その日の夕方。恵理香は部屋の掃除をしながら、竜馬のことを待っていた。父はまだ帰らないし、母とエキャマも出かけたままだ。掃除をするのに、気兼ねなく音を立てられる。きれい好きというわけでもないが、恵理香はこまめに部屋の掃除をする。長い間ため込むと、部屋が加速度的に汚くなることを、経験から知っているからだ。
 ピンポーン
 玄関の方から、チャイムの音が響いた。恵理香がぱたぱたと玄関に急ぐ。
「来たか」
 玄関を開くと、手にビニール袋を提げた竜馬が立っていた。
「ああ、うん。お邪魔します」
 そわそわしながら、竜馬が靴を脱いで上がり込んだ。そのまま、竜馬を部屋に通す。
「これ、おみやげ。一緒に食べよう」
 手荷物ビニール袋を恵理香に渡す竜馬。口から、ケーキのプラスチックケースが顔を覗かせている。
「ありがとう。じゃあ、茶を淹れてくるよ」
 恵理香はにっこり笑い、部屋を後にした。女性が男性を部屋に呼ぶことは、あまりよろしくないことだという一般論を、恵理香は知っている。だが、竜馬は友人だし、この時代にそんなことを気にするのもナンセンスな話だ。だから、恵理香は相手が男性だろうと女性だろうと、信頼して部屋に上げている。
「ケーキにあうのは…」
 ポットから湯を出し、ティーポットに茶葉を入れる恵理香。ティーセットを持って部屋に戻る。
「待たせたな」
 恵理香がティーセットを机の上に置いた。
「ああ、ありがとう。紅茶は自分で淹れるよ」
 ビニール袋からケーキを出した竜馬が、それも一緒に机に置く。恵理香はコップを一つと皿を一枚、竜馬の前に置いた。
「さて、と。今回はどうした?」
 恵理香が自分のコップを置き、紅茶を注いだ。
「今回はって?」
「ゲームをするというよりは、何か相談したがっているように見えてな」
「あー、そう見えたか…」
 恵理香の突っ込みに、竜馬が手を顎に当てて考え込む。
「…あのいとこの人って、近くに住んでる?」
 考え込むポーズのまま、竜馬が恵理香に聞いた。
「異星からの客だ。1週間ほどで帰るんだが…それがどうかしたのか?」
 予想外の質問に面食らった恵理香が、怪訝そうな顔をしてケーキを食べる。竜馬は返事をせずに黙り込んだ。その竜馬の真剣な横顔を、恵理香がちらりと見る。今回の悩みは、だいぶ重いらしい。力になれれば、と心の中で思い直した恵理香は、小さく咳払いをして竜馬の返事を待った。
「あの人、いいよな。美人だと思う」
 真面目な顔で、竜馬がきっぱりと言い放った。
「…は?」
 普段の竜馬には似つかわしくない言葉を聞いた気がして、恵理香は耳を疑った。狐の耳を、手でくしくしと擦る。
「アリサと俺、友達に戻るって約束をしたってこと、前に話したよな。そんときに、アリサはもう、無理矢理に恋人になろうとしないっていう話になってさ」
 竜馬が訥々と話を始める。
「…ほほう」
 嫌な予感を感じた恵理香が、眼光鋭く話を聞き続ける。
「で、重圧がなくなったから、もう俺は誰と付き合っても自由なんだよ。例えどんな相手でも、もうアリサが噛みつくことはないんだぜ?日本にいる、8000万と言われる女性、誰に手を出しても問題ないはずなんだ」
 心底嬉しそうな竜馬の言葉に、恵理香は茫然としてしまった。恋愛に関してストイックで奥手な竜馬のはずが、今はおちゃらけてしまっている。何があったのかわからないが、ギャップがひどい。
「それで、結構自由な感じな俺の前に、あんだけ可愛い女の子が現れたわけよ。まだ話もしたことないけど、かわいかったもんでさ。別に恋人づきあいまで行かなくても、いい友達でいられれば…とかね」
 竜馬の話を聞いていくうちに、恵理香はだんだんといらいらしてきた。今までの竜馬の方が、恵理香は好感が持てた。恵理香自身は、恋愛感情を竜馬に抱くことはなかったが、男友達として大事にしてきた。見境なく女性に手を出すというタイプの男ではなかったからだ。良くも悪くも「優しい人」の竜馬に、恵理香は男女間の友情を感じていた。それが、こんな…
「女友達は多い方が嬉しいじゃん。同性も異性も仲良くするのが一番っつか…それで、出来ればなんとか口を利いてほしいんだけど、頼めないかな」
 期待に満ちた目で、竜馬が恵理香を見つめた。彼が何を望んでいるのか、恵理香は理解出来なかった。
「…竜馬」
 出来るだけ平静を装って、恵理香が竜馬を睨む。
「そんな態度で、女子と接するのは、感心しないな。私は、手助け出来ない」
 一言一言、噛み切った言葉を、恵理香が吐きだした。今の竜馬には、少なからず不快感を感じる。
「え?でも、恵理香さん、自由恋愛主義じゃん」
 驚いたように、竜馬が突っ込む。
「何をもってそんな判断をした?」
 怒りそうになる自分を抑え、冷静に恵理香が聞いた。
「ほら、恵理香さんと初めてあったとき、恵理香さん言ってたよな。長い人生で、男と交わることがあってもいいとか。人生経験豊富とかも言ってた。あれって、つまりは、そういうことじゃないの?」
 ぶちり
 あまりにデリカシーのないその言葉に、恵理香の堪忍袋の緒が切れた。
「この変態がぁ!」
 べしぃぃぃん!
「いってぇぇ!」
 恵理香の平手が、竜馬の頬を強く叩いた。
「なにすんだよ!俺、何か悪いこと言った?」
「意味を取り違えてもらっては困る!とても不快だ!大体、私たちの年齢を考えろ!」
「いやいやいや!どう間違えようもないでしょう!一般にそう取られる言葉だったよ!」
 怒り心頭の恵理香に、竜馬が必死に反論する。恵理香の顔がかあっと熱くなった。恵理香は記憶の海から、自身の発言を拾い集めたが、そのときにどんな意図をしていたか思い出すことが出来なかった。ただ、竜馬の言うような意図ではなかったことは確かだ。
「いや、そういう意味じゃなかったんなら謝るけどさ、そんな…」
「…出てけ」
「え?」
 目が点になっている竜馬をぐいと立たせ、恵理香がずるずると引っ張り始めた。
「出てけ!出ていってくれ!不愉快だ!」
「ま、まって、おっ」
 こつん
 そのとき不幸だったのは、廊下と恵理香の部屋の間に、小さな段差があったことだ。転んでしまった竜馬は、前のめりに倒れ、恵理香の胸にダイブした。竜馬の頭が、胸から下の方へ、ずるりと落ちる。同時に、手に引っかかった着物の帯が、するりと下に落ちた。
「い…あ…いやああああ!」
 恵理香が大きな叫び声を挙げて、両手で着物の前を押さえた。恵理香が普段着ているのは、カジュアル着物シリーズという、いわば廉価版和服だ。見た目と機能性から愛用者が多く、恵理香もその一人だった。本格的な着物に比べ、かなり安いのが売りだが、制作費の問題かやっつけな造りをしている部分も多い。帯もその一部で、強く上や下に引っ張る力があると、使用者の体型によっては動いてしまう場合がある。一瞬の空白の後、竜馬は後ろに跳びすさった。
「わ、悪りぃ!わざとじゃ…」
 竜馬が何か弁解をしている。それを深く考えることが出来ない。怒りに身を任せた恵理香は、帯を巻き直し、竜馬を片手で掴んでずるずると玄関まで引っ張る。
「いててて!許してくれよ!悪かったって!そんなつもりの話でも…」
 げしぃ!
 恵理香は問答無用で、玄関を開いて竜馬を蹴り出した。
「変態!恥知らず!出歯亀!反省するまで私に話しかけるな!わかったか!」
 ぴしゃん!かちゃん!
 竜馬の目の前で、恵理香が引き戸を荒く閉め、鍵を閉めた。はぁ、はぁと肩で息をしていた恵理香だったが、胸が苦しくなって目を押さえた。涙が出そうだ。こんなくだらないことで泣くのも面白くないと、恵理香は部屋に戻って座り込んだ。紅茶を一口飲み、ふうと息をつく。
 かちゃかちゃ…
 玄関の方で音がする。竜馬が入って来ようとしているのかと思った恵理香は、怒り顔で部屋の外に戻った。しかし、玄関を開けて入ってきたのは竜馬ではなく、おみやげをいっぱい持って嬉しそうなエキャマと美幸だった。
「ただいまー」
「ああ、おかえり…」
 少し拍子が抜けた恵理香が、美幸の挨拶に挨拶を返す。
「あら、恵理香ちゃん、帰ってたのね。今ご飯を作るわ」
 美幸がおみやげの袋を置いてぱたぱたと今の方へ入って行った。
「恵理香さんにおみやげ。どうぞ」
 その後ろにいたエキャマが、ビニール袋を一つ、恵理香に渡した。中には、有名メーカーの高級なクッキーが入っている。
「ああ、ありがとう…名前は呼び捨てで問題ないよ」
 気が抜けたまま、恵理香が袋を受け取った。
「今、男の人とすれ違ったよ。昨日来てた竜馬君だったよ。遊びに来てたの?」
 エキャマがちらりと外を見た。既に竜馬は帰ってしまったらしく、いなくなっている。
「誰があんなやつ!」
 恵理香が思わず声を荒げて、はっとした。いきなりこんな態度をとられては、エキャマも困惑することだろう。だが、エキャマの態度は恵理香の予想とは違った。しばらくぽかんと恵理香を見つめていた彼女だったがが、やがてくすくすと笑い始めた。
「…どうした?」
「恵理香、とても幸せそう。顔が赤い。恋人ね。恥ずかしいことを聞いてごめんね」
 どうやら、エキャマは誤解してしまったようだ。
「そういう間柄じゃない。女性に接するときの繊細さが足りない、あんな男と、私は恋仲になりはしない」
 恵理香はぷいとそっぽを向いた。もらったおみやげの袋を、自分の部屋に置きに戻る。
「大丈夫。わかるよ。あたしも、恋人がいるから。男の子は、女の子の気持ちをよく理解しないからね」
「違うと言うに。今までは友人だと思っていたが、もう友人でもなんでもない」
 相変わらず、恋人同士という話から離れないエキャマに、恵理香がため息をついた。恵理香の耳がぺたりと寝る。
「ケンカしたの?」
 心配そうにエキャマが聞く。
「…やけに突っ込むな」
「心配だもの。いとこでしょう。昨日はよくしてもらったから、悩みがあるならお礼の機会になるかなって」
「昨日?」
 恵理香が昨日のこと思い返すが、心当たりはない。
「あんなに話して、恵理香がとってもいい人だってわかった。言葉を知らないで、日本語が通じないときも、一生懸命話してくれた。自分の家だと思ってくつろいでくれって言ってくれた。初めてあういとこが楽しみだったけど、想像以上に恵理香は素敵だったよ?」
 エキャマがにこにこと微笑む。誉められた恵理香は、心の中がこそばゆくなった。昼間、不機嫌混じりに愚痴を言っていたことが恥ずかしく思える。人なつこいエキャマの微笑みは、彼女がこの日本訪問を楽しみにしていたことと、恵理香に対して好感を持ったことを如実に表していた。
「よかったら聞かせてくれない?知りたいの」
 エキャマは、少し心配そうに、恵理香の後ろについていく。
「ただのクラスメートだよ。失礼なことをされていらついてるんだ。もう当分、口をきくこともない」
 先ほどのことを思い出して、恵理香が俯いた。男に着物の帯を解かれたのは初めてだ。
「そんなに失礼なことを?」
「ああ。全く、どうしようもない男だよ。優柔不断だし、人に依存する嫌いがある。たまに私が気を利かせても、そのことに気づきすらしない。本当に、困ったやつで…」
 言えば言うほど、気分が落ち込んでしまう。恵理香は口をつぐんだ。
「そこまで言えるってことは、よく見てるんだね。恵理香は、その子と仲がいいのね」
 エキャマがまた笑った。どれだけ言ってもダメらしい。恵理香は黙って、部屋の襖を開けた。
「そうだ。バレンタインというお祭りがあるんでしょう?女の子が男の子にチョコレートを贈る。恵理香が作って贈ってみたらどう?」
 ぽんと、エキャマが恵理香の肩を叩く。
「ありがとう。だが、私は料理が苦手だし、彼のためにそんなにする気にもなれない。今は少し休むよ。また後でな」
 肩を落とした恵理香が、自室に入る。そんなに自分は、竜馬の話をするとき、嬉しそうに見えたのか。悩むことすら馬鹿馬鹿しくなる。恵理香は、竜馬が一つも手を着けずに置いていったケーキにフォークを刺し、一口で平らげた。


前へ 次へ
Novelへ戻る