「ただいまー」
 恵理香が玄関のドアを開け、靴を脱ぐ。恵理香の家族は、恵理香の和風な考え方とは合わない、洋風な家庭だ。父、母、そして恵理香の3人で暮らしている。父が狐の獣人、母が地球人という、少し変わったペアに生まれた子供が恵理香だった。
 いつものように、自分の部屋へ足を進める。家は2階建てで、1階の端にある和室が恵理香の部屋だ。居間の隣の部屋であり、縁側から外へ出ることも出来る。制服を脱いだ恵理香は、寒さに震えながら、私服にしている冬用着物を取り出した。着物に着替えた恵理香は、空気を入れ換えようと、引き窓とカーテンを開けた。
「あら、おかえり」
 外には、洗濯物を取り込む母の姿があった。母の名は美幸。恵理香のしっかりした性格とは対照的に、地に足の着いていない感があるふわふわした女性だ。ヘアスタイルはいつもくるりとカールのかかったパーマで、目が細くていつも笑っているように見える。普段の行動は普通なのだが、何を考えているかわからない部分があるため、たまにそれに依存しておかしな行動を取ったりもする。
 恵理香は今の学校に入ってから、母と同じような性格の友人が出来た。名を真優美・マスリと言う、褐色体毛に銀髪パーマの獣人娘である。最近は、母を見るたび、真優美と会話をさせたらどうなるのだろうかという好奇心をくすぐられる。
「手伝うよ」
 置いてあるサンダルに足を入れ、恵理香は小さな庭に出た。ひんやりと冷たいサンダルに、冬を感じる。もう30分もすれば、日はすっかり沈み、夜になることだろう。
「おじさんが今日来たわよ。リンゴ置いていってくれたから、後で食べましょう」
 タオルを外し、美幸が言う。
「またか?何か言われなかったか?」
「そうねえ。正月は助かったって」
「もう手伝わない約束だけどな」
 恵理香が顔をしかめた。今話題になってる叔父は、母方の兄で、神社の神主をしている。恵理香が宮内の雑事をこなし、さらに半狐という外見で人を寄せるので、恵理香がその神社で巫女になることを激しく望んでいる。だが、恵理香はそんな理由で巫女になれと誘われるのが嫌で、絶対に巫女にはならないと頑なに拒否していた。
「おじさんと言えば、いよいよ今日ね。ねえ、恵理香ちゃん。夜ご飯、どうしよっか。うふふ。お寿司でいい?」
 ぶら下げてあった靴下を、洗濯ばさみから外しながら、美幸が笑った。
「お寿司?奮発してるな。今日って、何か良いことでもあるのか?」
「うん。これ見て見て」
 そう言って、美幸がエプロンのポケットから、一通の封筒を取り出した。封筒を開き、中の紙を取り出す恵理香。かわいらしい便箋に、ころころとしたよくわからない文字が書かれている。恵理香はそれを読むことが出来なかったが、端に唯一書いてあった日本語「楽しみです」だけ読みとれた。
「これは?」
 恵理香の胃に、重い物が積もる。何か、嫌な予感がする。
「お父さんの親戚なのよ。恵理香ちゃんのいとこですって。かわいい女の子で、その子は獣人なんですって」
 相変わらず、美幸は嬉しそうな顔をしている。恵理香は封筒の差出人を見た。そう、これは確か、銀河標準の文字だ。文字体系を持たない人間や文化もあったと聞くが、それらが集まって創った一つのプロトコルだと言う話だ。視覚で意志を伝え合う手段として、文字は人間が思いつく発想の中でも優秀らしい。
「それと、お寿司と言うのと、何か関連があるのか?」
 嫌な予感をぶらさげたまま、恵理香が美幸に聞く。
「地球に興味があるっていう話なの。正確には、日本かな?日本語いっぱい勉強して、こっちに遊びに来たいって言ってて、今日から1週間と少し、こっちに遊びに来ることになったのよ」
 楽しそうに笑う美幸。話がようやく繋がった。この家に、恵理香の知らない間柄の客が一人、転がり込むのだ。
「母さん!そんな話聞いてないぞ!」
 慌てた恵理香が美幸の肩を掴んだ。
「え?聞いてないの?」
「ああ、聞いてない。父さんはこのことを知っているのか?ちゃんと請け負えるのか?」
「ええ。お父さんも、乗り気だったのよ。お母さんてっきり、お父さんから恵理香ちゃんに話があったものかと…」
 あっけらかんと話す母に、恵理香が頭を押さえた。それだけ大事な話を、自分の知らないところで進められていたと思うと、どうしていいかわからなくなる。まさか客が来るとは知らなかった。家の中は散らかっているし、人を迎える心遣いだって必要だろう。
「あたしがお父さんと結婚したとき、この子は2歳だったの。それから1年で恵理香ちゃんが生まれたから、3歳年上なのかな?でも、向こうは1年が少し長いみたいだから、実際は4歳くらい上なのかしらね。メールももらってるんだよ?」
 そう言って、美幸が携帯電話を取り出した。横文字の差出人のメールを開き、恵理香に見せる。その文章は、とても上手な日本語だった。言葉の心配はしなくてよさそうだが、それ以上の問題が消えたわけではない。
「そこまで自信たっぷりということは、計画は全て立ってるんだな?例えば、1週間もどこの部屋で寝るんだ?」
 洗濯物を持ったまま、居間の方の引き窓を開け、2人が中に入る。居間はテレビがつけっぱなしだった。テレビでは、バレンタイン商戦の話をしている。バレンタインデーは来週で、チョコレートがどうだという報道をしていたが、恵理香はそれどころではなかった。
「2階の物置部屋をきれいにしたから、使ってもらおうと思ってるの。本当ならば、恵理香ちゃんのお部屋がいいんでしょうけど…」
「どうして?」
「だって、恵理香ちゃんの部屋が、一番日本の文化を表してるんですもの」
 いぶかしげな顔をする恵理香に、美幸がうふふと笑ってみせた。
「断る。私はその女性と面識もないし、名前も知らない」
 ばふっ
 洗濯物を居間の敷物に置く恵理香。その顔は不機嫌でいっぱいだった。
「名前はね、エキャマちゃんって言うのよ。名字はお父さんの旧姓と同じジョイさん。ジョイって英語で楽しいって意味よね。きっと楽しい子よ」
 恵理香が何を問題としているか、美幸にはわからないようだ。相も変わらず、笑顔を崩さない。
「ジョイじゃなくて、ジャェオイだろう。似ても似つかないよ」
 タオルを畳みながら、名字を訂正する恵理香。恵理香の父であるクヤケンシは、美幸の元に婿養子として来ていので、名字は汐見になっている。元はジャェオイという名字だったらしいが、地球人種の口で発音するのは面倒くさいためか、美幸はジョイと略していた。
「うーん、今日の恵理香ちゃん、なんだか冷たい…そんなにいとこが来るのが嫌?」
 眉毛を八の字に下げ、美幸が困り顔をした。
「そうじゃない。早くに教えて欲しかっただけだ。私にだって都合と言うものがある。ともかく、部屋の掃除を始めないと…」
 恵理香は慌ただしく自分の分の衣服を持った。
「うーん、恵理香ちゃん。言いにくいんだけど…」
 美幸が困った顔のままで恵理香を見つめる。
 ピーンポーン
 何を言いにくいのか問おうとしたそのとき、玄関のチャイムが鳴り響いた。廊下に顔を出すと、玄関の磨りガラスに、影が映っている。恵理香の大きな狐尻尾の毛が、ざわざわと逆立った。着ているものだってよれているし、学校から帰ってきたばかりで、シャワーすら浴びていないこの姿を、知らないいとこに見せるのは恥ずかしい。少なくとも、今畳んだ着替えだけでもなんとかしなければ。
「あ、はーい」
 美幸が玄関の方へ出ていった。さっと、居間を見渡す。美幸は掃除が嫌いではないので、部屋が汚いことはない。着替えをそっと隠した恵理香は、テレビの横に置いてあった鏡で、自分の身なりを確認した。
「恵理香ちゃーん、お荷物運ぶの手伝ってー」
 廊下から美幸の声がする。出来るだけ平然と、普通を装って、恵理香は廊下に出た。
「初めまして」
 流暢な日本語で話しかけてきたのは、人当たりのよさそうな、白い羊獣人の少女だった。髪も白く、中くらいの長さの髪をカールさせて、眼鏡をかけている。この少女が、先ほど話題に上がったエキャマなのだろう。父の親戚だという話を聞いていて、てっきり狐だと思っていた恵理香は、目を丸くする。
「あ…と…この寒い中、ご苦労様でした。わざわざ遠いところからおこしくださいまして、ありがとうございます」
 演劇をしているときに、目上の人間に接するような態度で、恵理香は丁寧に頭を下げた。最近は学校生活メインで、劇の方は全然していないので、こんな言葉遣いになったこともなかった恵理香だ。どこか、非日常的なズレを感じる。
「いえいえ。こちらこそ、長い間お世話になります」
 エキャマが、まるで長い間日本に住んでいたかのように、上手な言葉遣いで返事をした。これにも恵理香は驚いた。
「じゃあ、荷物を運ぶわね」
 にこにこしている美幸と、着替えを下駄箱の上に置いた恵理香が、エキャマの荷物を受け取る。
「ありがとう」
「いえいえ」
 荷物を家の中に運び込み、居間の一角に並べる。その後ろに、靴を脱いだエキャマが続いた。
 ピーンポーン
 続いてまたチャイムが鳴る。エキャマ以外に誰か泊まることになっていたのだろうか。忙しそうにしている美幸に目で合図を送って、恵理香は廊下に出た。
「はーい」
「あ、恵理香さん?」
 外から聞こえてきたのは、竜馬の声だった。安心して玄関の鍵を開ける。
「恵理香さん、これ忘れてっただろ?」
 そう言って竜馬が差し出したのは、手提げ袋だった。今日は学校で体育があったため、体操服が入った手提げを持っていっていたのを、すっかり忘れていた。
「持ってきてくれたのか?」
「うん。そこで真優美ちゃんにあってさ。忘れ物を届けるって言ってたから…」
 竜馬の目線が奥に釘付けになる。恵理香が振り向くと、美幸とエキャマが廊下に出たところだった。
「お友達?」
 エキャマがにこにこ顔で恵理香に近寄る。
「あ…俺、錦原竜馬って言います。よろしく」
「よろしく」
 エキャマが竜馬と握手をした。美幸が待っていることに気が付いたエキャマは、美幸について階段を上っていった。
「…あの人、お姉さん?」
 かすれた声の竜馬が、恵理香に問う。
「いとこなんだ。どうかしたのか?」
「ん、なんでもない」
 質問を返す恵理香に、竜馬が目を背ける。
「ともあれ、ありがとう。確かに受け取ったよ」
 手提げ袋を受け取った恵理香が、笑顔で礼を言った。
「ああ、じゃあ、俺はこれで…」
 竜馬が家を出ていく。彼が門を出たのを確認してから、恵理香は玄関を閉めて、鍵をかけた。


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