幼稚園から帰ってくるときは、いつもわくわくした。今日は帰って何をしようかと思った。同様に、幼稚園に行くときもどきどきした。大好きな友達とあえるから。みーちゃん、しょうやん、くるこにりょうま。みんな大好きだったけど、その中でもりょうまが特別好きだった。りょうまのことを考えると心がぎゅうっとなる。
同じ小学校に行けると知ったとき、嬉しかった。とても嬉しかった。自分とりょうまの家は少し離れているから、もしかしたら別の小学校になるかも知れないことは、母に聞いていた。一番のお気に入りで、一番の大好きと離れるというのが、とても悲しかった。だけど、運命は私に味方した。
高校になって出会った竜馬は、あのころからひどく変わったようにも見えた。最初、どんなノリで会話をすればいいかわからなかったから、恋愛小説の女性側を気取ってみた。話をしてみて、前までの竜馬と変わらないんだって。そうわかったときから、私の止まった時の歯車は、また音を立てて動き始めた。
毎日、楽しかった。竜馬が私のことを、疎んでいるのもわかった。だけど、それでも私は嬉しかった。一緒にいるだけで、とても幸せだった。とても。
でも、竜馬は、私を結局は好きになってはくれなかった。悔しい。私は、努力をした。竜馬に好かれようと、いろいろした。竜馬は気づかなかったかも知れないが、彼にあう日には、一生懸命毛並みをそろえた。着るものにだって気を使った。つらいときも、特別明るく振る舞った。でも彼は…
「ん…」
明るい光に照らされて、アリサが意識を取り戻す。いつも、自分の枕元にあるはずの時計を取ろうと手を伸ばしたアリサは、ベッドの柱に手をぶつけた。そこでアリサは、自分が宇宙船に乗り、その4人部屋で寝かされていたことを思い出した。今寝ているのは、2段ベッドの下側だ。もう数日間ここで生活しているはずなのに、未だに慣れない。
起きあがってみれば、既に誰もいない。昨日までは、片言の銀河公用語と英語、そして日本語を使い、3人の女性と楽しく話していたはずだが。窓の外に、暗黒の空間と、小さな星々がある。起きあがったアリサは、部屋を出て、廊下を歩いた。
「今お目覚めですか?シュリマナさん」
ちょうどそこに立っていた副官が、アリサに挨拶をした。
「あ、副官の…」
「ロッカです。朝食が出来ていますよ。食堂へどうぞ」
名前を思い出せなかったアリサに、副官が自分の名前を告げた。彼女に言われた通りに、アリサが食堂へ向かう。最初に見たときには小さな船だと思ったが、なかなかに内部は広い。4階層になっている船内は、本当は20人乗りの設計だという話だが、今は14人で回しているそうだ。
最初、アリサは酔いに任せて船に乗ったことを、深く後悔した。知る者のいない集団に入り込むことが、心細いものであることを、よく知っていたからだ。また、相手を窃盗団だと思ってとても警戒して行動していた。だが、話をしてみれば、皆普通の人間ばかりだった。
『だからと言って、犯罪を行っていいというわけではないけど…』
何度もした考察。彼らは皆、まともな生活が出来ない、弱者と呼ばれる人間だった。仕事がない、前科がある、その他様々な理由で、人生を半ば絶たれてしまった人間ばかりだ。1度の失敗で、全てを失った人もいる。外国では、服役して出てこれば、それなりに社会的に許されると思っていたアリサにとって、これは意外だった。
「来たかい。みんなもう飯終わったよ」
食堂に入ると、ポニーテールで大柄な、草食系獣人の女性が、銀河公用語でアリサに話しかけた。今日は彼女が炊事担当らしい。名前を聞いた気がするが、忘れてしまった。
「遅れてごめんなさい。いただけますか?」
片言の公用語で返事をするアリサ。テーブルに着くと、すぐに彼女の前に皿が並んだ。見たことのない茶色く濁ったスープと、米だ。おかずにソーセージがついている。
「いただきます」
箸を手に取り、食事を始めるアリサ。アリサが日本人であることを考慮してか、食事には箸がついてきた。その他の人間は、よくわからないものを使ったり、ナイフとフォークをつかったりして食事をしている。乗組員が多国籍だからか、文化も混ざっており、ふとした中に教科書でしか見たことのないものを見ることもあった。
ガラッ
「遅くなった。食事をくれ」
食堂のドアを開け、入ってきたのはライドラックだった。
「船長。お疲れさまです」
そう言って、炊事担当の女性が、アリサと同じものをライドラックに出した。
「船長なのに普通の船員と同じ食事なのね」
日本語で、アリサがライドラックに話しかける。銀河公用語や英語でも問題はないが、通常使う日本語が一番使いやすい。
「当然だ。特別な食事が出来るほどの仕事はしていない」
ライドラックが、アリサの方を向かずに返事をした。
「謙虚ね〜。ますます、あんたが泥棒だって信じられないわ」
アリサがライドラックのことをじろじろと見た。例えるならば、大岩。大きく、なかなか動かない男のように見える。
「見た目で判断しないことだ。本当に欲しいものが出来たら、私は手段を選ばない悪人になる」
子供に言い聞かせるような口調で、ライドラックがアリサに言った。
「なったことあるの?」
「ああ、ある。奪うのが当然だとも言うつもりはないが、そうしなければ手に入らない物もある、わかるか?」
「ふぅん。やっぱり、よくわかんない」
表情を変えないライドラックに、アリサが疑問符を浮かべたまま話を終えた。しばらく、2人とも何も言わず、食事を続けた。キッチンでは、獣人女性が、せわしなく手を動かしている。使い捨てのクリーニングシートを使って、皿を磨いているようだ。
「今日はまた日本に降りるつもりだ。ここで船を降りて、帰るつもりはあるか?」
かちゃ
食器同士がぶつかって音を立てた。
「ないわ。一週間、生活を見せてもらうつもりだからね」
「そう、か。当初の約束だ、止めはしない」
ふふん、とアリサが鼻を鳴らす。ライドラックの目が大きくなった後、元に戻った。
「…さて。もう行かなければ。ごちそうさま」
スプーンを置いたライドラックが、食堂を出ていった。その食事の早さに、アリサは舌を巻いた。自分ならば、無理をしなければこんなに早く食事は出来ない。
「あんた、よく船長にあそこまで馴れ馴れしく出来るねー。度胸あるわ」
ききき、と女性が笑いながらアリサに話しかけた。
「度胸?」
アリサが聞き直す。
「そうよ。あの人、何か抱えてそうでね、私ら船員はあんまり突っ込んだ関係になれないんだわ」
「そっか…聞きたいことを聞いただけなんだけど…」
言われてみれば、確かにそのような感じもする。アリサは、今日までのライドラックの姿を思い浮かべた。他の船員は、一時的にでも新たな仲間が増えたことに対して、真っ向から歓迎の意を見せた。だが、ライドラックだけは、アリサを避けているようで、あまり会話をした覚えがない。否、ライドラックは船員のほぼ全てと、事務的な会話しかしていないのだ。2、3言、私的な会話をしているところもあったが、談笑しているという空気ではなかった。
「…あ、これ」
アリサは、テーブルの下に、指輪が落ちていることに気がついた。白色の、よくわからない金属で出来た指輪だ。表面に、黒く細く曲がりくねった線が模様として描かれている。黒というよりは、ワインレッドに近い色だ。
「それ、船長の物ね。いつも大事に持ってる物よ。落としたのかな」
女性が、カウンターから身を乗り出して、指輪を眺める。一瞬、アリサの中に、その指輪を欲しいという気持ちが生まれた。これのデザインを覚えておいて、いつか宝飾店で似たようなものを購入しようと、アリサはその指輪を目に焼き付けた。
「届けてくる」
「うん。今、船長は部屋に戻ったはずだね。そろそろ下降を始める時間だから、揺れに気をつけて」
ごちそうさま、と言って、アリサが食堂を後にした。宇宙船の中で、なぜ直立して歩けるのか、なぜ重さを感じるのか、アリサはよくわからない。しかし、こうして歩いているのだから、地に足を着けているのと同じだけの安心感があった。無重力状態になったのは、宇宙に出て15分間程度で、それからはずっと重力が来ている。話を聞けば、船が碇を下ろしているのと同じ状態だということだ。曰く、物質には全て多かれ少なかれ重力があるということだが、いまいちよくわからない。
1つ下の階層に降り、奥の方へ行くと、飾り気のないドアが目の前に現れた。
こんこん
「入れ」
ノックをすると、中から返事があった。アリサがドアを開け、中に入る。アリサの顔を見たライドラックは、机の上に広げていた紙を折り畳み、引き出しにしまった。引き出しの中には、鋭そうなナイフや何かを挟むらしい工具など、いろいろなものが入っていた。
「わ…」
ライドラックの部屋は、個室というよりは書斎だった。多くの、読めない文字の本が詰まった本棚が置かれ、それだけで部屋の正面と左側の2面が埋まっている。残りの1面は、2段ベッドの要領で、机の上にベッドが置いてある。同じような家具を見たことのあるアリサは、まさか宇宙船内でこれを見ることになるとは思っていなかった。やはり、閉鎖的な空間では、省スペースが重要らしい。また、全ての物に、無重力下での固定対策がとられていた。
「何か?」
眠たげな目で、ライドラックがアリサの方を向いた。
「これ、落とし物…違う?」
アリサが白い指輪を差し出す。
「…私の物だ。すまないな」
頭を下げて、ライドラックが指輪を受け取った。その指輪を、大事そうに机に置く。電灯に照らされた指輪が、光を受けて白く輝いた。
「いい指輪ね。私も似たようなの、欲しくなっちゃった。どこで入手した品なの?」
あわよくば、同じ物を買えるかも知れないと思ったアリサが、ライドラックに聞く。ライドラックは、眉一つ動かさず、黙り込む。
「あ、えーと。変なこと聞いちゃったかな。ごめんなさい。余所の手伝いしてくるね」
アリサが踵を返し、ドアに手をかけた。
「これが欲しいのか?」
その背に、ライドラックが声をかけた。声に、何かの感情が揺らいでいる。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。強いて似たものをあげるならば、喜んでいるようにも聞こえた。
「あ、ううん。似たようなのがあればいいなって思っただけ。別に…」
すっ、とアリサの前に、ライドラックが指輪を差し出した。
「いいの?」
不安になったアリサが、聞き直した。もし無理やわがままを言っているようならば、遠慮をするべきだろう。
「指輪は女の指が一番似合う。サイズがあうようならば、受け取ってくれ」
困惑顔のアリサに向かって、顎をくいっと動かし、受け取るように促す。アリサは指輪を受け取り、小さな声で礼を言った。
「…ねえ。なんで自転車泥棒なんてして生活してるの?その、言い方は悪いけれど、犯罪でしょう?こんなに立派な船があって、あんなにいい人たちが仲間なのに…」
いい機会だと、アリサが持っていた疑問をぶつけた。
「食堂でも似たような話をしていたな…簡潔に言えば、私たちの生きる糧を得るためだ」
悩む様子もなく、ライドラックが言った。
「他の手段もあるでしょう?会社を興すことだって出来るはずよ。あなたは冷静な判断が出来る人だし、副官さんだって優秀じゃない。そんな…」
アリサが口をつぐむ。ライドラックの周りに漂う空気が、だんだんと淀んできたのがわかったからだ。やはり、自分は突っ込みすぎるらしい。何も言わないのが、一番なのかも知れない。
「…君は、パンを食べるか?」
少し辛そうな様子で、ライドラックが話を始めた。
「パンを焼くときには、まず小麦が必要だ。地球の小麦種とは違う小麦も、宇宙にはもちろんある。だが、大抵の手順は同じだ。粉にしたそれを、水で練り、窯に入れる」
当たり前のことだ、とアリサは言いそうになったが、その言葉を飲み込んだ。こんなことを話し始めたのは、何か理由があるからだろう。
「だが…私は小麦を持っていない。もし持っていたとして、粉を練っても、それはパンにはならないんだ。わかるか?」
「わからない。もっと直接的な表現でお願い」
「これが適切な表現だ。本を読め」
まるで子供に言い聞かせるようなライドラックに、アリサがまたむっとした。
「失礼ですけどね、船長。私だって、本ぐらい…」
『ブリッジです、失礼します!』
急に、スピーカーから声が聞こえた。テーブルの上にある端末に、ブリッジからの通信を報せるアラートが表示されている。
「どうした」
『にっ、ニアミスです!航路を誤りました!あと5秒で…あ、あああ!』
がたぁん!
「きゃあ!」
船が大きく揺れた。ニアミスとは、宇宙船同士の衝突だろうか、それともデブリにでもぶつかったのだろうか。船が揺れたとたん、重力がなくなり、体が軽くなった。アリサがふわりと浮き上がり、続いてライドラックがイスから浮かび上がった。
と、固定してあるはずの本棚が浮かび上がった。金属製の床固定具がはずれている。中の本が暴れている。ゆっくりと、本棚がライドラックの方へと近づいた。
「危ない!」
アリサが壁を蹴り、その間に割って入った。そのときの彼女は、ライドラックが危ないと、ただそれだけの思考しかなかった。重力下ならば、アリサの持ち前の腕力で、大きな本棚だって押さえられたかも知れない。彼女の最大の誤算は、宇宙空間での作用反作用だった。
ごぉん!
「ぐぁ!」
勢いのついた彼女は、真っ直ぐに本棚に額をぶつけた。アリサは運動をしていた関係で、成人男性を数人担げるほどに力が強い。そんな彼女が、緊急事態だと、体中をバネにして本棚にぶつかったのだ。衝撃は想像を絶する物で、危険度も跳ね上がる。
本棚のガラスが割れる。ライドラックの叫び声が聞こえる。アリサの意識は、暗黒の中へ転がり落ちる。
『あ、ら…?』
意識を失う前、アリサの中にいた誰か…大事な、大切な誰かが、どこかへ行った気がした。
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