がちゃん
「ただいまー」
部屋のドアを開け、竜馬が中に入った。アパートには、既に修平が来ていた。キッチンでは、竜馬の姉である清香が、中途半端に長い髪を後ろに束ね、何か料理をしている。
「おかえり。真優美ちゃんも一緒?」
がたん
フライパンをコンロに置き、清香が玄関の方を向いた。
「はい。おじゃまします〜」
竜馬と真優美が靴を脱ぎ、居間の方へ入った。開け放たれた窓から、春の風が部屋の中に吹き込んでくる。
「ご飯食べるでしょ?ちょっとまって、増量するから」
「え、いいんですか?」
「いいのいいの。修平も食ってくって言うし、大して変わんないよ」
3人前のつもりで作っていたであろうチャーハンに、清香は無造作にご飯を追加した。じゅう、といい音がして、湯気が立つ。真優美の大食らいを理解してか、清香は4人前には多い量の食事を用意し始めた。片方のコンロでは、既に出来上がった卵スープが、胃を刺激する匂いを放っていた。
「何か手伝います?」
「じゃあ、お皿お願い」
後ろに立つ真優美に、背を向けたまま清香が返事をした。真優美が食器棚を開き、必要だと思われる皿を出す。
「いいよなあ…」
修平の目が、うっすらと細くなった。彼は清香のことが好きで、清香に強く惚れている。そのせいあ、彼の発言には、清香を意識したものが多い。今、いいといっているのは、清香の後ろ姿かエプロン姿か。どちらにせよ、清香のことであることは明白だ。
「それ言い始めてから1年になるんだな。飽きないか?」
制服のブレザーを脱いだ竜馬が、長押にかかったハンガーにブレザーをかける。
「飽きないねえ。俺、清香さんに惚れたままだもんよ」
「冷めない恋ってやつか。ロマンチストだねえ」
相変わらず、夢を見る目の修平に、竜馬が苦笑した。この1年で、高校生の青春と呼ばれるものを多く経験した竜馬は、少し成長した物の考え方をするようになっていた。
「えーと、これは…」
出したスープ皿に、真優美が卵スープを流し込む。隣に、熱いフライパンを持った清香が来て、チャーハンを盛り始めた。
「早く学校が終わると、こういう楽しみ方もあっていいねえ」
にこにこと修平が笑い、スプーンを取った。
「あ、修平君。食べながらでいいから聞いてください。これなんですけど…」
「どれよ」
真優美が、ポケットから取り出した手帳を、修平に渡した。
「見覚えあるでしょう?」
「あー、これね。まだやる気?」
真優美と修平が、よくわからない話を始めた。どうやらこれが、真優美が言っていた用事らしい。2人が真面目に話をしているところから、大事な用事であることが理解出来た。だが、よくわからない言葉が何度か出たせいか、横から話を聞いている竜馬には、何が何だかわからなかった。
「…で、4つでしょう?だから、後2つあれば、なんとかなるんですよぉ」
「そうかいそうかい。でも俺は、原付を提供する気はないよ」
「いいじゃないですか。知り合いにスクーター持ってるの、修平君だけなんですよ?もう…」
苦笑いで何かを拒否した修平に、真優美が頬を膨らませた。
「何の話?」
チャーハンをスプーンですくって、清香が聞く。
「修平君、原付の免許を取って、スクーターを持ってるんですよ。それであたし、ちょこっと改造して、空を飛べるように出来ないかなーなんて思って…」
真優美の目が輝いている。機械や回路をいじっているときの彼女は、とても活き活きとしている。成績も悪く、頭もそれほどよくない真優美が、なぜここまで機械関係は得手なのか、竜馬には理解出来ない。
「それって、改造二輪の許可がいるんじゃないの?それか、航空機か…」
「学校のグランドだけでやりますから大丈夫ですよう。後でちゃんと元に戻します〜。出来るかどうかだけ試したいんです。お金があれば、自分で物をそろえるんですけど…」
「そうだね。原付買うとなると、結構要るよね」
少し悔しそうに言う真優美に、清香が頷く。
「金の話は身につまされるなあ…うちもな、この間…」
げしぃ!
「あがっ!」
物を言おうとした竜馬の頭を、清香のげんこつが殴った。強い衝撃で、一瞬視界が飛んでしまった竜馬は、頭を押さえた。
「何しやがる!」
「いや?別に」
怒る竜馬を後目に、清香が食事を続ける。竜馬が言おうとしたのは、先週、清香が浪費した件だ。金がなくて仕方がないと言っているのに、清香は学校の友人達と高額な飲み食いをしたばかりか、サークルの後輩の分を肩代わりしたということだ。
清香にしてみれば、浪費のことを言われては面白くないのだろうが、こんな態度を取ったら周りにわかってしまうだろうにと、竜馬は痛い頭を押さえて考えた。
「大丈夫ですか?」
真優美が竜馬の頭を撫でる。
「大丈夫だよ。ったく…都合の悪いことはすぐこうなんだから」
悪態をついた竜馬が、頭を押さえて、スープを飲む。
「あ、お前、片手でそんな食い方したら…」
ばしゃん!
「うあっちぃぃ!」
清香が止めようとした矢先、竜馬はスープをこぼし、着ていた服にかけてしまった。熱さのあまり、竜馬が飛び上がる。
「大丈夫ですか?」
テーブルの上に置いてあった雑巾を取り、真優美が竜馬の服を拭う。
「あー、うん。俺、ちょっと着替えてくるわ」
滴が落ちないように、大股に部屋を横切った竜馬が、自室に入る。幸い、Yシャツとズボンのみで、下着には染み込んでいないようだ。ちょうど昨日脱ぎ散らかしたロングシャツとジーンズがある。
「この向こうでは、竜馬君が…あん、もう!」
襖の向こう側から、真優美の声が聞こえる。彼女がアリサのようなことを言うなど、とても珍しい。普段の恥ずかしい会話には、顔を赤らめて、参加しようともしない真優美なのに。やはり、春は恋の季節なのかも知れない。
「悪い悪い。ちょっとぼーっとしてたわ」
襖を開けて竜馬が戻った。テーブルはきれいに拭かれて、卵スープのおかわりが置かれている。清香が用意してくれたのだろう。
「しかし、スクーターで空ねえ。本当に飛べるの?」
いかにも懐疑的と言った様子で、清香が真優美をちらりと見た。
「ええ。プロペラで本体を持ち上げるんですよぉ。斜め上に上昇するか下降するかしか出来ないので、勢いをつけて落ちるともう上昇出来ないで…」
「あー、わかったわかった。突っ込んでごめんね」
「あう」
嬉々として説明をしようとした真優美を、清香が押しとどめた。聞いても理解できないとでも思ったのか、はたまた面倒くさいとでも思ったのか。後者だろうと、竜馬は口に出さず考えた。
「でも、夢があって…」
ぶぶぶぶ
言葉を発した竜馬のポケットで、携帯電話が震えている。電話がかかってきた様子だ。竜馬は携帯電話を取り、また自室に入った。
「もしもし?」
竜馬が携帯電話を耳に当てた。
『竜馬?私だけど』
聞き慣れた声が聞こえてくる。電話の相手はアリサだった。声にノイズがかかったかのように、時折ザーザーと音が入ってくる。
「どうした?何か用でも…」
『見つけたのよ。竜馬の自転車を盗んだ犯人』
「へぁ?」
その唐突な話に、竜馬が素っ頓狂な声をあげた。
『今の位置は、そうねー。うちらの街から、高速で1時間ほど来たところ。たぶん東京湾。宇宙輸送機の駐機場があるの。そこに…』
「ちょ、ちょ、待て。お前、どうして?」
話を続けようとするアリサを、竜馬が制した。彼女がなぜそこにいるのかもわからないし、どんないきさつかもわからない。わからないことずくめだった。
『偶然、竜馬の自転車を積んだ軽トラを見つけてね。荷台に載って、ここまで来たの。たぶん、最近噂になってた、自転車泥棒よ』
電話越しに聞こえるアリサの声は、軽く興奮している。連続自転車泥棒の話は、竜馬も聞いていた。曰く、自転車の多く停めてあるところで、自転車を根こそぎ盗まれると言う事件が起きているとのことで、学校でも注意喚起の連絡が来ている。竜馬はまさか、自分の自転車が、件の犯人に盗まれているとは思わなかった。
「信じられないなあ…」
思ったことが口をついて出る。にわかには信じがたい話だ。
『本当なのよ。それで、今からこの自転車を持って、帰ろうと思うのよ』
「はぁ!?」
さらに続けたアリサの言葉は、竜馬を驚愕させるのに、十分な破壊力を持っていた。
「おま、高速道路で1時間のところだろ?帰ってくるのに時間が…いや、それは、まあ、いいとしてさ、相手は窃盗団だろ?」
『そうね。どうしたの?』
どもってしまい、上手く物の言えない竜馬に対して、アリサは緊張感のかけらもない。
「いやいやいや、怪我とかしたら困るだろうし、逆に勝手に持って帰っちゃ不利になるでしょうよ。警察に電話して、おとなしくしとけよ」
『でもそうすると、押収されてから数日間は、帰ってこないかもよ?それに、裏付け捜査とかで、帰ってくるまでにさらに時間がかかるかも。いいの?』
「いいよ。うん。マジで。それで帰ってくるならそれでいい。お前、くれぐれも暴走してくれるなよ?恥かくのは俺なんだからな?」
アリサの理論は間違っていないかも知れない。が、しかし。自分だって間違っていないはずだと、竜馬は真っ白になった頭で必死に考えた。アリサのやろうとしていることが、おおよそ常識的とは思えないのだ。
『暴走って何よー。私は竜馬のためを思ってやってるのよ?』
電話口のアリサの声が、不機嫌の色を帯びてきた。それでも、竜馬は退くわけにはいかない。
「余計なお世話だよ。いいから帰ってこいよ。危ないだろ?」
『大丈夫よ。心配性なんだから。いざとなったら力ずくよ。竜馬だって私の腕力、知ってるでしょう?』
「大丈夫じゃねえよ。何かあったらどうするんだ。だいたい、常識的に考えて、そんなことするやついないだろ」
『何もないわよ。すぐ自転車が帰ってきた方がいいだろうなって、私は思うわけよ』
話が通じない。竜馬はだんだん、いらいらが募ってくるのを感じた。アリサはもっと話のわかる少女だと思っていたが、そうでもないようだ。こんな向こう見ずで馬鹿馬鹿しいことを始めるとは、この1年間アリサを見続けてきた竜馬にとっても、意外だった。
「…えーい、話聞けよ!やめろって!」
とうとう、竜馬は堪忍袋の緒を切ってしまった。怒鳴り声に驚いた修平が、襖の隙間からこちらを見ている。
『なんでそんな怒るわけ?私は竜馬のためを思って…』
「怒ってんじゃないって!俺もアリサのためを思ってるんだぜ?そんな…」
上手く言葉が出なくなった竜馬は、黙り込んだ。なんとかしてアリサを止めたいが、どうにも難しい。彼女もやや怒りはじめてしまったようだし、それを止めるならば、また優しく言わなければならないことだろう。
『…腹立ってきたわ。いいよ、もう。自転車持って帰るから、また後でね』
ぶつっ
「おい!おいってば!おーい!」
通話口に向かって、竜馬が声を吹き込むが、返事が来ない。どうやら、アリサは電話を切ってしまった様子だ。慌てた竜馬が、再度電話をかけなおす。
『おかけになった電話は、電波の届かないところにいるか、電源が…』
機械音声が返ってくる。電源も切ってしまった様子だ。嫌な予感が、胸いっぱいに広がる。
「今の電話は?」
襖の隙間から修平が顔を出した。
「いや、さ。アリサが…」
竜馬が今の電話のことを話す。竜馬の自転車を盗んでいったらしい集団に、アリサがこっそりついていって、自転車を奪い返してくるという話を。
「アリサさん、案外要領いいですから、大丈夫ですよぉ」
真優美がからからと笑った。そわそわしているときに、彼女の笑う姿を見ると、心なしか少し落ち着く気がする。アリサがちゃんと帰ってこればいいが、と竜馬は思いながら、食事に戻ることにした。
後に、このことで後悔することになるとは、竜馬は気づいてすらいなかった。
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