北陸の冬は寒い。それは関東や関西、九州の寒さとは違う。昼は日差しが出ればよしだが、そうでない場合は、鉛色の雲の下にいることになる。雲は時には雪を降らせることもあり、ひどくなると道が埋もれてしまう。雪の上を車が通ると、車の重さのせいで雪が押し固められ、そこだけ低くなる。これを圧雪というのだが、問題はこの圧雪が均等に起きない場合があるということで、雪ででこぼこになった道を車が走ることになってしまうのだ。
 雪の恐ろしさはそれだけではなかった。夜になると、気温がさらに下がり、部屋の中でも息は白くなる。全てが凍り付いた、極寒の世界。都市部ならばまだ活気も残っているが、田舎になればなるほど、活気が下がる。そして、寒さが最高潮になるのが、明け方だ。明け方は、日の射さぬ長い夜の末、冷え切った時間帯になる。ここで朝が来れば、雲越しとは言え太陽がある分、寒さは緩むのだが。
「ん、う…」
 かなりの寒さを感じた竜馬は、布団の中で、うっすらと目を開けた。いつもと違う天井が目の前に広がっている。心なしか、布団の堅さも違う。それが、実家に帰ってきたからだということを思い出すのに、それほど時間を必要とはしなかった。
 あまりの暗さに、まだ夜中かと時計を見ると、既に6時半を少し回っている。まだ太陽は昇らぬか、空が曇っているかしているらしい。布団の中は暖かかったが、少しでも自分のぬくもりのない場所に手をやれば、それだけで凍り付くかのような寒さだった。
「くぅん…」
 犬の鳴き声のような、おかしな音が聞こえる。目をやれば、アリサがすやすやと眠っていた。竜馬の隣に並べられた布団に、すっぽりと収まっている。この状況で、竜馬の布団に入ってこないのは、珍しいと言えるかも知れない。
 クリスマスからこっち、アリサはなぜか、いつでもしおらしく、おとなしかった。竜馬があれだけ言っていた、おとなしい女の子が好きだという言葉を理解したのかも知れない。しかし、竜馬が彼女を好きになるほどに信用することは、まだなかった。
「ん…」
 ころんと、寝顔を竜馬に向けるように、アリサが寝返りを打つ。竜馬はなんとはなしに、彼女にいたずらをしてみたいと考えた。布団から上半身だけ這いずり出して、竜馬は手を伸ばした。
「んぎゅ」
 アリサの鼻をつまむ竜馬。犬のようなその鼻は、すうすうと寝息を通している。そのまま、竜馬はアリサの顔を撫でた。犬や猫がそうであるように、アリサの鼻先には、透明な髭が生えていた。だが、その長さは短く、体毛とほとんど変わりはない。今度は、竜馬は耳を引っ張った。耳は薄く、中にもふわふわの毛が生えている。見た目より、かなり丈夫だ。
「…もうやめるか」
 アリサの顔をいじることにも飽きた竜馬は、布団から抜け出し、着替えを始めた。すっかり目が覚めたし、再度寝ることもないだろう。普段着に着替えた竜馬が、廊下に出る。部屋の中も寒かったが、廊下はさらに寒く、息は真っ白になった。何の気なしに、窓から庭を見ると、真一が雪かきをしていた。さすがに、老齢の祖父一人に雪かきはさせておけない。階段を下り、竜馬は外に出た。
「竜馬か。起きたのか?」
「ああ。手伝うよ」
 置いてあるスコップを手に取る竜馬。普通の雪かき用のアルミスコップは弱いので、竜馬の実家では土木用の鋼鉄スコップを使用している。丈夫だが、それに見合うだけの重さもあり、久々に持った竜馬は思わずよろけてしまった。
「重いな、これ…」
 竜馬がぽつりとつぶやく。
「なんだ。そんなもんで重い言ってたら、剣道なんかできんぞ。まだやっとるんだろう?」
 がつん!
 斧を振り下ろす要領で、真一が凍った雪を叩き割る。
「うちの学校の剣道部、不良ばっからしくて、もうやってないんだ」
 その反対側で、竜馬もスコップを振るう。
「もったいない。なら、お前が剣道部を立て直せばいいじゃないか。他のメンバーに信頼できるやつはおらんのか?」
「いや、入部すらしてなくて…」
「なに?今まで続けてた剣道をやめたのか?」
 苦い顔をする竜馬に、真一がにやにや笑いを見せた。
「そーうかそーうか。俺はな、こうなると思っておったんだ。だからやめろとあれだけ言うたのにな。な?」
 嬉しそうに、真一が竜馬をからかう。
「うっさいな。俺だって、もっとちゃんとした部活だったら、今頃入部して…」
 そこまで言って、竜馬はやめた。これ以上言うのも女々しい。それに、今は別に剣道をどうこう言うほど、執着することもない。
 剣道で中学チャンピオンになったこともあったが、その大会に関しては本当にまぐれだった。竜馬はそれまで、1回戦で敗退する雑魚キャラの一人だった。ところが、ちょうどその大会だけは、実力もなにも関係なく、自分は頂点に立ってしまったのだ。スポーツ推薦の話も来たが、自分の腕を審査に来た先生に見せたところ、竜馬のまぐれという言葉に納得して、肩を落として帰って行った。それでもまだ、少し頑張れば実力を手に出来ると、勘違いしているところもある。いっそ、未練を断ち切った方がいいのだと、竜馬は自分を納得させた。
「いやあ、あれだけ危ないスポーツはやめろと言ったかいがあった。大けがをする恐れもあった、心配だったんだぞ。バスケでもすればいいじゃあないか」
 心の底から笑い声を出す真一。彼は今まで、かなりの心配をしていたらしい。
「バスケは気が乗らんよ。俺、背も高くないし」
 今となっては、彼の気持ちもわからないでもないが、やはりこの祖父の言う通りになってしまったというのは、竜馬には面白くなかった。
「阿呆。俺のころは、バスケ、サッカー、野球って言ったら、モテる競技の3本柱だったんだぞ。マンガなんかもいっぱい出てな」
「3つとも、今でも有名な競技だろ。俺、別にモテたくてスポーツするわけじゃない」
「そうだったな。アリサちゃんがおるもんな?」
 きしし、と真一が笑った。今の言葉に、竜馬はかちんと来た。自分があれだけ必死になって否定するアリサとの関係が、祖父にまで浸透している。昨晩もそうだった。酒を飲んでハイテンションになった祖父と姉が、さんざっぱら竜馬をいじくり回す。母はそれを見て微笑み、父もにこにこするだけで何も言わなかった。妹はとても乗り気で、彼女も祖父と姉の輪に入る。
『嬉しいなあ、竜馬の家族がこんなにいい人ばっかりで…』
 アリサの言葉が耳に蘇る。たぶん、この家族というのは、いずれ自分の家族になるというニュアンスも含まれているのだろう。
「えーい、じじい!俺はアリサとなんでもないっつってんだろ!」
 むかつきが最高潮に達した竜馬が、真一を怒鳴りつけた。
「わかったわかった。そういうことにしておこうか」
 相も変わらずの祖父に、竜馬は怒鳴りつけることをやめた。
「今日は大晦日だしな、一年の締めに聞いておこう。竜馬。今、幸せか?」
 真一が、いつになく真面目な顔で、竜馬の方に向き直る。
「え?んー、まあ、幸せだな」
 ざくっ
 竜馬の握るスコップが、雪をかきわける。
「何をもって幸せとする?東京での生活か?人間関係か?」
「わからんけど、思ったより不幸でもないしなあ。今んところ、これといって生活にけちはついてない。こういう…そうだな…不幸じゃないことを、幸せって言うんじゃないんか?」
 スコップを雪山に刺し、竜馬が額の汗を拭った。
「ほう。不幸を基点とするか。じゃあ、俺の生活は、幸せじゃないなあ。孫は2人もよそに行くし、婿の和馬さんも仕事が忙しいとかで構ってくれん。どう思う?」
「そりゃあ、仕方ないことも混ざってるだろうに。それぐらいは不幸って言わないだろ」
「どうかな。もしかすると、しょうがないことじゃないのかもな。お前が思うほど、自分は幸せじゃないのかも知れんぞ」
「要するに何が言いたい?」
 真っ正面から、竜馬は真一に向き直った。
「…お前、東京に行ってから、変わったぞ。前は、贔屓目に見てもへたれてた。今はいっぱしの顔をしてる。ようわからんけど、何かあったのは確かだ。それを知りたかったんだよ」
 2人の間を、風が流れた。冷たく、長い風が。
「…はあ。俺、よくわからん。変わったか?」
 竜馬は再度スコップを取り、一つあくびをした。
「変わったぞ。格好がよくなった。体も締まったな。それも、俺はアリサちゃんのおかげじゃあないかと、思うのだが…」
「ないない。あいつには迷惑しかもらってねえよ。ったく、爺ちゃんまで何言うんだか」
「照れちまって。まあいい。終わらせて、中で茶でも淹れよう。寒くてそろそろ凍る」
 話を半ば強制的に打ち切り、真一が雪を割った。しばらく2人とも、もくもくと雪かきを続ける。
「さて、雪かきももう終わり、家に入るぞ。さすがにこの寒さは堪えるな。もっかいアリサちゃんと寝直すとよいぞ。俺も婆さんがいればなあ…」
 家の前の道がすっかりきれいになるころ、真一が口を開いた。祖母は既に他界しているので、婆さんと一緒にという彼の言葉は実現出来ないが、それでも彼は楽しそうに日々を生きている。相変わらずの祖父に、竜馬は軽く懐かしさを感じた。連れだって家に入ると、何か甘い香りが漂っている。
「なんじゃ。俺ら以外にも、早起きがおるのか?」
 真一がタオルを洗濯籠に投げ入れ、居間へのドアを開く。キッチンに、人影。ふわふわの毛皮の犬娘、アリサが、長い菜箸を握っていた。
「あ、おかえりなさい。窓から2人が見えたから、ちょっと何か用意しようと思って」
 2つのお椀をコタツの上に置くアリサ。褐色の液体に、白いかたまり。餅が1つずつ入った、暖かいお汁粉だ。
「おお、ありがとう。朝飯の前に、少し頂くよ」
 コタツに入った真一は、早速箸を取った。竜馬も続いて箸を取ろうとして、少し悩む。この後に朝食が待っているのだ。例え餅が1つと言えど、少し重いかも知れない。竜馬の友人である、人間少年の砂川修平や、獣人少女の真優美・マスリなどは、食が太いから躊躇なく手を出すだろうが、竜馬は彼らに比べて食が細かった。
「どうしたの?もしかして、お汁粉嫌いだった?」
 自分の分を取ったアリサが、竜馬の方を見て、少し不安げな表情をした。
「あ、いやいや、そんなことないんだ」
 竜馬が箸を取った。なんだか、最近のアリサは弱い。言い合いにでもしようものならば、すぐに泣いてしまいそうなほどに。今ここでそうなれば、厳格な祖父から、たっぷりとげんこつをもらうことになるだろう。アリサを泣かせるのも、げんこつをもらうのも、出来るだけ避けたい竜馬は、お汁粉に箸をつけた。
「…あ、美味い」
 率直な感想が、竜馬の口をついて出た。どこから小豆を調達したのかもわからないが、それはとてもよく出来ていた。
「ほんと?」
「うん。こういうことで嘘は言わないよ」
 するりと流し込む感じで、竜馬はお椀を空けた。嬉しそうに、アリサが目を輝かせる。
「嬉しいなあ…竜馬に美味しいって言ってもらえるなんて…」
 感慨深いといった表情で、アリサが自分の分を口に含んだ。
「そうそう。聞いたが、ご両親は今晩、都合がいいとな?」
 真一は既に自分の分を食べ終え、箸を置いている。彼もまた、食べる量は多かった。これだけ食べても、朝食に差し支えることはないだろう。
「ええ。父も母も空いている日なんです。大晦日ですけど、大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だとも。今から張り切るなあ。燕も、腕によりをかけて料理をするそうだ…あ、食べられないものがあれば、先に聞いておこう」
「大丈夫ですよ。海苔でも納豆でも、大抵の物は食べられますから」
 アリサと真一が、楽しそうに話している。竜馬は、どこか置いていかれたような気分になった。話に入りたいわけではないが、楽しそうな輪の中から、一人はずれている気がする。同時に、竜馬はアリサの両親のことが気になった。アリサの父であるカイオヤ・シュリマナとは、以前あったことがあるが、アリサの母に関しては、顔どころか名前すら知らなかった。アリサからその話をされたこともない。どんな人物なのか、少々の興味はある。だが、アリサに負けず劣らずに押し掛け女房だったらどうしようかと、竜馬は一時思い悩んだ。
『もう私の息子なんですから。ほーら、ご飯ですよ』
 アリサが少し年を取ったような女性が、竜馬の脳内で語りかける。竜馬は思わず首を左右にぶんぶん振った。そんな両親であるはずがない。アリサは常識が少し足りない部分があるが、アリサよりは常識がある両親のはずだ。そうでなければ、会社の社長や、社長夫人など出来るはずがない。もしかしたら、父親や母親に直談判することで、アリサの強引さを押さえてもらうことが出来るかも知れない…
「どうした、竜馬。顔が青いぞ」
 心配そうな顔をしている真一を、竜馬は目の端で捉え、現実に引き戻された。その横には、同じように心配そうな顔をしたアリサがいる。
「…大丈夫だよ。問題ない」
 頭痛を無理矢理押さえ込み、竜馬は答えた。今晩が楽しみであると同時に、不安でもある。果たして、どんな魑魅魍魎が現れるのか。それとも、常識人で美人な母が現れるのか。大穴の馬に全財産を賭けたギャンブラーのように、竜馬は胸をときめかせた。


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