家に帰り、自室で普段着に着替えた恵理香は、手の上で紙袋をもてあそんでいた。中にはチョコレート。竜馬に渡すはずだった、甘いチョコレートが入っている。
「…」
 考えないように、考えないようにとしても、そのチョコレートの存在は消えない。いっそ、竜馬に押しつけるだけ押しつけて、逃げてこれば楽だったのかも知れない。これを渡すことは、義務ではないはずなのに、渡せなかったことに対してとても精神的な重さを感じる。
『こう暖めるのか?湯煎なんてしたことがなくて…』
『そうよ。お湯が入らないように気をつけて…』
『ああ、よかった。私一人ではこんなこと出来ないしな。助かるよ』
『お役に立てて嬉しいわ。竜馬君、喜ぶはずよ。明日は、ちゃんと渡してね?』
 昨日、エキャマと交わした会話が蘇る。チョコレートを竜馬に渡せなかったことで、彼女にも不義理を働いたことになるのだろう。
「仕方ないよな…」
 恵理香は独り言をつぶやいて、居間に入った。
「おかえりなさい」
 居間のコタツに、エキャマが入っている。ミカンをだいぶ食べたらしく、ミカンの皮がゴミ箱の中にたくさん入っていた。彼女はのんびりとテレビを見ていた。テレビでは、一流料理人と呼ばれる老年男性が、家庭用料理を紹介する番組を放映している。
「ああ、ただいま」
 エキャマの向かい側に、恵理香も入る。コタツの中は暖かい。寒い外で冷たくなってしまった手先がじんじんと痺れた。
「チョコレート、喜んでもらえた?」
 何も知らないエキャマが、とても期待した顔で聞く。
「あ、ああ。仲直りもしたよ。喜んでくれた」
 刹那、言葉に詰まった恵理香だったが、上手くごまかして返事をした。
「よかったね。恵理香、あんなに頑張って作ったものね」
「ああ、そうだな」
「もうケンカしちゃだめよ?大事な友達なんでしょう?」
 我がことのように喜ぶエキャマを見て、恵理香の心に罪悪感が芽生えた。恵理香は、アリサが竜馬のことを、大事な大事なお友達だと言っていたときのことを思い出した。自分にとっても、竜馬は大事な友達のはずだ。しかし実際は、無関係な真優美が見ていていらだつような、当たりの強い態度しか取っていない。そろそろ、仲直りをしたいのに、素直に切り出せない自分がいた。
『それでいいのか?いいというなら何も言わないが』
 心の中で、自分ではない自分が小さく囁いた。しばらく、自問自答していた、恵理香だったが、ゆっくりと顔を上げた。
「本当は、チョコを彼に渡していないんだ」
 恵理香のその一言に、今まで嬉しそうにしていたエキャマの目が点になった。
「このままでいいはずがないんだ。少し、出てくる」
 驚いているエキャマを後目に、恵理香がコタツから這い出す。
「出るって…?」
「渡してくるよ。チョコレート。彼にな」
 すっくと恵理香が立ち上がった。
「…うん。応援してる。がんばってね」
 エキャマは恵理香に、にっこりと微笑みかけた。その微笑みに、勇気を得た気がした恵理香は、どきどきしながら玄関に出て、靴を履く。そのとき、恵理香のポケットで携帯電話が震えた。
「もしもし?」
 恵理香が携帯電話を取り出し、誰かも確認せずに耳に当てる。
『あの…恵理香さん。俺、錦原だけど…』
 電話の相手は竜馬だった。タイミングがいい。
『あの、さ。昼間はあれだったね。改めて言いたいんだ。こないだは、ほんとに…』
「待った。電話じゃよく声が聞こえない」
 謝ろうとした竜馬を、恵理香が遮った。電話では声がよく聞こえないというのは嘘だ。今この場で用事を終わらせず、竜馬に直接あうための。この期に及んで、小さな嘘をつく自分に、少し呆れながら、恵理香は電話を耳にぴったりとくっつけた。
「今、どこにいる?」
『えーと…コンビニ。学校近くのヒタカストアの辺りに…』
「出先か。話がしたい。そこにいろ、今行く」
 ピッ
 電話を切った恵理香は、コンビニに足を向けた。竜馬の返事は聞かなくていい。彼のことだ、きっとそこで待っていてくれる。特別なことをするのだという自覚が芽生え、恵理香は胸がどきどきしてきた。竜馬に弁当を作っていた時と同じ、不思議な感情だ。何か、腹や胸の中に、濃い霧が流れ込んでしまったかのような感覚に、恵理香は身を震わせた。
「竜馬…」
 歩きが早足に、早足が駆け足になる。早く竜馬にあいたい。このチョコレートを渡し、そして…
 コンビニまで、それほど時間はかからなかった。コンビニの前、入ってくる車に気をつけながら、恵理香は竜馬を捜した。店内をちらと見るが、中にはいない。と、ゴミ箱の横にしゃがみ込んでいる影が目に入った。まごうことなき竜馬だ。
「あ…」
 恵理香に気が付いた竜馬が立ち上がった。恵理香は走っていた足を止め、じっと竜馬を見ながら息を整える。
 竜馬が、ゆっくりと恵理香に向かって歩み寄る。ここに来て、恵理香は恥ずかしくて逃げ出したくなったが、必死にそれを思いとどまった。竜馬が恵理香の目の前で立ち止まる。目をあわせることすら恥ずかしく、恵理香は目を逸らした。
「あんときはごめん」
 しっかりと、はっきりと、竜馬がその言葉を言った。
「もう、1週間近いじゃん。悪かったと思ってる。そろそろ、仲直りしない?」
 へへへ、と竜馬がごまかすように笑った。もう怒っていない。ただそれだけの言葉を口にするのに、どれだけの勇気が必要なのだろう。恵理香はすう、と息を吸う。
「お…お前は乙女心というものを、微塵も理解してない!」
 恵理香の口から、また罵倒の言葉が飛び出す。
「あんなひどい辱めを受けたのは初めてだ!そりゃあ、役者をやってるとき、そういう台詞を言われたことはあるが、真っ正面から現実に言われたのはお前が最初だよ!ま、まるで私が、ふしだらだといわんばかりに…お、怒ったんだぞ!ほんとに、怒ったんだぞ!」
 素直になれない。たったこれだけのことなのに。もう引っ張る必要はないのに。
「どうせアリサ相手のように、がさつに扱っていいとでも思ってたんだろう?わ、私だって、女の子なんだ!もう少し…」
 じわり、と涙があふれ出した。もう我慢できない。
「もう少し…優しく扱ってくれてもいいじゃないか」
 目を拭う恵理香。なぜだかとても情けない。竜馬にああいわれたときには怒りがあった。真優美に叱られたときには落ち込んだ。そして今、素直になれない自分が、とても情けない。これだけ短い間に、こんなに気持ちがころころと変わったのは、初めてかも知れない。自分で自分が身勝手だと自覚もしている。だけど、どうにも止まらない。
「…恵理香、さん?」
「お前は大事な友達だよ。アリサじゃないが、大事な友達だって言葉、使う。弁当作ってるときは、恋人みたいな錯覚もしたけど、友達、なんだよ…私は、それでも、お前が…好きで…大事にしたいんだよ…」
 とまどっている竜馬に、恵理香が言葉の拳を叩き込む。それは力のない、弱々しい拳だが、恵理香には精一杯の力だった。
『そう、か…』
 恵理香は気が付いた。別に恋人であろうとしたわけじゃない。だが、竜馬に大事にされて、いい友達でいたかったことは確かだ。竜馬にとって、一番の友達になりたかったのだと、恵理香は気が付いた。
「好きってその…」
 竜馬が顔を赤くして頭を掻く。
「そ、そうじゃない。お前と、付き合いたいわけじゃない。な、仲良しに…友達に…」
 それ以上言えなくなった恵理香は、涙を湛えた目で、竜馬をにらみつけた。流れる時間が、蜘蛛の糸のように、粘りを持って恵理香にまとわりつく。そんなに長いはずがないのに、長く感じてしまう。一秒が、一分にも一年にも感じてしまう。
「…うーん」
 そんな恵理香の前で、竜馬はにっかりと笑った。
「言うのも恥ずかしいけど、もう友達だろ?」
 あっけらかんとした態度。その態度に、恵理香は飲まれた。自分だけだ。自分だけが、こんな小さなことを、こんなに大きく感じて、勝手に萎縮していた。竜馬はこういう男だった。緊張感のかけらもなく、デリカシーもなく、さらに…
「…ああ!」
 さらに言うならば、無意識に、無尽蔵に人に優しい男だった。それを、優柔不断と人は言うかもしれない。だが、恵理香にはこれで十分だ。一緒に勉強をして、コタツに入ってゲームをして。春には花見、夏には水泳、秋には遠足して、冬には一緒に雪見を出来るような、そんな優しさが好きだった。
「あんときはごめん。よく考え直したよ。怒られるのも当然だな」
 ぽん
 竜馬が恵理香の頭に手を置いた。恵理香が、狐の耳をぱたぱたと動かす。
「あの後、実はいとこさん…エキャマさんとあったんだよ」
 竜馬の突然のカミングアウトに、恵理香が目を丸くした。
「あの人に怒られたよ。内容は言えないけど、さ。女心がわかってなかったかも。恵理香さん、ごめんな」
 竜馬が虚空を見つめた。2人があっていたことを知らなかった恵理香は、素直に驚きを顔に出した。
「いいのか?あの子に気があったんじゃ…」
「いいんだ。実はもう、メルアドとか交換して、一応友達になれたしさ」
 恵理香の頭を、竜馬がなで続ける。恥ずかしくて、払いのけようかと思った恵理香だが、これもたまにはいいかも知れないと思い直した。この場には、アリサも真優美も美華子も修平もいない。ただ、2人きりなのだから。
「これ…」
 恵理香が着物のポケットから、紙袋を取り出して竜馬に握らせた。
「私が作ったチョコレートなんだ。エキャマに手伝ってもらったが…も、もしよかったら、食べてくれないか?」
 すっと身を引き、恵理香が竜馬の顔を見つめた。大体同じくらいの身長、目線の高さも同じだ。目をあわせれば、体の高さがあう。
「ありがとう。美味しくいただくよ」
 紙袋を持ったまま、竜馬がまた笑った。この笑顔だ。この笑顔が、恵理香は好きだった。
「いやー、ごめん。なんか、考えるよか行動する方がよかったんだね。俺、かなり落ち込んでたんだ」
「ほんとか?まったく、竜馬はハートが小さいな。お前にその気があったら、私はすぐにでも仲直りしたんだぞ?」
「だって、怖い顔してたじゃん。謝りにくくてさー」
 2人並んで歩き出す。これで十分だ。仲良し、なんといい言葉だろう…
 かちゃ
「あ」
「ん?」
 横に並ぶ竜馬に、恵理香が目をやる。そして、目を擦る。何かおかしなものを見ている気がする。そう、ズボンが降りているような…
「わ、わあああー!」
 恵理香が叫ぶ。間違いではなかった。竜馬のズボンが降りていた。竜馬が慌ててズボンをあげなおす。理屈としては簡単だ。痩せ形の竜馬だし、ズボンが落ちるのもおかしくはないかもしれない。だが、今はそんな理屈が話したいわけではない。
「あ、あの、ほら。パンチラ、みたいな?」
 竜馬が顔を真っ青にしてなんとかごまかそうとしている。また、恵理香の中に、ふつふつと行き場のない怒りが湧いた。
「このど変態がぁぁぁぁ!」
 ずどぉぉん!
「げふぅぅ!」
 恵理香の足が、竜馬の股間を強く蹴り上げた。


前へ 次へ
Novelへ戻る