そして、バレンタインデーがやってきた。天馬高校のあちこちで、チョコレートが渡され、食べられている。普段はうるさい教師達も、この日ばかりはそれを許容し、自由にさせていた。教師によっては、生徒とチョコレートのやりとりをしている人もいるようで、筋肉兄貴と異名のある保険医の如月愛子先生などは、風呂に入っても余るほどのチョコレートを受け取っているとの噂もある。
「おい、これ見ろよ、竜馬。俺、コイレ先輩からチョコもらっちゃったよ」
 2限が終了した休み時間。修平が、小さな包みを竜馬に見せている。コイレと言うのは、修平に一時期惚れていた、爬虫人の女性先輩だ。紆余曲折あり、恋愛関係は成立しなかったが、それからも修平とは仲がいい。
「あー、そうかい。そいつはよかった」
 対して、向かいにいる竜馬は、ややぐったりとしている。何かあったのだろうか。
「元気出せよ。今日はバレンタインだぜ。恵理香ちゃんとケンカしたっていっても、一時的だろ?」
 修平が竜馬の肩をぽんぽんと叩いた。
「そうだな…あー、くそ。いつもなら飯食って寝て落ち着くんだが、姉貴がバカやったせいで、ろくに飯を食う金もないんだよ。元気出ねえ…」
「重症だな…俺はなんとも言えんわ」
 まだぐったりしている竜馬を、修平が心配そうに見下ろす。
「お、見ろよ!蛇山先生がチョコ配ってる!ちょっと行って来るわ!」
「おう」
 修平が立ち上がり、教室を出ていく。その2人の姿を、教室の後ろ隅で見つめていた恵理香は、小洒落た紙袋を手に、おもむろに立ち上がった。この4、5日、ほとんど口をきかなかった竜馬にチョコレートを贈るのは、気恥ずかしくもあるし、少々いらだたしくもある。だが、エキャマと約束してしまった。約束は約束だ、守らなくてはならない。
『そう、だよな。別に本命なわけじゃないし…今なら竜馬は一人だ』
 恵理香が顔を朱に染める。このチョコレートは、エキャマも手伝って一緒に作った、まともなものだ。今までのブラックな料理と違い、竜馬に気に入ってもらえるだろうと、恵理香は自信があった。そっと、竜馬に気付かれないように、恵理香は竜馬に近寄った。
「りょ…」
「竜馬ー!」
 ばかん!
「うあ!?」
 恵理香の腰に、誰かがぶつかっていった。アリサだ。大きな箱を抱え、竜馬に駆け寄っていく。
「竜馬、これ!バレンタインのチョコなの!ねえ、受け取ってくれる?」
 アリサが満面の笑みで、ぐったりしている竜馬を見下ろした。
「チョコ?いいのか?」
「いいに決まってるじゃない!竜馬は私の、大事な大事なお友達ですよ?くふふふ」
 きゅうう
 アリサが竜馬に抱きつき、頬を擦り寄せた。
「あー、もう…」
 腰を押さえながら立ち上がった恵理香は、機を逃したことを悟った。一旦ああなってしまったアリサは、なかなか竜馬から離れないだろう。
「戻ったぜ。お前の分ももらってきたぞ」
 修平まで戻ってきてしまった。恵理香が少し下がる。今竜馬にチョコレートを渡せば、アリサとケンカになるだろうし、何より誰かいるときでは恥ずかしい。
「あら、おかえり。これ見て、竜馬のために作ったのよ」
「まじで?アリサちゃん、相当根気入れたんだなあ。こんなでっかいチョコなんて」
 自慢するようにアリサが箱を見せ、修平が感嘆の息をつく。
「一生懸命作ったチョコケーキなの。竜馬への愛がたっぷり詰まっているのよ。これ、一応修平にも。ごめんね、小さくって」
 そう言って、アリサがポケットから取り出したのは、小さな箱だった。
「え?俺にも?マジで?やー、嬉しいな。大きさなんか関係ないよ」
 修平がにこにこしながらそれを受け取る。いかにもおまけと言った箱だが、それでも嬉しいのだろう。
「竜馬に作った分でチョコがなくなっちゃって。ごめんね。来年また作るから、楽しみにね。くふふ」
 アリサがぶりっこぶって、片手で口を押さえてみせた。犬尻尾がふぁさふぁさと揺れる。竜馬にチョコケーキを贈れるということが、とても嬉しいのだろう。
「じゃあ、まあ、愛だけ選り分けて、残りは美味しくいただくとするわ」
 チョコケーキの入った箱を、竜馬が机に入れる。
「ちょっとー!それ、どういう意味よー!」
「えーい、詰め寄るなよ!まんまの意味だ!2ヶ月で、もう素に戻ってきやがるんだから…」
「戻ってないもん!大事なお友達って言ったじゃない!」
 アリサと竜馬がわにゃわにゃと言い合いを始めた。恵理香はこそこそと自分の席に戻る。自分の作ったチョコレートがみすぼらしく見えてしまい、恵理香はため息をついた。しかも、渡す機会まで逃して…
『まあ、いい。後でまたチャンスはあるよな…』
 恵理香が呼吸を整える。そう、まだ後半日以上あるのだ。半日以上…


 4限目の授業が終了し、昼休みが訪れた。パンを食べながら、竜馬にチョコレートを渡す隙を狙っていた恵理香だったが、運悪く竜馬の横には真優美がいる。他人がいる前でチョコレートは渡せない。
「あーもう、どうすれば…」
「何をどうするって?」
「え?」
 独り言をつぶやいていた恵理香が、誰かに話しかけられた。いつの間にか、一人で食事をしていた恵理香の隣に、美華子が座っている。
「みんなのところに行かないの?」
 竜馬達の方をちらりと見て、美華子が問う。
「ちょっと竜馬とあってな。顔をあわせづらいんだ」
「言ってたね、そう言えば」
 美華子の方を見ないで言う恵理香に、美華子が半笑いの顔を向けた。
「さっきチョコを錦原に渡したら、喜んでたよ。安い市販チョコなんだけどさ。あれで喜ぶなんて、男ってほんと子供だよね」
 美華子が竜馬に目線を移す。口ではこう言いながらも、とても楽しそうだ。
「竜馬にだけ渡したのか?」
「ううん。兄貴とか、友達とかにも」
「そう、か。バレンタインだものな」
 美華子の嬉しそうな顔を見た恵理香は、心の底で焦りはじめた。このままでは、自分のチョコレートが、数ある中の一つになってしまうかも知れない。
「恵理香はチョコ作ってないの?」
 そんな恵理香の心を見透かしたかのように、美華子が恵理香を見つめる。
「私がか?贈る相手もいないんだから、作っていないよ」
 内心動揺しながら、恵理香が強がった。
「ふぅん。ま、いいけど」
 美華子の目が、一瞬すうっと細くなり、元に戻る。恵理香は美華子が少しだけ怖くなった。彼女は何か知っているのだろうか。それとも…
「そうそう。錦原が、恵理香に謝りたいって言ってたよ」
「竜馬が?」
「ん、そろそろケンカやめたら?見ててつらい。行ってきなよ」
 面白い物でも見るかのように、美華子が恵理香を見つめた。今ここで逃げることは可能だろうが、今日までに他の人にも同じことを言われている。恵理香は観念して、立ち上がった。ポケットにはチョコレートの入った紙袋もある。あわよくば、とっとと渡して、心労を軽くしたい。
「あー、いいか?」
 竜馬の後ろに立ち、恵理香が話しかける。竜馬はびくりと動き、さっと振り返った。
「あ…恵理香、さん…」
「美華子から聞いたぞ。謝りたいって?ようやくあのことを反省したか」
 恵理香は少し顔を赤くした。気恥ずかしさが先立ち、口調がきつくなる。竜馬の目を見ようとしたが、恥ずかしくて目を合わせることが出来なかった。
「ああ、うん…あんときは悪かった…その、そんなつもりじゃなくて…」
 竜馬が平身低頭に謝る。
「まったく、しょうがない男だな、お前は。まあ、お前がどうしても仲直りしたいというなら、してやらんでもないぞ?」
 気恥ずかしいまま、恵理香が照れ隠しに、きつい言葉を連発する。真優美はぽかんと2人を交互に見ていたが、はっと気付いて立ち上がった。
「恵理香ちゃん。いいですかぁ?」
 怒り顔の真優美に、恵理香が軽く怯んだ。普段、こんな顔をする少女ではないことを、恵理香はよく知っているつもりだったが、今は違う。
「恵理香ちゃんが怒る理由、聞きました。それもわかるけど、もうそういうのやめませんか?必要以上に意地悪で、見てていらいらします〜」
 きつい口調で、真優美が恵理香に文句をぶつける。
「そういうつもりではなくてな…」
「そういうつもりじゃなくても同じです〜」
 言い訳をしようとする恵理香の言葉を遮り、真優美が顔を突きつけた。恵理香はまさか、温厚な真優美の方から、ここまで言われるとは予想だにしていなかった。狐耳を伏せ、ばつが悪そうに目を逸らす。
「いや、真優美ちゃん。これに関しては俺が悪くて…」
「竜馬君も竜馬君です!そんなだから、恵理香ちゃんがこんなになるし、アリサさんがああなるんじゃないですかぁ!そんなくにゃくにゃしてばっかりだから!」
 仲裁しようとした竜馬にまで食ってかかる真優美。彼女も彼女なりに、気に入らない部分があったのだろう。もうちょっと素直に、竜馬に話しかけていたら、怒られることもなかったのだと思うと、恵理香は今の態度を後悔した。
「…確かに私が悪い部分もあった。出直そう」
 鼻息の荒い真優美から目を背け、恵理香が自分の席に戻る。さっきまでいた美華子もどこかへ行ってしまった。今日は、とても気疲れのする日だ。恵理香は頭痛に見舞われ、机に突っ伏して、目を閉じた。


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