清香が携帯電話を見つめ、難しい顔をしている。少し前に届いたメールを見ているのだろう。後ろに立って、出来上がった鍋を運んでいるアリサは、清香がもう片方の手に持っている包丁を落とすのではないかと、気が気でなかった。
「竜馬からメール。ちょっと別のところに行く用事が出来て、だいぶ遅れるんだってさ。ったく、あの子は心配ばっかかけるんだから」
ぱたんと携帯電話を閉じる清香。その顔は、少し心配そうだ。
「子供じゃないんだし、少しぐらい遅れても問題ないっしょ?」
飛び跳ねる油と戦っている修平が、のんきに返事をする。
「そりゃあ、いつもならね。ほら」
清香がそういって、テレビをちらりと見る。テレビでは、大雨についてのニュースをしている最中だ。その記録的な大雨は、どうやら関東圏すべてをすっぽり包んでしまったようで、今晩から明日に多量の雨が降るという。どうやら、東京方面に来る前には多摩方面で既に大雨が降っていたらしく、多摩地区では水害が起きている様子だ。
「もう12月も近いのに、なんでしょうねえ。ひどい雨…」
真優美が尻尾をたらりと垂らして、座り込む。彼女が雨を見る振りをして、出来上がった料理を摘もうとしたのを、恵理香が止めた。
「あら、大変。竜馬達、濡れたりしないといいんだけど…」
アリサはぼんやりと外に目を向けた。
ちょうどその頃、竜馬と美華子は、雨に降られてげんなりとしていた。越後小屋で受け取ったのは、奇妙な形をした根菜だった。形はカシューナッツ、大きさはニンジン程度、色は真っ白で、ところどころ茶色い水玉模様がついている。煮て食べるととても美味しいと聞いたが、どんな調理法でどれだけ煮ればいいのか、まったく検討が付かない代物だ。
大きな道沿いに歩き、2人はようやくのことで越後小屋に着いた。越後小屋の主人は、箱いっぱいの根菜をくれ、それが濡れないように大きなビニール袋にまで入れてくれた。
荷物を受け取ったところで、弱かった雨足が、いきなり強くなりはじめた。仕方なく2人はコンビニで傘を購入し、大雨の降る中歩き出した。途中、竜馬は何度か転んだり、雨のせいで気が立った散歩犬に襲われたり、トラックの立てた水しぶきをまともに浴びたりはしていたが、それなりにまだ気力は残っていた。
「だるい…雨、早くやめばいいのに」
美華子が、今までにも何度か言った、愚痴の言葉を吐き出した。彼女は竜馬と違い、不運な出来事はなかったが、それでも長い距離を歩かなければいけないというのは同じ。時折、こうして愚痴を言っていた。
彼女があまりにも愚痴を言うため、竜馬はそれをなんとか軽減できないかと、美華子にチューイングガムを渡した。しかし、美華子はガムを噛みながら、ずっと文句を言い続けるので、竜馬は諦めてしまった。
「大丈夫?きつかったら少し休む?」
美華子を気遣った竜馬が立ち止まった。
「まだ大丈夫。錦原は?」
「俺はそんなきつくもないよ。まあ、かなり寒くはあるけどね」
竜馬がはははと笑う。
「そう」
前を向いて、美華子が歩き出した。彼女の目は、何を見ているかわからない。
「あの、さ…」
ばしゃああ!
大きな水しぶきが、道路から竜馬めがけて降り注いだ。美華子はそれをひょいとよけることが出来たが、竜馬はまたもや水を浴びることになってしまった。2、3言、美華子への言葉を続けようかと思った竜馬だったが、それをやめざるをえなかった。
しばらく歩くと、来る時に渡った川が見えた。川にかかる橋の前に、自動車が多数並んでいる。
「なんだろ…」
目を凝らしてみると、川にかかった橋に水がついているのが見えた。かなりの濁流になっている。
「なんであんなに水が?おっかしーな、降り始めたのは、ついさっきだろ?」
見間違いではないかと、竜馬が近寄り、確認する。だが、何度目を凝らしても、結果は同じだ。自動車は橋をなんとか渡っているが、人間が渡れる状態ではなかった。
「こっちの橋より、向こうの街道沿いの橋が大きいから、あっち行こう。あっちなら渡れるかも知れないから」
美華子が向かって左側を指さした。暗い中に、うすらぼんやりと、等間隔の明かりが見える。こちらより太い街道に架かっている橋の街灯だろう。
「無理だったら?」
「そのときはそのときでしょ。無駄な時間過ごすよりは、よっぽどいい」
美華子が街道の方へ足を向ける。堤防沿いの道は、まだ水がそれほど流れていない。街道までは約1キロメートル。それほど遠い距離ではないのだが、体が濡れて熱が奪われている竜馬にとって、この距離は長かった。手に持つ荷物が異様に重く感じられる。
「うぁ、寒みぃ…」
吹く風に、竜馬が体を震わせた。
「そりゃ、それだけ濡れてれば、寒いだろうね」
ぐい
竜馬の持つ2つの袋を、美華子が手に持ち、取り上げた。
「あ、いいんだよ、俺が…」
「無理でしょ。見てるこっちがつらいから。いいから、持たせて」
あたふたする竜馬に対して、美華子が声を尖らせた。
「ありがとう。確かに助かる…」
自分の手を見る竜馬。少しだけ触れた、美華子の手のぬくもりが、そこに残っている気がしていた。
「お礼なんていいよ。別に言われたいわけでもないし、そんなん似合わないよ」
美華子がふふっと笑う。竜馬はその優しさに、心の中が暖かくなった。
2人が川沿いを、ゆっくり歩く。川は茶色い濁流が流れ、かなり増水している。中州に生えていた大きな木も、この流れは堪えるようで、ぎしぎしと音を立てていた。こんな雨では、外を歩く人もいないようで、2人は誰ともすれ違わない。時折、横を自動車が通り過ぎる。
「なあ、美華子さん」
ふいに、竜馬が口を開いた。美華子が、何事かと、顔を竜馬に向ける。
「美華子さんにとっての恋愛って何?」
「…藪から棒に、何を?」
「単なる話題振りかな。自分でも、恋愛っていうものがよくわからないから、聞いてみたいっていうのがあって。あ、面倒なら、答えないでいいよ?」
怪訝な顔をする美華子。彼女に向かって、竜馬がにこりと笑った。
「別に面倒なわけじゃないけど…難しいね。話、長くなるよ。歩きながらする話でもないし…」
ブゥゥゥン
横を自動車が通り抜けた。自動車が立てる水しぶきを避けようと、竜馬が道から横に退いた。
ずるっ
「あ」
濡れた土が、竜馬の足を滑らせた。竜馬の体が滑る。運が悪かったのは、それが川側だったことだ。
「う、うわ!」
下半身が川に落ちたところで、竜馬が必死に土を掴んだ。生えていたススキに掴まるが、根がぶちぶちと音を立ててちぎれる。
「錦原!」
箱を投げ出し、美華子が竜馬の手を握った。だが、美華子の華奢な腕では、青年一人分の体重を支えることが出来ない。
ばしゃあ!
美華子は竜馬の手を掴んだまま、一緒に濁流に投げ出された。
「うぶっ、ぷぁ!み、美華子さん!」
必死に水面に昇る竜馬。運良く底に転がっていた岩に、足をかけた竜馬は、これ以上流されることを逃れることが出来た。美華子が暴れるかのごとく腕を振り、水を掻くが、浮き上がることは出来ない。力を込めて、竜馬が美華子の腕を握る。
「む、無理!離して!このまま、ぐふ、じゃ、一緒に流れる!」
竜馬の握る手を、美華子が振り払おうとする。苦しそうな彼女の顔に、竜馬は全身が総毛立つのを感じた。守らなければいけない。何があろうと、彼女を守らないといけない。よくわからない使命感が、竜馬を包み込んだ。
「大丈夫だって、任せろ!信じろ!」
美華子の言葉を、竜馬が強くうち消した。とは言え、竜馬はさっきから体が冷えていて、腕一本さえまともに動かすことが出来ない。冷たい水流が、まるで魔物か何かのように、2人に襲いかかる。
「いいから!げほっ、自分で、なんとかするから!」
美華子が叫んだ。その声を、竜馬はあえて無視した。彼女は最近、少し筋肉をつけるように、体を鍛えている。そのおかげか、前よりは身のこなしが軽くなっている。だが、こんな激流で、泳いでいけるとは到底思えない。
「ぐ、う!」
一歩、一歩、堤防を上る竜馬。今度こそ、土に足を取られ、転ばないように気を付ける。靴に入った水が、ぐちゃぐちゃと嫌な感触をしている。まるで、底なし沼にでも落ちたかのようだ。
ともすれば、東京湾まで流されて行きかねないこの状況で、竜馬はなぜか冷静になっていった。遠くにうすらぼんやりと見える明かりが、ますますぼやけて見える。頭では、体が限界を叫んでいるのを感じたが、それでもまだ腕や足を動かせる。体が痛みを感じない。
『中学の頃も、こんなんあったな…』
麻痺する頭で、竜馬がぼんやり考えた。彼の中学時代、剣道部だったころの話だ。ちょうどその日は、級友とふざけあっていた夏の日だった。そのとき、竹刀の数が足りなくなったので、飾ってあった木刀でチャンバラをすることになった。
もちろん、木刀は中が詰まった棍棒だし、殺傷能力もある。最初はお互いに軽く打ち合っていたのだが、そのうち2人とも本気になり、全力の攻防が始まった。一歩間違えば死に直結するその状況でも、竜馬と級友は遊んでいるような感覚が抜けなかった。だが、体はそこに隠れる「死」を顕著に感じ取り、筋肉疲労の痛覚や恐怖心を消してしまった。結局、2人は先生に止められるまで、それをやめなかった。
『あれ、か。つまり、今死ぬ寸前なんだな…』
妙に冷静な頭に、死の文字が浮かぶ。思い出されるのは、東京に来てからの楽しい日々。竜馬はそれを終わらせたくはなかった。
「にしき、はら…!」
美華子がぐったりと、水に対する抵抗をやめた。体が冷たい。竜馬が美華子の腕を左手でしっかり持ち、引き上げる。
「ぬ、う、ああ!」
がっ!
竜馬の右手が、岸を掴んだ。渾身の力を込め、竜馬が2人分の体重を引き上げる。ずるりと嫌な音がして、2人はようやく堤防の上に昇ることが出来た。
「くはっ、はっ、はっ」
美華子が飲み込んだ水を吐き出している。竜馬は天を仰ぎ、ばったりと大の字に倒れた。強い雨風が、2人を叩く。だんだんと、降る雨に霰が混じり始めた。雲の上は、相当寒いのだろう。
「しまった、傘、流されちゃったなあ…」
なんとか立ち上がった竜馬は、投げ出された2つのビニール袋をもう一度持ち上げた。口の中いっぱいに広がる泥の味が、吐き気を誘う。口を押さえた竜馬は、手に血がついていることに気が付いた。手の甲を、草の葉か何かで切ってしまったようだ。
「寒い…」
美華子が顔を拭う。竜馬が周りを見回すと、まだ水没していないところに、ポンプか水門の制御小屋らしい、コンクリートの小さな建物が見つかった。
「少し、休ませてもらおうよ」
竜馬が倒れている美華子に手を差し出した。恵理香が胸を押さえながら、竜馬の手を取り、立ち上がった。
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