「うははは、見ろよ。竜馬、俺浮いてるぜ」
 部屋に戻った2人を出迎えたのは、ぐちゃぐちゃになってしまった寝室だった。ベッドにはベルトがついているから、もし無重力状態になったとしても、空中浮遊などしないはずだった。が、しかし。重力があることが普通だと思っていた少年少女は、自分の体をベルトで固定して寝るということを行わず、浮遊寝室を作り出してしまった。2人がこの部屋へ来るまでに、館内の重力はすっかりなくなり、水中のような浮遊感を体験するはめになってしまった。この部屋でも、布団などのかなり重そうなものまでふわふわ浮いている。
「竜馬…アリサもか。見苦しくてすまないな。無重力は初体験でな」
「やーん」
 真優美がスカートを押さえる。今彼女の下に潜り込めば、男の夢が見られることだろう。竜馬は邪な気持ちがわき上がるのを感じたが、真優美に嫌われては困ると思い、欲望をぐぐぐと押さえ込んだ。恵理香のスカートも気になるが、彼女は布団にくるまって、ベッドに無理矢理抱きついていたので、中を見ることは不可能だった。
「うはははは、こいつはいいや。ほーら、すーいすーい」
「あーもう!なんでこうなったのだ!」
 パニックが入っているらしい修平は、魚の真似をして、空中を泳いでいる。その後ろで、飛んできた誰かの上着を払いのけ、恵理香がベッドから浮き上がりそうになる体を必死に固定していた。
「うわっ!」
 とうとう恵理香が浮かび上がった。近くにいた美華子が、手を伸ばしたが、恵理香には届かない。恵理香は布団にくるまったまま、必死に泳いでベッドに戻った。
「…とっかかりがなかったから、手が届かなかった。」
 じいっと、美華子の目が恵理香の一部を見つめる。
「お前はまだ、人並みにあっていいだろうが。それは皮肉か?」
「別に」
 恵理香が反射的に自分の胸を押さえる。ぺったんこ狐である彼女は、そのことをコンプレックスに感じている。だからこそ、今の言葉も嫌みに聞こえてしまったのだろう。
「…本当に私のお友達だったの?」
 呆れきった表情で、アリサが聞いた。
「そうですよぉ。みんな、仲よかったんですから。アリサさんも、あたしと竜馬君のカップルを見て、嫉妬するぐらいだったんですよぉ?」
「嘘を教えちゃいけない」
 まじめな顔で、記憶のないアリサを洗脳しようとする真優美を、美華子が止めた。
「で、いったい何が起きたの?」
 寝入り端だったらしい美華子が、不機嫌な顔で聞いた。
「わからん。船長の部屋にいたんだが、彼はブリッジに呼ばれてた。なんかあったのかも」
 顔の方に流れてきたアリサの髪を払いのけて、竜馬が返事をした。アリサはポケットからヘアゴムを取り出し、長い髪を一纏めにした。
「なんか、って何?」
「いや知らんよ。船長、ブリッジへ、って無線が入って、ブリッジに行っちまったんだもんよ。そっからすぐ、俺とアリサはこっちに来たんだ」
「ふうん…」
 美華子がそれを聞いて、漂っていた上着を掴んで着用した。泳いでいる修平にぶつからないように、美華子がドアを開ける。
「美華子さん、どこに?」
「ブリッジ。文句言って来る」
 竜馬に聞かれて、美華子は行き先を告げた。そして、ぽーんと壁を蹴って、部屋を出ていった。
「あたしも行きますー!置いていかないでー!」
「うははははは」
 美華子の後ろに、真優美と修平が続いた。恵理香もどうするか迷っていたが、布団を脱ぎ捨てて、壁に掴まりながら外へと出た。
「アリサ、俺らも行こう。部屋で待ってることはないよ」
 慣れない無重力状態に戸惑いながらも、竜馬が床を蹴った。その背中を、アリサがぎゅっと掴む。
「どうした?」
 竜馬が後ろを振り返る。
「怖い…なんだかよくわからないけど、怖いわ」
 アリサの顔色が悪い。普段見ない表情をしている。竜馬は何も言わず、アリサの頭をぽんぽんと撫でた。アリサが落ち着いたのを見てから、彼女の手を引き、竜馬は部屋を出た。
「ごめんなさい、世話をかけちゃって…私って、いつもこうだった?」
 申し訳なさそうに謝るアリサ。やはり右手は上手く動かないのか、竜馬が強めに握っても握り返してはこない。
「いつもは俺の方が世話になってたくらいだよ」
 竜馬はにこりと笑い、フォローを入れた。既にみんな、先へ行ってしまったのか、廊下には誰もいない。竜馬はブリッジとおぼしき方向へ、手すりを伝って移動した。途中、他の船員が数名、忙しそうに駆け抜けくのとすれ違った。
「こっちかな」
 竜馬がアリサを引っ張る。重さがないためか、力を入れてアリサを引っ張っても、それほどの負担は感じない。元より、アリサは体重が軽いので、さほど問題にもならなかっただろう。
「あれ、どっちだよ…」
 三叉路に突き当たって、竜馬は立ち止まった。慣性のついたアリサが、竜馬の背中に顔を押しつけて止まる。船員は皆、どこに何があるかを暗記しているのだろうか、案内板のようなものは存在しない。
「えーと、こっち」
 考えあぐねていた竜馬に、アリサが道を指し示した。彼女はここで何日間か生活しているのだし、ブリッジの位置も知っていたのだろう。アリサの指し示した方向へ行くと、上へ上る階段があって、もたもたと空中を泳いでいる真優美の姿があった。
「あ、竜馬君にアリサさん。みんな、先に行っちゃって…」
「真優美ちゃん。ブリッジは?」
「あっちです。ドアが見えるでしょう?」
 真優美が顔を向けた正面に、自動式の開閉扉があった。アリサを引っ張り、竜馬がそちらへ向かう。
 ガーッ
 扉が開く。ブリッジは意外にも広かった。船舶というよりは、航空機のコクピットに近い構造をしている。よくわからないコンソールが広がり、その前に3人の船員がいた。後ろには、ライドラックとロッカが立っていて、早口に何かを話し合っていたが、内容を理解する事は出来なかった。
「なんか…やばい雰囲気だな」
 ようやく正気に戻ったらしい修平が、部屋のぐるりを見回してつぶやいた。あわただしく動く船員達は、ブリッジに侵入者がいることにも反応せず、ただ何かを必死に行っていた。
「あなた達。なぜここへ?部屋へ戻っていなさい」
 ようやく6人に気づいたロッカが、いらつきを隠そうともしないで言った。
「いやまあ、ここは話の流れ的に、何かあったんじゃないかと思いまして」
 頭を掻く修平。その動作だけで、巨体がふわりと動く。彼の身長も高いが、近くにライドラックがいると、まだ小さく見えるから不思議だ。
「あなた達は部屋にいてください。出歩かれては困ります」
 ロッカが語調を強めた。
「無理。こんなんじゃ、寝てもいられない」
 天井近くまで浮き上がってしまった美華子が、なんとか下に降りようとばたついた。もう既に上も下もないのだが、人間は周りの環境を見て上下を判断出来るようで、重力のない状態でも床に近づくことは出来た。
「せめて何があったかくらい、教えてください。行き場のない船、今は運命共同体ですよぉ」
 これもまた、無重力で体の制御が出来ない真優美が、壁に無理矢理張り付く。きっと彼女は、幼少期に地球に来たときも、こんな感じだったのだろうと、容易に予想できた。宇宙慣れしていないわけではない。単純に、運動神経が悪いだけだ。
「前から調子の悪かった船が、一時的に破損しただけだ。安心しろ。今船員が、修理作業を行っている。30分もすれば元通りになる」
 簡単に状況を説明するライドラック。と、ドアがばたんと開いた。
「む?」
 入ってきた船員とライドラックが、深刻な顔でなにやら受け答えをした。
「電気が、ダメ回路、内側からは直せない…外に出る、えーと、船の外に、必要がある…えーと…」
 真優美がまた通訳をしはじめた。今の断片的な語句を、竜馬が脳内で組み合わせる。要するに、電気装備関係が故障してしまったため、船の外に出て修理をする必要がある、という話らしい。そして、現在の船の進行方向に向かわなければならないため、真っ正面からデブリなどを避けなければならず、危険だという話だ。
「…理解出来ても、言わない方がいいこともある。君は友人達に、いらぬ心配を与えるつもりか?」
 ライドラックが目を細めて真優美を睨み付けた。
「みんな、知りたいんです。不安を煽ってるわけじゃ…」
 真優美が困惑した顔をする。彼女も彼女なりに、何か考えがあったのだろう。
「まあ、いい。船の修理が先決だ。動けるのは?」
「エンジンとコントロールパネルに人が行っています。コントロールパネルはともかく、エンジンは先ほどお話しした通り、停止していますので…」
「…人員を割けんと言うわけか。外には最低2人は必要なんだがな」
 この状況が深刻であるというのは、竜馬にもよくわかった。見も知らぬ宇宙で、凍り付いたまま浮遊する自分の死体を想像して、竜馬は背筋が凍り付いた。彼は宇宙に来てから、始めて恐怖した。
『竜馬君がね…僕は信じたくないなあ』
『全く、あの子ったら、何してるんでしょうね!親不孝だよ、もう!』
 父である和馬と、母である燕の声が聞こえた気がした。もし自分が死んだら、両親だけではなく、姉や妹、祖父も悲しむことだろうと想像して、竜馬は気持ちが落ち込んだ。
『この期に及んで、身内のことだけかよ。なんか…救えねえなあ、俺』
 自嘲気味に笑う竜馬。友人達にも家族がいる。それを知らないふりして、自分の家族のことだけを考えるのは、少々自己中心的だろう。竜馬の心に、何かよくわからない感情が湧きたった。役に立ちたい。
「俺に行かせてくれよ」
 考えなしに、竜馬が言った。
「だめだ。君は部外者だろう」
「どうしても?」
「どうしても、だ」
 ライドラックが首を横に振る。宇宙遊泳に慣れていない、しかも部外者に、そんな大役を任せる気にはならないのだろう。理屈ではわかっている。だが、過度に子供扱いをされた気がして、竜馬は少々心が揺れた。
 ガー
 扉が開いた。ライドラックとロッカが外に出ようとしている。と、ロッカの尻ポケットに、銃のようなものが見えた。美華子のダーツガンだ。
 ぐっ
「あっ!?」
 竜馬が尻ポケットに手を入れると、ロッカが色っぽい声で叫んだ。銃を抜き取った竜馬は、それをライドラックに突きつけた。
「どこに行こうってんだよ、お父さんよ」
 ライドラックは振り向かなかった。しかし、背中に銃口を向けられていることはわかったようで、動きを止めた。
「お、おい、竜馬…お前、何やってんだよ…なんでここでそんなこと?」
「気分。美華子さんがよく言ってんじゃん」
 呆然と、修平が竜馬のことを見つめる。ブリッジにいる管制員が、ポケットに手を入れて何かを出そうとしたが、ロッカがさっと手を挙げてそれを制止した。
「…これも、間違ったやり方だと思うがね。君は何がしたい」
「さあてね。でもなんか、その気になったんだ。2人必要なんだろ。俺も連れてってくれよ。こんなふがいない自分が、悔しくてさ」
 相も変わらず、背中に銃口を突きつけたまま、竜馬はライドラックをせかした。
「アリサといい、君といい。今時の高校生は、無鉄砲だな」
 はあ、とライドラックがため息をつき、額に手を置いた。
「何も部外者のあなたが行く必要はありません!私が…」
「副長。残れ」
 自分が行くと言うロッカのことを、ライドラックが止めた。
「ですが!」
「指揮官が一人必要だ。君は、ブリッジにいる3人に対しての重要な判断を、そこの少年少女に任せるつもりかね。それとも、私より的確に、回路の修理を行えると言う話か?」
 冷静なライドラックの声に、ロッカが黙り込む。
「ロッカさん。俺に行かせてくれよ」
 困惑気味のロッカに、竜馬が言い放った。真優美が、恵理香が、美華子が、修平が、そしてアリサが、ロッカとライドラックを見つめていた。
「…わかりました。あなたの方が若いし、男性の方が力もあるでしょう」
 とうとう、ロッカは白旗を揚げた。


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