きゅっ
 アリサが体操服姿で靴紐を結ぶ。時刻は6時を少し回ったところで、早朝の空気が気持ちいい。もう3月に入った東京は、春の空気が流れている。どこからともなく漂ってくる花の匂いを、アリサは胸いっぱいに吸い込んだ。
「行きますか…」
 一言、独り言をつぶやいたアリサが、走り出す。とっとっと、と規則正しい足の音が響いた。今から走るコースは、中学生のころ、朝に自主練習をしたとき走るコースだ。高校に入ってから、このコースを走ることはなく、今日は久々の早朝ジョギングとなる。今日は土曜日。出勤する人も少なく、街には人の姿があまりなかった。
「あれ…」
 いつものコースを通ろうとしたアリサは、足を止めた。細い道が通行不可になっている。下水道か、ガス管かの工事をするようで、穴が空いていた。
「あ、キツネコブラ」
 アリサは工事現場に、見知った顔を確認した。熊のように大きな体で、団扇のように大きな耳。目はつぶら、体毛がふさふさで、腹は爬虫類のような肌をしている。この生き物はキツネコブラといい、地球には元は存在しなかった外来種だ。長野の山奥に住んでいたところを上京し、今では東京で暮らしている。好物はカップラーメンで、貨幣価値を覚えた彼は、カップラーメンを買うために土木建築業に従事する日々を過ごしていた。
「うーん、こっちは通れないわねえ…あっちかな」
 くるりと回頭したアリサが、別の道に入る。こちらは工事で通行止めをしていない。いつものジョギングコースはつぶれたが、こちらからでも家にまた戻ってくるコースは組めそうだ。気を取り直して、アリサが再度走り出した。
「ふっ…ふっ…」
 ジョギングはリズムが命だ。体の疲れを最小限に抑え、脂肪を効率よく燃焼させるためには、リズムが重要になる。最初はゆっくりと走っていたアリサだったが、そのうち速度に慣れ始めたのか、少しずつリズムを早め始めた。
『久々に走ると気持ちいいわね』
 アリサは走りながら、ぼんやりと妄想を始めた。もし自分が今より痩せることが出来れば、竜馬はきっと自分を見直すに違いない。そもそも、竜馬が自分のことを太ったと言い始めたのだ。彼はきっと、アリサの体の変化に気付くほどには、アリサの体のことを知っていたのだろう。抱きついた感覚が前と同じになれば、竜馬はまたそれに気付くことだろう。
『あれ…アリサ、痩せたのか』
 妄想の中の竜馬が、アリサに向かって話しかける。
『うん。ちょっと気になっちゃって。竜馬に気に入ってもらいたくて努力したのよ?』
『そっか…ごめんな。まさか、そんな気にするなんて思わないで』
『ううん、いいのよ』
 妄想の中で、話がどんどん展開していく。
『アリサ。俺のためにごめんな。嬉しいよ。今まで、お前の気持ちに気付かないで…』
『いいの。今、こうして気付いてくれたんだから…』
 とうとう、妄想もクライマックスに行き着いた。もしジョギングしている彼女を見た人がいたならば、彼女が異様ににやついていたことに気付いて、たじろいだことだろう。
「ああ…竜馬…」
 アリサが思わず、その名を口に出す。出来ることならば、竜馬に激しく好かれたいと思う。愛されたいとも思う。そのために努力する自分、というシチュエーションに酔うつもりもないが、こうまで頑張る気になれるのも嬉しいことではあった。
「ん…?」
 アリサが角を曲がると、そこには竜馬の後ろ姿があった。よれた春物服を着て、道を歩いている。
『あ…いつもと違う道だもんね。こっちから、竜馬のアパートの前、通れるんだ』
 どきり、とアリサの胸が鳴った。竜馬は本当は石川県の人間で、東京にはアパートを借りて、姉である清香と暮らしている。これだけ朝の早い時間帯に、竜馬とあうことになるとは、アリサは思ってすらいなかった。最近は、竜馬の家に遊びに行くことも少なくなったし、彼の布団に忍び込むこともなくなった。ここであえることに、運命的な何かを感じたアリサは、ゆっくりと竜馬に近寄った。
「…だろ?問題あるか?」
 ぴた、とアリサの足が止まった。竜馬は誰かと話をしているようだ。よく見れば、竜馬の手には、携帯電話が握られている。どうやら、部屋の中では出来ない電話を、外に来てかけているらしい。
「…あ?いらねーよ。え?うっせえな、太い?問題でもあるのか?」
 竜馬はだいぶいらついているようで、電話の相手に向かって罵声を飛ばしている。太い、と言う単語に、アリサはぴくりと耳を動かした。太い…太い…まさか、自分のことが話されているのではないだろうかと思うと、アリサはいらっとした。
「…太いと重い?そりゃ重いだろうよ。そっちは遊びに行ってんだろ?いいじゃねえか、自然の中、健康的で」
 重い、という単語に、またアリサが反応する。誰と電話をしているのかわからないが、よほど内容がひどいらしい。心の中で、いらいらが山のようにつのっていく。
「…あー、わかったわかった。昼頃な。気をつけて」
 ピッ
 竜馬が電話を切ってポケットに入れる。今なら、話しかけても問題ないだろう。アリサは小走りに竜馬に近づき、腕を広げた。
「りょぉま〜!」
 ぎゅうううううう!
「ぐげ!」
 アリサの力強い抱擁が、竜馬を捉えた。アリサにしてみれば、好きな相手に抱きついただけのことだ。しかし、竜馬にとっては、神話の世界の化け物にでも抱きつかれたかのように感じたようで、カエルが潰れた時のように声をあげた。アリサの力は並ならず強い。手加減無しで竜馬に抱きついたら、竜馬の骨が砕けてしまうことだろう。
「あ、アリサ?なんでお前が?しかも体操服?」
「奇遇ね。ちょっと、ジョギングしてたのよ。それより…」
 がしっ
 すり足で逃げ出そうとした竜馬を、アリサががっしり掴む。
「今の電話、なに?太いって?太いとか重いとか聞こえたけど?」
 アリサがストレートに竜馬に問いただした。きっと、今のアリサは、怒った顔をしているに違いない。竜馬がたじろいでいるのがわかる。
「え…どうしてまた…」
「いいから言うのよ!どうせ、私のこと言ってたんでしょ!」
 困惑気味の竜馬に、アリサがわうわうと吠えかかった。竜馬は、アリサが竜馬のことを好いていることをよく知っている。そのため、多少でアリサが怒ったりしないと踏んで、アリサのことをないがしろにしたり、デリカシーのない話をしたりすることがある。今回も、きっとそうに違いない。人の体重の話を、誰ともわからない人間と話すなんて、アリサには許せなかった。
「いや…姉貴が、サークル仲間と春キャンプに行ってんだよ。薪が、でかい木だから、太くて重いって…鉈で割るんだとさ」
「…え?」
 朝の静けさが、2人を包む。アリサは、顔がかあっと熱くなるのを感じた。ひどい思い違いをしてしまったものだ。自意識過剰だと言われても仕方がないだろう。
「あ…え…う…」
 言葉を失ったアリサが、真っ赤になって俯いた。妄想上ではあんなにクールにきめていたのに、今はこんなにも格好が悪い。嫌な気分が、アリサの中に湧き出す。
「アリサ…そのジャージ、ランニングだっけ?その、体重気にするなって方が、あれかも知れないけど…」
 竜馬が、心底心配しているような顔を見せる。この顔だ。この顔が、自分を哀れんでいるかのようで、いっそう惨めで…
「な、何よ!気になんかしてないわ!あんたこそ、人の体重のこと気にしてる暇があったら、自分の成績のこと気にしなさいよ!」
 アリサがさらに吠えかかった。恥ずかしさのせいか、今は素直になれない。竜馬は、期末試験対策のとき、勉強を教えた相手でもある。それ故に、彼の成績の悪さを、よく知っていた。
「な…た、確かに、お前が教えてくれたから助かったけどな。そんなこと、言うか?」
「言うわよ。体重のことは、それぐらい私にとって悔しいことよ。何さ、私の体型を逐一見てたわけでもないのに、太ったとか。普段は私のことを見てくれないのに、そういうところだけめざといのね。嘘でも冗談でも、女の子が傷つくって、思わないの?」
 たじたじになった竜馬に、アリサがずかずかと突っ込みを入れる。アリサは、こんなことを言う自分が、嫌いになった。口が止まらない。きっと竜馬は怒るだろう。いつもならば、それでもなんとかなると前向きに考えられるはずなのに、なぜか今日は無理だった。心の中が、急に暗くなって、アリサは泣きそうになった。
「アリサ…ごめんな。まさか、そんなに気にするとは思わないで…」
 すっかり落ち込んだ様子で、竜馬が謝罪する。アリサは、はっとした。いつもの竜馬ならば、ここで言い返してくるはずなのに。彼も彼なりに、責任を感じてしまっているのだろうか。
「わ、わかればいいのよ。せめていつも、もう少し気遣いが欲しいところね」
 竜馬の顔を見ていられなくなったアリサが、目を逸らす。竜馬も、朝早くに姉に起こされて、電話の相手をしていただけなのに、こんな目に遭ってさぞ腹立たしいことだろう。
「アリサ、俺に手伝えることがあったら言ってくれよ」
 俯いていた竜馬が顔を上げる。
「別にないわよ。全部自分でやるから、安心して?」
「それならいいんだけど…何かあったら、すぐ相談してくれよ?」
「うん。じゃあ、また明後日、学校でね」
 逃げるように、アリサがその場から走り去った。竜馬に対して、申し訳ない気持ちが、心の中に涌き上がる。明後日、また学校であうときには、いつも通りに接さなければ、また竜馬に嫌な思いをさせるだろうと、アリサは深く考えた。


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