夜になり、帰って軽い夕飯を済ませたアリサは、美華子からもらった薬を服用していた。美華子の説明では、胃の中で膨らんで、空腹を抑えるものだと言う。確かに空腹は収まった。しかし…
「うええ…」
 アリサが口を押さえ、ベッドに寝転がっている。どういう仕組みで空腹をなくしているかはわからないが、空気が胃に大量に入ったかのような不快感が、アリサにつきまとっていた。どうやら、本当に胃を満たすだけの薬のようだ。胸焼けがひどい。
「これ、きっついわ…美華子、こんなの飲んでたのかな」
 目の上に腕を乗せ、光を遮断する。体が重い。いつもならこの時間は、自分の趣味のことをしているはずなのに、する気が起きない。読書ですら、今の体には負担だ。薬があるからと、極端に食事を減らしたせいだろうか。今日は、ほとんど食べた気がしない。夕方暴れたのも、体力の消耗に一枚噛んでいるのだろう。
『でも、効果は出てるのよね…』
 ぐったりしたまま、アリサが考える。ついさっき、入浴した後に計った体重は、3日前と比べて600グラムも痩せていた。ダイエットが出来るか不安だったアリサだが、やれば出来るのだという自信がついた。食事を制限し、朝にはジョギングに行き、家に帰ってからは筋トレを行う。負担は大きいが、リターンも大きいようだ。この勢いに乗じて、増えた分の体重だけでも落としてしまいたい。それだけ落ちれば、適正体重だった以前の状態に戻る。
『そうすれば、竜馬だって、私を見直すに違いないんだから…』
 唇を噛むアリサ。言い出したのは彼だ。それに当てつけるわけではないが、しっかりダイエットが出来るところを見せれば、少しは心証も変わろうというもの。ダイエットの目的は、自分自身が健康な体重に戻るためというのもあるが、竜馬に好きになってもらうためというのもある。
「うう、調子悪い…散歩でも行こ…」
 胃の膨満感を紛らわすため、アリサは散歩に出ることにした。玄関で靴を履き、外に出る。既に春と言っていい時期だ、夜風が気持ちいい。東京の端に位置するこの街は、山がそれなりに近いこともあって、都内に比べて空気はきれいだった。
 歩いているだけで、それなりに気は紛れる。行く宛もないまま、アリサは暗い夜道をふらふらと歩いた。この時間だから、開いている店もほとんどない。コンビニエンスストアに立ち読みにでも行こうかと、何の気なしに十字路を曲がると、向こうから一人の女性が歩いてきた。
「シュリマナさん?」
 女性がアリサに声をかける。アリサはその女性の顔をじいっと見て、5秒ほどしてから思い出した。彼女は寺川五十鈴。現在は2年生で、天馬高校の生徒会長をしている女性だ。そのかわいらしさと行動力から、多くの支持者を得ている。
「寺川さん。こんばんは」
「こんばんは。シュリマナさん、夜歩き?感心しないわ。最近物騒なのよ?」
 挨拶をするアリサに、少し心配そうに、寺川が返事をした。
「ちょっと、暇だったもので…コンビニに立ち読みでも行こうかと…」
 アリサがえへへと笑う。アリサと寺川は、何度か話す機会があった。寺川は、どうやらアリサのことを、ちゃんと覚えていたようだ。人の上に立つカリスマだから、人の顔を覚えるのは得意なのだろう。
「私もコンビニに行くところよ。一緒に行きましょう」
 にっこりと寺川が笑った。その笑顔に、アリサがうっと唸る。女のアリサから見ても、確かにかわいい。竜馬も以前、寺川の前で鼻の下を伸ばしていたことがあった。自分がいい女だと信じて疑わないアリサだったが、それでも他にいい女がいると焦ってしまう。
「寺川さんも立ち読みですか?」
 何とはなしに、アリサが聞いた。
「これから友人のところに行くのだけど、手みやげらしい手みやげを用意出来なかったから、コンビニで買って行こうと思ってね」
 ふふっと笑う寺川。とても嬉しそうだ。
「それって、彼氏さんですか?ほら、副会長の…」
「よくわかったわね。彼の家に行くところなの。でも、彼は交際相手じゃないわ。彼とはただの友達。勉強を教えに行くの」
 いたずらめかして聞くアリサに、寺川がまた嬉しそうに答える。副会長は、細身の爬虫人種の男だ。寺川が総指揮官だとすると、彼は中間指揮官だろうか。寺川の陰となり傘となりよく働いている。天馬高校ほど大きな高校となると、生徒の数も多く、様々な問題が発生する。それを鎮圧するのが生徒会だ。事実、アリサは生徒会室の倉庫で、大量の銃らしきものが並んでいるのを目にした。スタンガンの一種らしいが、物騒なことに変わりはない。
 この男と、寺川が一緒にいるところを、アリサはよく見ていた。昼休みに食事をするときや、帰宅するときなどだ。だから、アリサはてっきり2人が付き合っているものだと思っていた。
「たまにこうして私用であうの。まあ、彼は私に釣り合う人じゃないから、それ以上はないけれど…」
 寺川が含み笑いをする。
「釣り合うって、家柄ですか?やっぱそういうの、気にします?」
 少し遠慮気味にアリサが聞く。家柄で交際相手の範囲が狭まるとは、彼女自身は思っていない。好きあっていれば、身分など吹いて飛ばしてしまおうというのが、アリサの考えだ。
「家柄、ではないわね。性格が釣り合わないのよ。彼、非常に理論派で、ちゃんと物事を検証してから先に進むタイプ。私はまず実行したくなってしまうのよね」
「ああ、そういう意味の…」
 微笑んで言う寺川に、アリサが頷いた。性格の不一致ということならば、アリサはよく言われている。竜馬が、アリサと性格的にあわないため、付き合えないと言っているのを、耳にしているからだ。
『私は竜馬の性格、好きなんだけどな…優しいし、人のことちゃんと考えられるし…きゃうん』
 頭の中で、都合のいいように竜馬のことを考えるアリサ。と、車にぶつかる寸前で足を止めた。既にコンビニの前まで来ていたようだ。自動ドアを開き、2人が中に入った。
「ん、と…」
 紅茶のティーパックとケーキを手に取り、寺川がレジに向かう。あらかじめ買うものを決めてあった様子だ。
「紅茶にケーキですか。まるでお茶会ですね」
 後ろからアリサが茶化す。
「勉強を教える約束だからね。甘い物、脳に効くでしょ?」
 買った品の入ったビニール袋を、寺川が手にぶら下げた。ここ最近、甘い物など食べていないアリサには、プラスチックのケースに入ったケーキが、これ以上ないほど尊い物のように見えていた。海を長い間彷徨い、陸に上がったそのときに飲む真水のような、渇望しても手に入らない物のように。
「じゃあ、私は行くわ。もし学校で何かあったら、教えてちょうだい。生徒会が力になるわ」
「あ、はい。おやすみなさい」
「ええ、おやすみ」
 寺川が店から出ていく。その後ろ姿を見送って、アリサは店内に振り返った。考えてみれば、コンビニエンスストアというのは、コンビニエンスに物品を入手できるストアという意味だ。生活用品の他、飲料品や食料品も多く取りそろえている。これほど危険なところに、なぜ入り込んでしまったのか、アリサは自分で自分を責めた。
「あぁ…」
 シュークリームがアリサを見つめている。いや、見つめてなどいない。そう思いこんでしまっているだけだ。前まで、何の気なしに食べていたシュークリームが、今はこんなにも遠く、手の届かない食品となってしまった。
 ここ数日間、口にしたものと言えば、キャベツや貝割れ大根などの野菜類か、こんにゃくや白滝などを煮たローカロリー食品ばかり。甘みが欲しくなったら、煮込んだ人参を囓っていた。もちろん塩も制限し、砂糖などはほとんど料理に使っていない。最初のうちは、それほど苦でもないと思っていたが、たった3日でこんなにも辛く感じ始めた。今、竜馬からのキスとシュークリーム、どちらかを選べと言われたならば、かなり悩むことだろう。以前ならば、キス一択だったのに。
「うう…」
 何も見ないで、アリサは店から出ようとした。立ち読みは次の機会にすればいい。今この場にいるのは危険だ。また太ったら、大変なことになる。
 と…歩き出したアリサは、棚に目を奪われた。甘そうなチョコレート。新製品、と大きく広告が出ている。茶色い、まるで黒馬の肌のような色をした、魅惑の菓子。噛んでよし、舐めてよし、甘い菓子。夕方、竜馬と祐太朗が、ドーナツを食べていた姿が、目の裏にちらつき始めた。
「…あ、れ?」
 気がつくと、アリサはチョコレートの入ったビニール袋を手に、コンビニの外に出ていた。
「なんで…」
 がさ…
 袋の中を見るアリサ。先ほど見た、新製品の他に、板チョコを数枚買っている。記憶がない。いや、記憶がないわけではない。なぜかはっきりしないのだ。チョコレートを買っている自分が、まるで夢の世界にいたかのような、現実感のない感覚。手元にはレシートがあるし、盗んだものでないことは確かだ。一体なんだと言うのだろうか。
『少しなら、いいよね…うん』
 何も言わず、アリサが板チョコを1枚取り出した。包装紙を外し、銀紙を破く。アリサの敏感な鼻に、チョコレート独特の甘い匂いが入り込んだ。渇望していた甘味が目の前にある。それだけで、アリサには十分だった。竜馬のベッドに忍び込んだときのような、後頭部がじんじん来る興奮が、アリサを包む。
 バキッ
「あっ…」
 チョコレートをくわえ、割る。口から鼻に抜ける強烈な匂いに、アリサは意識が飛んで倒れそうになった。美味しい。たった3日ぶりの甘味が、こんなにも美味しいとは。路上だと言うことも忘れ、アリサはチョコレートを楽しむ。
 チョコレートには、摂取限度量があることを、アリサは知っている。獣人と爬虫人は、チョコレートに入っているある物質に、耐性をあまり持っていないのだ。個人によっては、中毒症状まで起こしてしまう。だが、今のアリサは、たとえ中毒を起こすとしても、たとえまた太ってしまうとしても、口を止められない。止めることが出来ない。
 ばりっ、ぼりっ、ばりっ…
 夜の路地。人のいない路上に、アリサがチョコを噛みしめる音が響き渡った。


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