「…」
 風呂上がり。アリサは、バスタオルだけを巻いた姿で、体重計の前に立っていた。この体重計は、父が母と結婚したときに買った家財道具の一つだという話を聞いている。大手メーカー製のデジタル家電の一つで、体脂肪やBMIや重心なども計れるのだが、今はそれを問題とはしていない。問題は、自分がどれだけ太ってしまったかだ。
 ぎし…
 意を決したアリサが、片足、また片足と、体重計に乗せる。目をぐっと閉じ、だんだんと湯冷めしてきた体の震えを押さえ、アリサは体重計に体重をかけた。
『お願い…変な数字を出さないで…!』
 片目ずつ開き、体重計のディスプレイを見るアリサ。表示されていたのは…
「…ひぃぃぃ!?」
 表示されていたのは、半年前の自分の体重より、3キログラム太っているという、紛れもない事実だった。
「ちょ、まじ?まじ?嘘?ありえない?ありえる?」
 混乱したアリサが、タオルを外した。外気が体に触れ、寒さを感じるが、気にしている余裕はない。だが、悲しいかな、全裸になったとて、デジタル体重計の表示は200グラム程度減っただけで、先ほどと大きな差違はなかった。たった3キログラムとは言えない。人間、妥協を始めたら、どんどん転がり落ちていくのを知っているからだ。奈落の口に飲み込まれて、そこで始めて気がつく。自分はもう逃げられないのだと。
「…嘘」
 下着を身につけることすら忘れ、アリサが茫然自失で立ちつくす。こんな事態があっていいものだろうか。確かに、ここ最近はろくな運動もしていなかった。アーチェリーも西洋剣道も合気道も、部がないという理由でやってすらいなかった。その間に、脂肪の悪魔は着々とアリサの体を蝕んでいたのだ。
「ひいいいい!」
 恐怖を感じたアリサは、下着をひっつかんで裸のまま駆けだした。下着を身につけながら、階段を上り、自室に入り、明かりをつける。アリサはベッドのマットレスを剥ぎ取り、中の物入れになっている場所から、黒い大きな箱を取り出した。開くと、分解された弓と、並んだカーボンの矢のセットが、その姿を表した。
「なに?私、太っちゃった?筋肉落ちてる?まさか?まさか?」
 憔悴しきった様子で、アリサが弓を組み立てる。弦をピンと張り、軽く弓を持つと、無我夢中に矢をつがえた。
「んっ…!」
 前は、簡単に引き絞れたその弓。今は、心なしか堅くなったように感じる。間違いない、筋力が落ちている。アリサは弓をばらすことも忘れ、がっくりと膝をついた。
「私、太っちゃったんだ…それも、3キロも…」
 事実は事実、受け止めるつもりではいた。精神的に強いつもりでもいた。たかだか体重が増えただけ、と自分を説得するも、それも無為に感じる。顔を上げると、机の上の写真立てで、竜馬が遠慮がちに笑っていた。こっそり彼を撮った写真を、アリサは後生大事に飾っているのだが、その写真の目すら、自分を蔑んでいるように感じる。
「…なによ!そんな目で私を見て!えっち!太ってなんかないもん!ご覧なさいよ、このプロポーション!おーほほほほ!」
 下着姿のまま、アリサは竜馬の写真に向かって、ポーズを取ってみせた。今時、マンガでも聞かないような高飛車な笑い方をしたそのとき、アリサの中で誰かが囁いた。「無駄なことだ」と。
「…だめよ、このままじゃ。どうすればいいの…」
 落ち込みきったアリサが、階段を下り、風呂場に戻る。パジャマを着て、居間に入ったアリサは、母がイスに座ってテレビを見ているのと出くわした。母の名はパリヴァ。アリサとそっくりな体毛をして、アリサと同じように美しい犬獣人だ。昔はモデルの仕事をしていたが、自分が太ったと感じたアリサは、目の前に座る母の姿が、自分より何倍も細いように感じた。
「お風呂、上がったの?今、ちょっと作ったんだけど、食べる?」
 パリヴァが皿を差し出した。一口サイズに刻まれたホットケーキに、爪楊枝が刺されている。手を出しそうになったアリサだったが、自分が太りつつあることを思い出して、首を横に振った。
「ねえ、お母さん。お母さんはなんで痩せてるの?」
 アリサがイスに座り、母に質問をした。それは、なぜ空が青いのかとか、なぜ自分は獣人なのかというような、素朴な疑問だった。
「そうねえ。食事と運動の両方をしっかりしてるからかしらね」
「食事と運動?」
「そう。節操無く食べないし、しっかり歩いたり動いたりしてるわ。今はおやつを食べてるけど、これぐらい大丈夫なほどに自己管理はしてるのよ」
 からからとパリヴァが笑った。アリサは、腑に落ちないと言った表情で、ホットケーキと母の顔を見比べる。アリサが知ってるパリヴァは、それほど自己管理が出来ているようにも見えないし、運動をしているようにも見えない。
「お母さん…運動とかしてるの?」
 アリサが疑いの目をパリヴァに向けた。
「あなた達が朝に出た後ね。仕事のない日には、スポーツジムに行っているの。週2回くらいかしらね。知らなかった?」
 うふふ、とパリヴァが笑う。アリサはショックだった。確かに、腐っても元モデルの母だ。今でも美しいと言われ、人妻でなければ結婚したいという男が山ほどいるらしい彼女が、努力をしていないはずがない。
「ありがと…」
 気落ちしたアリサが、ふらふらと階段を上がる。自室に入り、黒光りする弓を見つめた後、アリサは決意した。
『明日から、運動しないと…痩せないと…!』


前へ 次へ
Novelへ戻る