竜馬は、少し不安を感じていた。ステージ上では、華やかなコンテストが開かれているが、彼の心はそちらには惹きつけられなかった。アリサに来たメールから察するに、真優美もどこかで、選考の必要なイベントに出てはいるようだ。しかし、この周辺でそんなことをしていそうな場所はない。さらに言うならば、真優美はこの結婚式場の場所を既に知っているはずだ。間違えて他の場所に行くはずがない。
『ホテルの場所を知ってるっての、嘘だったのかなあ…』
 ぼんやりと、竜馬は真優美のことを想像した。たしかに、真優美らしいといえば真優美らしいのだが。
「すまない、手洗いに行って来るよ」
 祐太朗がこそこそと席を立った。
「あ、俺も」
 竜馬がそれに続く。会場を出たところで、竜馬は大きく伸びをした。
「おや。だいぶ混んでるね」
 トイレに続く廊下で、祐太朗が立ち止まる。トイレの前には、長蛇の列が出来ていた。ほかの部屋でも、何かイベントをやっているのだろうか。
「しゃあないな。1階下行こう」
 トイレの隣にある階段を下り、2人は1階下まで来た。上のトイレは混んでいたが、こちらにはあまり人がいない。
「ん?」
 すれ違った男に、祐太朗が目を向けた。長い髪がべったりとしている、タバコの臭いのする男だ。スーツは着ているが、会社員には見えない。祐太朗が気になったのは、彼が持っているカバンだった。
「竜馬君。今の人が持っていたカバン…マスリさんのものに似ていなかったかい?」
「え?」
 ふいと、竜馬が振り向いた。廊下の角を曲がっていく男が、肩にかけているカバン。それは確かに、真優美のものだ。
 ブブブブ
 ポケットに振動を感じた竜馬は、ポケットに手を突っ込んだ。携帯が揺れている。
「ああ、真優美ちゃんからだ…」
 開いてみると、真優美からのメールだった。
『なんだか変です。ホテルから移動するって言ってる。水着写真とかでやばいかも。6階の602です。アリサさんの部屋はどこですか?』
 内容を読んだ竜馬が、顔をしかめた。
「ふむ…おかしい、ね。これは変だ」
 横から携帯をのぞき見ていた祐太朗が、同じく顔をしかめる。竜馬は、軽い胃の痛みを感じていた。よくわからないが、真優美がおかしなことに巻き込まれていることは明らかだ。
「お前、他のやつ呼んできてくれ。俺、この602号室に行ってみるわ」
 トイレに行きたかったことも忘れて、竜馬が走り出す。不安は的中した。相手がただの勘違いならば、話をすればまだわかるかも知れない。今は真優美に電話やメールをして確認するより、部屋に行った方が早い。
 ごんごん
 部屋につき、ドアを乱暴にノックする竜馬。緊張が手足に来て、指先が痺れる。しばらくすると、ドアが開き、中から太った中年の男が顔を見せた。平井だ。
「誰かな?」
 人好きのする笑顔で、平井が竜馬に聞いた。
「あの…すいません、ここに、真優美・マスリっていう女の子がいるはずなんですが…獣人の…」
 枯れそうな声を振り絞り、竜馬が言う。喉が渇いて、ろくに声が出ない。
「知らないな。人違いじゃないか?悪いが…」
「りょ、竜馬くぅん…」
 否定しようとした平井の声を遮って、部屋の奥からか細い声が響く。
「真優美ちゃん!」
 平井を押しやって、竜馬は中へなだれこんだ。部屋の中には、真優美がいた。水着の上に、スカートとコートだけ着せられて、うつろな目でベッドに座っている。スカートがまくれあがっていることにも、気が付かないようだ。
「あー…竜馬、くぅん…」
 立ち上がろうとした真優美が、かくりと膝を付く。
「困るなー。君、何の権限があって、勝手に入るんだ」
「いや、そういう問題じゃないだろ。あんた、真優美ちゃんに何したんだよ」
 不愉快そうな顔をする平井に、竜馬が食ってかかった。真優美の様子はどう見ても普通ではない。例えば寝起きであっても、こんなにひどくはないだろう。
「竜馬、くん…あたし、竜馬君に…きれいなかっこ見せたくて…誕生日だから…」
「ああ、わかったわかった。真優美ちゃんは十分きれいだよ」
 真優美のスカートを直す竜馬。生気のこもっていない目で、真優美が微笑んだ。
「本当に困るな。彼女の同意の上で写真撮影をしているんだ。勝手なことをしないでくれ」
 竜馬の前に、平井が立ちはだかった。
「写真なんか撮ったのか。何をするつもりだったか知らないけど、真優美ちゃんに変なことはさせないから。どけよ」
「無理だよ。君は…」
 平井がぐだぐだと物を言う。
「あっ…!」
 と、竜馬の背中側を見ていた真優美が、大きく目を見開いた。
 ごぉん!
「うあ!」
 後頭部に激しい衝撃を感じて、竜馬がばったりと倒れた。体が上手く動かない。視覚に砂嵐がかかり、頭ががんがんし始めた。
「く、黒島さん、まずいっすよ!さすがに傷害は…」
「うるせえな!そんなこと言ってる暇があったら逃げるんだよ!」
 竜馬が顔を上げると、男が2人になっていた。平井と、もう一人は、先ほどトイレですれ違った男…黒島だ。ふらふらの真優美を、2人は半ば強引に連れ出して、部屋から消えた。
「い、てて…くそぉ…」
 竜馬が無理矢理に体を起こす。だが、すぐに倒れてしまう。竜馬は後頭部に手をやった。血は出ていないが、こぶが出来ている。
「もうちょっと、剣道やってればなあ…そうすりゃ、打たれ強くもなったんだけど…」
 膝をつき、竜馬が頭を押さえる。もう少し強くあれば、今回のようなことは起きなかったかも知れない。そもそも、これが平均的な高校生に起きる事件とは思えない。春から数えると、竜馬は様々な事件に巻き込まれている。今まではなんとか乗り切ってきたが、今回に限っては、真優美が連れ去られてしまった。もしかすると、助けられたかも知れないと思うと、責任という名の重石が竜馬の背中にのしかかった。
「おい…これまたどうしたってんだ」
 部屋の中に、恵理香と修平が入ってきた。修平がしゃがみ、竜馬を起こす。
「入れたのか?」
「戸が開きっぱなしだったんだよ。どうした?大丈夫か?」
 心配そうな顔の恵理香。竜馬に傷がないか、くるくると回って確認する。
「なんか、知らんけど、真優美ちゃんがよくわからん男2人に連れ去られて…」
 ふらり、と竜馬は立ち上がった。つい10秒前に比べれば、だいぶ楽だ。体が動くようになった代わりに、頭の痛みは加速度的に大きくなっていった。
「マジかよ。1階に向かった美華子ちゃんと祐太朗が止めてくれるといいけど…」
 修平が竜馬をベッドに座らせる横で、恵理香が部屋の中を漁り始めた。流石に足がつくようなものは置いてないが、真優美が身につけていたとおぼしき私服がテーブルに置いてある。
「1階か…あたた、俺も向かうわ…」
「おう。俺らは警察に電話して、もうちょっと部屋漁ってみる」
 修平が携帯を取り出した。彼は一見冷静に見えるが、その実は事の重大さをしっかり理解していないだけのようでもある。竜馬は走り出した。ちょうど、エレベーターが到着している。1階のボタンを押した竜馬は、背中を壁に預けた。エレベーターには他に乗る客もいない。快調に1階へと降りて行っているはずなのに、それでも遅いように感じる。真優美に電話をしても、あの様子では繋がらないだろう。
 ポーン
 音が鳴り、扉が開いた。ロビーには、真優美の姿はおろか、彼女を連れた男2人の顔も、祐太朗と美華子もいない。
「なんだよ、おい…」
 既に逃げられてしまったのかも知れない。そう考えただけで、竜馬は不安になった。外に出た竜馬は、美華子と祐太朗が、立ちつくしているところに出くわした。
「くそっ、逃げられた。車だ。あっちの方向に…」
 祐太朗が道の先を指さす。どうやら、通りの方へ出てしまっているようだ。
「ああ、真優美ちゃん…もう警察に任せるしか…」
「大丈夫よ!」
 ずるるるるるる!
 何かが擦れる音がする。上空を見上げた竜馬は、消火放水用のホースを伝って降りてくる、アリサの姿を見た。
「あ、アリサ!」
 竜馬がぽかんと口を開けた。花嫁衣装が擦れて、軽く破れている。
「ひどいじゃない。私を置いていくなんて。ナンバーは?色は?車種は?」
「え?えーと…」
 聞かれた美華子が、詳細な情報をアリサに話した。アリサはふんふんと頷き、自転車の鍵を外す。
「…だいたいわかったわ。じゃあ、追いかけてみる」
 アリサが自転車の鼻先を大通りの方へ向けた。竜馬が呆然とその後ろ姿を眺める。
「真優美ちゃんをさらうなんて、絶対許せないんだから!」
 アリサが大声で吠えた。ホテルの方では、突拍子もない行動をとったアリサに、ギャラリーが集まっている。
「アリサ…お前ってやつは…友達思いなんだな。俺、アリサのこと、見直したよ」
 半ば感動して、竜馬がつぶやく。
「何言ってんのよ。漕ぐのは竜馬よ?」
「へ?」
 ぐい!
 強制的に、竜馬が自転車のサドルに座らされた。後ろに乗ったアリサが、長いスカートがタイヤに絡まらないように、くいと持ち上げる。
「ちょ、俺かよ!ふざけんなよ!」
「ふざけてないわよ!ほら、漕ぎなさい!馬車馬のごとく!」
 べしぃ!
「あだー!」
 背中を強く叩かれた竜馬が、足でアスファルトを蹴った。軽く勢いのついた自転車は、ふらふらと倒れそうに発進する。自転車を倒さないように気を使い、竜馬は力強く漕ぎ始めた。
「なんだ、いけるんじゃない。ほら、こっちよ!」
 アリサが強制的にハンドルを切った。
「ちょ!危ねえよ!大体、なんでこっちだってわかるんだよ!」
「国道が近いじゃない。こっちならまだ逃げられるもの。あっち行ったら袋小路よ」
 しゃがしゃがしゃがしゃがしゃが
 2人分の体重を受け、自転車が悲鳴を挙げる。道が軽く下り坂になっているせいか、自転車が激しく加速する。歩道は危険だと認識した竜馬は、車道へ躍り出た。とうとう、2人の乗った自転車が、大通りに出る。休日の大通りは、車でごった返していた。
「…あれ!あれよ!見つけた!」
 アリサが左側の遠くを指さした。約300メートル、信号待ちをしている車の中に、ぐったりした真優美がいる。
「ほら、ナンバーまで一緒よ!」
「よ、よく見えるな」
「当たり前よ!ほら、加速加速!早くしないと逃げちゃうじゃない!」
 しゃがしゃがしゃがしゃが!
「やめんかー!」
 アリサが手を前に回し、竜馬の膝をぐいぐいと押した。アリサは力が並ならず強い。元より速かった自転車は、ロケットのようにさらなる加速を遂げた。
「ほら、逃げちゃう!」
 青信号になり、真優美を乗せた車が発進する。これが海外のアクション映画ならば、タイヤに銃弾でも撃ち込んで止めさせるのだろうが、あいにくとここは日本だ。追いかけるしかない。
 アリサと竜馬の乗った自転車が、ぐんぐんと追い上げる。200メートル、100メートル、50メートル。この追い上げは異常だ。
「…加速した!」
 真優美を連れ去った2人が、竜馬とアリサに気づき、車を加速しはじめた。だが、道が混んでいるせいか、車はろくにスピードを出せないでいる。周りにいる車にぶつけながらも、再度加速をする逃亡車。懐から、アリサが何かを取り出す。
「ええええい!」
 スッカーン!
 アリサが手に持っていた物を車に投げつけた。タイヤが大仰な音を立て、唐突にへこむ。ゴムの焼けた臭いが漂い始めた。
「な、何投げたんだよ!」
「ポケットに入ってたボールペンよ。危険だから、真似しないでね。絶対よ?」
「誰がするか!」
 竜馬がさらに自転車を加速する。パンクした車相手には、小回りの利く自転車の勝ちだった。
「追いついた!飛び降りるから後お願い!」
 ようやく自転車が横に並ぶ。
 ばっ!
「おわあ!」
 アリサが狼の形相をして、自転車を飛び、ボンネットに降り立った。バランスを崩した竜馬は、植木に突っ込んで停止してしまった。
「逃がさない…逃がさない!」
 アリサがポケットをまさぐる。ポケットから取り出すのは、1つの指輪。銀色をして、模様のついた指輪だ。パニックになった男は、急加速をしたりブレーキをかけたりするが、アリサは落ちない。
「くふふ…これね、竜馬にあげようと思ってたの…婚約指輪なの…誕生日プレゼントなの…でもね、こういう使い方も出来るのよ」
 完璧におかしな目の色をしているアリサ。プラチナや銀などではない、ありふれた金属で出来た指輪。右手の人差し指に、そのちょっと大きめの指輪をはめる。ボンネットに片手で掴まり、しゃがみの姿勢を取ったアリサが、右手をすっと後ろに引いた。
 ガチャァァァン!
 アリサの拳が、ガラスをぶち破った。蜘蛛の巣のように、ガラスに白くヒビが入る。アリサのつけた指輪は、その衝撃で折れてしまった。中まで殴り抜けたアリサの手が、助手席に座っていた平井を掴んだ。
「うふふ…つーかーまーえーたー。許さないんだから…!」
 獲物を補食する狼がそこにいた。白いウェディングドレスを着て、ふさふさとクリーム色の体毛を生やし、長い金髪をたなびかせた狼が、そこにいた。平井と黒島が、顔を真っ青にする。
「ぎゃああああああああああああ!」
 大都会、東京。その片隅に、男2人の絶叫が響き渡った。


前へ 次へ
Novelへ戻る