「な、なんだったんだ、ありゃ…」
 2階の部屋に籠もり、ドアをぴっちり閉めた後。数分して、修平はようやく口を開いた。あれだけ多くのネズミを目にしたのは初めてだ。群、というよりは、波のようなその勢いに圧倒され、逃げ出してしまったが、どういうルートを通ってここまで逃げてきたのかわからない。食堂まで戻るのは難しいだろう。
「おかしいな…携帯電話が繋がらない」
 祐太朗が難しい顔をして、携帯電話を睨んでいる。ディスプレイの明るさに照らされた彼の顔は、角度のせいかとても不気味に感じられた。
「ここは…」
 ぎし、と床が鳴る。ばっとそちらに顔を向ければ、アリサが部屋の中に進んでいた。慌てていたのでよく見なかったが、様々な物が置いてある。大げさに天幕まで張ってあるベッド、機能的という言葉とはほど遠い簡素な勉強机、朽ち果てたぬいぐるみの数々。床に転がっているのは積み木だ。どうやら、子供部屋だったらしい。
「うーん…不気味ねえ」
 アリサがベッドに腰掛けると、ベッドはぎしりと音を立てた。修平がその隣に立つ。ベッドにはシーツだけ、それも半端にしかしか乗っておらず、マットレスも枕も、掛け布団すら見あたらなかった。
「アリサちゃん、虫とかいるだろうし…」
「いいのよ。走り回って疲れちゃった。虫だって、無意味に人間に攻撃しないでしょうよ」
 修平の言葉に、アリサが拗ねたような反応を返す。
「ここにも小さな書棚があるね。子供向けの本とは思えないようなのが置いてあるよ」
 そう言って、窓際の本棚から祐太朗が取り出したのは、分厚い辞書のような本だった。背表紙に金文字で何か書いてあるが、あいにくと修平は英語は得意ではないし、この薄暗さでは彼の手元まで見ることは出来なかった。
「英語だね…えーと?メンタルメディカル…精神医療のことかな。中は…んー…長すぎて読む気にすらならないよ」
 本を開いてはみた祐太朗だったが、すぐに顔をしかめて本を戻した。
「子供部屋に精神医学?似合わないわねー。しかも英語だなんて。子供が大きくなるまで部屋を使って、精神学を専攻したのかしらね」
「さあ…元の持ち主の意図はわからないな。案外、置き場所がなくなっただけかもしれないよ。他に物が多すぎて、子供部屋にまで本を置かなければならなかったとかね」
「実は、子供が何らかの病気で、すぐに対処できるように置いてあったとかな。家庭の医学と同じように。今時、珍しい話でもないだろ?」
 3人が3人、自分勝手な意見を述べる。もちろん、その中に解答があるかどうかなど、3人にはわからない。それに、解答があったところで、この屋敷から全員揃って出る決定打にはならない。
「まずは部屋から出よう。それで、錦原君達のところへ戻るんだ。彼らも移動はしているだろうけど、何もしないよりはマシだよ」
 精神医学の本を置き、祐太朗が振り向く。
「そうね。出て左側が階段側だったかしら」
 ベッドから立ったアリサが、部屋の入り口まで戻った。ドアノブを回し、外に出る。
「…え?」
 アリサが目をごしごしと擦った。後ろに修平と祐太朗が続く。出て左側…今さっき、3人が駆けてきたと思っていた廊下は、床がなかった。腐って落ちてしまったかのように、大きな穴だけが空いている。穴の下は1階の廊下のようだが、光が足りなくてよく見えない。
「え…俺ら、あっちから来たよな?」
 顔を上げて、修平が廊下の向こうに目を凝らす。またぐことすら出来ないその大きな穴。向こう側の遠いところに、確かに階段は見えるが、そちらへ行くことはままならない。
「混乱してたのかもね。もしかしたら、こっちかもよ」
 右側の暗い廊下に向かって、アリサが歩き出す。そちらは、床が抜けていることはなかったが、廊下の左右に多くのドアがあった。
「アリサちゃんは後ろ頼むわ。俺、前に行くから」
 アリサの前に出て、先を歩く修平。レディファーストという言葉は、元々は女性を先に行かせて、男性が安全を確認するための言葉だったそうだ。そんなレディファーストはいらない。修平はそれなりにフェミニストではあったし、腕相撲でも格闘でもアリサに負けてしまうということにコンプレックスも持っていた。アリサの先に歩こうと思ったのは、当然のことだ。
「うーん…せめて、連絡を取れるといいんだけどね…」
 祐太朗が携帯電話を見る。ディスプレイには相変わらず、圏外の文字が出ていた。
「そうねー。あっちは、どうなってるの…」
 かたん
 それは、紙箱を落とすような、小さな乾いた音だった。何の気なしに、修平が振り返る。いない。そこにいたはずのアリサの姿がない。難しい顔をしている祐太朗と、修平だけが残される。
「…え?」
 修平が後ろに数歩下がる。床には穴もないし、左右にはドアのない壁だけ。どこかに行ったとも思えない。
「アリサさんが…いよいよもってホラーじゃないか。少女の霊ってやつかい?」
 祐太朗が軽口を叩くが、かすれた声だ。修平の額を、嫌な汗が流れる。アリサは一体どこに…
「…探そう。どこかで既にはぐれてしまった後だったのかも知れない。少し、戻るよ」
 冷静な祐太朗の言葉に、修平は言葉もなく頷いた。一歩、一歩、廊下を戻る。怖くて逃げ出したいが、それもかなわない。
『ひょっとすると、アリサちゃんは…』
 修平は、最悪の結果を想像してしまった自分に、頭痛を感じながら、歩き続けた。


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