでしょ?」
 逃げられないように、竜馬のあぐらの上に、片足を乗せる。いけないことをしているという気持ちが、アリサの中に沸き立った。ぐいと竜馬がアリサを押しのけるが、アリサは離れようとしない。
「どうしたの?顔が赤いわよ?」
「なんでもねえよ。いい加減にしないと、怒るぞ」
「怒ってほしいわ〜。優しく叱って?」
 あぐ
 竜馬の首筋を甘く噛むアリサ。腕でぎゅっと竜馬を抱き、逃げられないように足で押さえる。竜馬の目の辺りに、尖り耳がはたはたと動いた。
「アリサ!」
 ぐいっ!
 竜馬が両手でアリサの肩をつかむと、力をこめて引き剥がす。意図せず、アリサは竜馬と向き合う形になった。
「なあに?好きだって言いたいの?」
 にっこり微笑み、アリサが竜馬を見つめる。竜馬はきついことを言おうとしていたようだが、何も言わずアリサの足を持ち上げて、そっと膝の上から下ろした。
「自己中心的で、プライドが高くて、人にちょっかいばかりかけてるようなやつ、好きになるわけないだろ」
 アリサの目を見ず、竜馬が言う。竜馬の顔が赤いところを見ると、嫌いなのはアリサの性格だけで、彼女の見た目には女性を感じているようだ。
「ちょっかい?」
「そうだよ。わさび入りのたこ焼きを食べさせたり、抱きついたり、噛みついたり、愛情の押し売りをしたり…小学生のころから全然変わってねえよ。それから…」
「ロープでぐるぐる巻きにしたり?」
 そう言いながら、アリサはその辺りにあった麻紐を、竜馬の腕を押さえるように体に何重にも巻きはじめた。
「そうそう、ぐるぐる巻き…え?」
 竜馬が自分の置かれている状況に気がつくのと、アリサが紐を結び終えて端を堅く片結びにするのとは、ほぼ同時だった。竜馬の体は麻の丈夫な紐で縛られてしまった。
「な、なんじゃこりゃ!」
 じたばたした竜馬が、天井を向いて、ばたんと畳に倒れる。足は使えるが、手が使えないので、起きあがることは難しい。
「いつまで経っても進展しないから実力行使に移ろうかと…」
 アリサが竜馬の腹の上に跨る。竜馬の、筋肉のついた腹とその熱が、麻紐越しに伝わってくる。
「おい、やめろよ!冗談はよせって!」
「冗談じゃないもん。いつもいつも、竜馬は私のことを見向きもしないで…私だって、好かれようと努力してるのに…」
「嘘つけ!そんなこと考えてるようには見えないぞ!」
 その言葉を言ってから、竜馬はしまったという顔をした。この言葉が、アリサの神経を逆撫ですることを、十分承知していたようだ。だが、もう後の祭りだ。
「何よ…竜馬の…」
 ぱあん!
「バカ!」
 アリサの平手が竜馬の頬を叩いた。
「いってえ!」
 痛そうな音と共に、竜馬の悲鳴にも似た叫び声が響き渡る。アリサの腕力は強く、全力で張り飛ばされた竜馬は、たまらないだろう。この場合、肉球の有無や毛皮の有無などは、痛みにはあまり関係がない。地球人の手で叩こうと、獣人の手で叩こうと、ビンタの痛みは同じである。
「バカ!バカ!」
 ぱあん!ぱあん!
 アリサは何度も何度も竜馬の頬を叩く。
「だってお前、今だってこんなに暴力を…いてえ!」
「これは竜馬が悪いの!好きになってくれない竜馬が!」
「それが自己中心的だって、いてえ、言ってんだよ、痛い!」
 指摘されて、一気に頭に血が昇る。竜馬のことがこんなに好きなのに、彼は自分の気持ちを一つも理解しようとせず、揚げ足ばかり取っている。性格が気に入らない、態度が気に入らない、行動が気に入らない…竜馬の態度に、さらに怒りが噴き出す。
「この、バカー!」
 アリサが腰を持ち上げ、一気に竜馬の腹の上に落とした。
「ぎゃああ!」
 一気に腹に体重がかかり、竜馬が苦しそうに叫んだ。アリサは軽いが、全体重を腹にかけられた竜馬は、たまらないだろう。この場合、尻の肉厚や毛皮の有無などは、痛みにはあまり関係がない。地球人が体重をかけようと、獣人が体重をかけようと、苦しみは同じである。
「とどめ…!」
 どんっ!
 最後に一発はたこうとして、アリサは背中に衝撃を感じた。何かに蹴られたと思った彼女は、後ろを振り返る。そこには一匹の猫がいた。どこにでもいそうな三毛猫だ。ベランダの窓が開いていたので、網戸を開けて勝手に入ってきたようだ。
「何よ。いいところなんだから、どっかいきなさいよ」
 右手で猫を追い払うアリサ。猫はアリサの手にはひるまず、あくびをしている。先ほど、発情声を出していたのも、この猫だろうか。
「どっかいきなさいってば」
 アリサはさらに右手を振る。一瞬、猫の瞳が大きくなった。
 がりっ
「痛っ!」
 次の瞬間には、猫の爪がアリサの手をひっかいていた。若い猫は、狩りの本能があり、動いている物に反応する。動いているアリサの手に興味を惹かれたようだ。
「こいつ〜!」
 アリサは猫を捕まえようと飛びかかる。猫はそれをひょいとかわして、逃げてしまった。
「逃がさないんだから!」
 猫を追い、アリサが畳を蹴る。
 ぐに!
「きゃん!」
 アリサの足が、寝ている真優美を強く踏みつけた。
「あ、あう…」
 一瞬目を開けた真優美が、がっくりと倒れ、気絶する。そうしている間にも、猫を追ってアリサが、部屋の中をかけずりまわった。
「捕まえた!外に放りだして…」
「アリサ〜?」
 猫を捕まえたアリサの後ろで、優しい猫なで声が聞こえる。竜馬の声だ。アリサの胃に、嫌な予感から来る重い物が、ずしりと入り込んだ。
「な、なあに?」
 にっこりと微笑んで振り向くと、麻紐を引きちぎって戒めを解き、手には「凶器」を持った竜馬の姿があった。先ほど、コンビニで清香が買ってきた、ピコピコハンマーという凶器を。
「縛ってくれたり叩いてくれたりしてありがとう。今俺、お礼がしたいんだ。すごく」
 その手に、プラスチックのハンマーを握っている竜馬は、顔は笑っているが目は笑っていない。猫が手の中から逃げ出して、外に行ってしまったことにも、アリサは気づかない。
「え?あ、いらないわよ。キスでもしてくれるのなら、嬉しいけど」
 じりじりと後ろに下がり、逃げる体勢を取る。
「それよりずっと素敵なお礼だ。いつもお前が俺にしていることの、数十分の1でも味わってもらえたら、幸せさ」
「せっかくだけど遠慮するわ。ほら、今は王様ゲーム中だし…」
「そうか、そうだよな。王様ゲーム中だもんな」
「え、ええ。そうよ」
 アリサはほっとした。竜馬はとても優しい。虫一匹殺すのもためらう竜馬が、こんなことするわけがない。竜馬が…
「んなわけあるか!」
 ぴこーん!
「きゃうん!」
 ピコピコハンマーがアリサの犬耳を叩き、アリサは悲鳴をあげた。ハンマーにはプラスチックのバリがついていて、それにひっかかれたアリサは、とても痛い。この場合、ピコピコハンマーのメーカーや値段などは、痛みにはあまり関係がない。耳をピコピコしようと、尻尾をピコピコしようと、痛みは同じである。
「くらえ!いつも俺のこと叩きやがって!苦しみを少しでも味わえ!」
 ぴこーん!ぴこーん!
 ハンマーの中から空気の抜ける、情けない音が、アリサの耳に響いた。
「きゃうん!やめてやめて!」
「やめるか、この!この!」
「このバカ竜馬〜!」
 とうとうアリサはハンマーから逃げ出した。その後を竜馬がハンマーを振り回して追う。
 ぐに!
「ぐあ!」
 竜馬の足が、寝ている修平を強く踏みつけた。
「ぐ、ぐふ…」
 一瞬目を開けた修平が、がっくりと倒れ、気絶する。そうしている間にも、アリサを追いかけて竜馬が、部屋の中をかけずりまわった。
「もうやられるもんですか!」
 がしっ!
 振り下ろされたピコピコハンマーを、アリサが両手で掴んだ。さながら、刀を白刃取りする侍のようである。
「ぐぬぬ、こいつー!」
「まだまだ!このー!」
 2人とも、一歩も引かない攻防が続く。極限状態の中、アリサは気が付いた。こうして戯れている時間こそ、竜馬との大切な思い出になる時間なのだと。


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