「…とまあ、このように、宇宙飛行士というのは今ではありふれた職になった。もっともこれは、人間の進歩というよりは、技術の発展によって宇宙船が…」
社会の教師が黒板に文字を書いている。地球人の男性教師だ。アリサは窓際の席で、机に突っ伏して、その話を聞いていた。
「うう」
小さく唸って胃を押さえるアリサ。空腹がひどい。ダイエット中だからということで、朝は果物と野菜しか食べていない。バナナを1本と、コールスローサラダのみだ。
果物と野菜、そして少量の炭水化物という生活を始めて、これで3日目になる。自分はそれほど食べる方ではないと思っていたアリサだったが、さすがにこれだけの量で昼休みまで過ごすというのは、無理だったらしい。今日は、どれだけ少ない食べ物でしのげるかを試そうと、わざと少な目にしたせいか、さらにお腹が空いてしまった。
「日本でも、岡山県のMATU工業などが、宇宙船の製造販売を行っている。砂川。空中何キロまで、その国の領空に入るんだっけ?」
座っている生徒達の中から、教師が修平を指した。
「あー、と…500万キロメートル?」
自信なさげに、修平が答える。
「そう、500万。大気圏内だ。それ以上は外空、つまり宇宙だから問題はないが、それより中に入る場合には、許可が必要になる。突入中に、その国の空から別の国を横断する場合にも…」
小難しい話が続いている。もう限界になったアリサは、ポケットの中をごそごそと漁った。何か食べるものがあるかも知れない。だが、アリサの予想に反して、ポケットの中には飴すら入っていなかった。
『お腹空いたぁ…』
ふぅ、とアリサがため息をつく。残りの授業時間は15分。これが終わった後にも、昼食時間までには、2コマも授業がある。かなり我慢しなければならない。
「…問題は、空中横断許可を取りようのない場合があるということ。例えば、多くの国が集まっているアフリカなどでは、その手続きがかなりの数になり…」
カッカッカカ
チョークが黒板を叩く。アリサは慌ててシャープペンシルを手に取った。ノートを取り始めるも、空腹のせいで集中出来ず、ペンがよく止まる。
『なんでこんなにぼーっとしちゃうのよぅ…これも全部、私が太ったとか、竜馬が言うから…!』
心の中で怒ってみるも、それがひどくお門違いなのは、アリサ自身が痛いほどに理解していた。だからこそ、誰に当たることも出来ず、悶々としている。せめて、誰かが責任をかぶってくれれば、まだ楽なのかも知れない。
『…だめよね、こんなん』
この、人のせいにしたがるところも、竜馬がアリサを嫌っている一因なのだろう。アリサは自分を戒めた。退屈になったアリサが、ふいと窓の外を見る。
「あ…」
今アリサが授業を受けている1年2組の教室は2階に位置している。そして、窓からは学校近くにあるコンビニが見える。ちょうどそのとき、コンビニの前で、小学生らしき子供達が数人、間食をしているところだった。なぜ平日の昼間から、小学生が出歩いているのかはわからないが、その食事風景にアリサは目を奪われた。
「ぁ…」
小さい声が口から漏れる。湯気の立つカップラーメン。ひんやりとして甘いアイスクリーム。少年達が食べているのは、ダイエットのためにアリサが絶っているものばかりだ。今まで強くは意識していなかったが、なんと美味しそうに見えるのだろう。涎が垂れる、という慣用句の意味を、アリサは心から思い知った。
『我慢よ、我慢、我慢だから…』
強く強く自分に言い聞かせるアリサ。だが、決意に反して、目は窓の外、おやつを食べる子供達に向けられてしまう。
ずる
と、少年の持っているアイスクリームが、棒から落ちて地面に丸い水たまりを作った。
「ああっ!」
授業中だということも忘れ、アリサが大声を出す。はっ、と気がついて教室の方へ顔を向ければ、教師やクラスメートが何事かと自分を見ているところだった。
「シュリマナさん。大丈夫?」
小さな声で、隣に座っている少女が聞いた。
「う、うん。なんでもないの…」
罰が悪くなったアリサが、小さな声で返事をした。教師が、手に持っていたチョークを置いた。
「ならばいいが…おおかた、居眠りして、変な夢でも見ていたんじゃないか?」
教師が苦笑いをする。まさか、アイスが落ちたのをもったいなく思って、思わず大声を出してしまったとは言えない。アリサは照れ隠しに小さく笑った。
「…今日で3日目ですよ。なんだか、日に日にアリサさんがやつれてるような気がするんです」
チョコレート色の毛をして、ミドルの銀髪をパーマにしている犬娘が、ラーメンを食べながら、心配そうな声を出した。
「そうだね。でも、アリサがしたがってるんだから、邪魔も出来ないじゃん」
向かい側に座る、ショートボブの茶髪で目の色の薄い地球人少女が、スプーンを片手に気のない返事をする。獣人の少女は真優美・マスリ。地球人の少女は松葉美華子。2人とも、アリサと仲のいい生徒達だ。
「そうですけどぉ…アリサさんの前で、おおっぴらに物を食べることも出来なくなっちゃったじゃないですか。なんだか悪い気がしちゃって…」
ずるるる
麺を吸い込むように食べる真優美。彼女は非常によく食べる。今までも、アリサの目の前で、気軽に間食をしていた。だが、アリサがダイエットを始めてからと言うものの、彼女に妙に気を使ってしまい、菓子などを食べるときにはアリサに見つからないようにこそこそと食べている。それが億劫だと、真優美は言っているのだ。
「じゃあアリサにダイエットやめるように言えばいいじゃん」
「そうも行かないでしょう。ほら、ダイエット始めた理由が…」
「知ってる。錦原に太ってるって言われたんでしょ?」
眉毛をハの字にして言う真優美に対して、美華子がさらりと返答した。
「…わかってるんじゃないですか〜」
真優美が不満げな顔をした。
「あいつもデリカシーないね。ま、関係ないけど」
すくい上げたカレーライスを口に入れ、美華子が呟くように言う。
「お友達として、何か手助けが出来るといいんですけどねえ…」
ふぅ、と真優美が息をつく。目の前においてあるラーメンの丼は、既に空になっており、今は副食として買った総菜パンを囓っていた。
「あ、いいこと思いついた」
美華子が目を見開き、スプーンを置いた。
「恵理香の料理を弁当にしてアリサに渡すっていうのはどう?無理せずダイエットできそう」
そのあまりに突拍子もない提案に、真優美ががくっと首を倒した。恵理香の料理自体は、ヘルシーなわけでもダイエットに効くわけでもない。何が効果的かと言うと、非常に不味いのだ。犬も食わない、というレベルではないが、非常に料理が下手である。彼女もなんとかそれを改善しようと努力はしているのだが、あまり芳しくないようで、多くの被害者を出している。被害者の中でも、一番の被害に遭っているのは竜馬だった。彼が料理が上手く、さらに協力的でもあるからなのだろうが、そう何度も下手な料理を食べさせられては、竜馬にしてみればいい迷惑だろう。
「暗に恵理香ちゃんにひどいこと言ってますね…」
じと、とした目で、真優美が美華子を見つめる。
「じゃあ、恵理香の料理、毎日食べられる?」
「…すいません」
挑戦的に、美華子が聞いた。一瞬、真優美は迷ったが、すぐに白旗を揚げた。食いしん坊の彼女が、箸すら着けないほど、恵理香の料理は不味いのだ。
「結局、こんなこと話し合ってても、建設的じゃないんですよね〜。あたしがダイエットしてるわけでもないのに、なんだかお腹が痛くなっちゃいますよぅ…」
美華子が食べ終わったのを見て、真優美がトレーを持って出口へ向かった。真優美と美華子が、トレーを返却コーナーに返して、外に出る。
「むしろ、まだ3日って言う方が正しいのかも。三日坊主、みたいな言葉もあるじゃん」
がっちゃん
外に並ぶ自動販売機にコインを入れ、美華子が炭酸飲料を買った。ぷしっ、と小気味のいい音を立てて、炭酸飲料の缶が開く。
「じゃあ、これからが本番だと?」
「ん。私はそう思う」
2人が連れ立って階段を上る。2階にある教室に戻ると、アリサが窓際の席で本を読んでいるところだった。
「アリサ、お昼は終わったの?」
アリサの横から美華子が声をかけた。美華子の声に、アリサがびくっと体を震わせ、尻尾を立てた。
「な、何か用?」
イスの上で振り返ったアリサが、警戒した面もちで美華子のことを睨む。
「そんなに警戒しないでも…もう美華子ちゃんは怒ってませんよ?」
真優美が苦笑した。ついこの間、美華子はアリサの勘違いのせいで、ケンカをするはめになった。そのときに、美華子が本気で怒ったのが、アリサは相当怖かったようで、まだ警戒をしている。アリサが勘違いしたのは、美華子と竜馬の仲。どうもアリサには、2人が仲良く見えて、面白くなかったという話だ。
真優美も、少なからず、竜馬に好意を持っている。そのため、竜馬が他の女性と仲良くしているところを見ると、少し寂しかったりもする。しかし、アリサほど強い嫉妬の念は出ない。真優美には、アリサのここまで強い執着心が、あまり理解出来なかった。
『本気で好きなら、あそこまで夢中になるのかなあ…あたし、もしかしたら好きっていう気持ちが足りないのかな』
アリサの顔を見たまま、ぼんやりと真優美が考える。
「人の顔を見つめて、どうかした?」
見つめられたアリサが、真優美に問いかける。
「あ、なんでもないんです」
真優美が顔の前で手を振った。
「でさ、この薬。水と一緒に飲むと、胃の中で膨れるんだ。満腹感を感じるから、使ってみればいいと思うよ」
タブレットケースに入った白い錠剤を、美華子がアリサに手渡した。
「いいの?もらっちゃって」
「うん。買ったけど1回しか使ってないし、そもそも私は普段からそんな食べないから」
「ありがと。ますます、ダイエットを成功させないとね」
アリサが素直にタブレットケースを受け取った。真優美には、アリサはそれほど太っているようには見えない。だが、彼女やその他一部の人間が太ったと言っているということは、きっとアリサは少なからず体重が増えているのだろう。
『そこまで気にすることかなあ…』
真優美は考えこんだ。彼女は常人の2倍程度の食を摂る。周りには、大食いわんこだのと言われているが、彼女にしてみればこれが普通なのだ。だが、そのせいで太るということもなければ、病気になるということもない。それだけに、アリサのように食事制限をしようとしている人を見ると、非常につらいのではないかと感じてしまう。逆に、食事制限をしているわけではないのに、それほど食べない美華子なども、あまり理解出来ない。
「アリサさん、目標があってダイエットしてるんですか?」
ふと感じた疑問を、真優美が口に出した。
「目標?もちろん痩せることよ」
「そうじゃなくて、どれだけ痩せたらやめるとか…決めておかないと、際限ないですよ?」
自信たっぷりに言い放つアリサに、真優美が心配そうな表情をした。
「そうだね。中学の授業で、拒食症の子の写真を見た」
美華子もうんうんと頷く。
「私が拒食症になるとでも?」
アリサは不機嫌そうに腕を組んだ。どうやら彼女は、自分のダイエットに口を出されて、あまり面白くない様子だ。
「そうは言いませんけど…アリサさん、だいぶ無理してるみたいだから、心配になって…」
耳を伏せ、真優美が目を逸らす。今まで、話でしか聞いたことのなかった拒食症。アリサがそうなってしまうのではないかと思うと、怖くて仕方がない。友人が健康を失うということが、真優美はとても怖かった。
「心配かけてごめんね。大丈夫よ。真優美ちゃん、優しいんだから」
アリサが真優美をハグして、その頭を撫でくり回した。いつも通りのアリサだ。竜馬やその他の事で言い合いになったりするけど、大事な友達だ。
「健康が第一だからね。無理しないで」
席から立ち上がった美華子が、アリサに言った。
「あ、うん。ありがとう。私ちょっと、トイレ」
アリサが教室を出ていった。後には、アリサの読んでいた、恋愛小説本だけが残される。この本は、かなり昔にヒットした恋愛の小説だ。今も昔も、色恋の基本は変わらないらしい。
「さて、と。じゃ、私も次の時間の用意するから」
美華子もその場を去る。一人残された真優美は、アリサがこれからどうなるかを、少し考えた。ただでさえ痩せ形の彼女だ。これ以上痩せたら、骨と毛皮だけになってしまうのではないだろうか。その様を想像した真優美は、あまりの恐ろしさに、背筋を震わせた。
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