全5部構成の4部目が終わったそのとき、竜馬の疲れは最高潮にまで達していた。大きな間違いもなく、大きな失敗もなかったが、小さな部分でのミスは竜馬を焦らせた。焦る竜馬とは逆に、島村は竜馬のことを賛辞した。島村は、竜馬がここまで演劇を出来るとは思ってもいなかった。
「休憩が10分か…はあ、逃げだしてぇ…」
 イスに座り、ため息をつく竜馬。何の気なしに携帯電話を見れば、LEDが点滅している。メールが来ているようだ。ディスプレイには、真優美・マスリと名前が浮かんでいた。
『竜馬くんが一生懸命なのを見せてもらいました
 かっこいいです!最後まで楽しみに見させてもらいます』
 メールを読んで、竜馬は安心した。どうやら真優美にも好感触のようだ。外をちらりと見ると、一番前の席に真優美が座っていた。
「真優美ちゃん問題はこれで解決だな…」
 イスを立つ竜馬。最終部の流れを読もうと、台本を手に取る。
「あ…」
 と、同じ台本に手を伸ばした恵理香と、手がぶつかってしまった。
「あ、恵理香さん。どうぞ?」
「い、いや。私はいいのだ。お互い、いい演技をしような」
 恵理香がそそくさとその場を離れる。どこか他人行儀を感じた竜馬だったが、それを言ってもどうにもならないと思い、台本を開いた。
「…ん?」
 台本に書いてある流れとしては、アクション、ラブシーン、そしてラストの証言台となっている。竜馬が違和感を感じたのはラブシーンのページ。そこには歯の浮くような台詞と共に、「デニス、モニカにキス」と書いてあった。
「あの…これって…キスって?」
 その場にいた湯似九郎に、竜馬が台本を見せる。
「ん?ああ、そうっすね。盛り上げるシーンっすから、真面目に頼むっす」
「いや、そうじゃなくて、キスってどうなんです?」
「よくある演出の1つっすよ。気にしないでほしいっす。ほら、出番出番」
 竜馬は袖に追いやられた。横にいる恵理香の顔は、少し赤い。シナリオは、捕まっているモニカを助けるために、デニスがボス格の敵と戦うシーンになっている。丁寧に縛られた恵理香は、ステージの真ん中のイスに座らされた。
『ただいまより、最終章を…』
 アナウンスが響く。竜馬の心臓がどきどきと鳴った。空気が重い、息が出来ない。まさかここで、恵理香とキスすることになるとは、竜馬は露ほども思わなかった。もし最初にそのことを知っていたら、竜馬はこの劇に出ることを拒否しただろうか?答えはイエスだ。恋愛関係を結ばない女性と、いたずらにキスなどするものではない。彼はそういった意味で、とても融通が効かない男だった。
「う…」
 ステージ上の恵理香と目が合う。彼女の目は、何かを訴えかけているようにも見えた。そのメッセージが何か、竜馬には理解することは出来なかったが。
 幕が上がった。竜馬はデニスになりきろうとしたが、今は無理だった。だが、どんな理由があっても、請け負った以上は仕事をしないといけない。
『まず、は…』
 竜馬は恵理香に駆け寄った。
「ひでえことしやがる…今助ける」
 縄をほどこうと手をかける竜馬。台本に書かれていたとおり、舞台袖を見て手を止めた。大口径のリボルバーガンを持った男が、ゆっくりと歩いてくる。彼が今回のボス役だ。彼に付けられた「ジャック」という名前は平凡だが、さすが演劇部に雇われているというべきか、放つオーラは一流の映画俳優のそれと変わりなかった。
「馬鹿な男だ。たかだか女1人のために、命を捨てるとは」
 ジャックが2人に銃を向けた。
「捨てるつもりなんざねえよ。こいつは返してもらおう。お前には過ぎた女だ」
「残念ながらそれはできんな」
 ボンッ!
「いぎ、あ!」
 ジャックの銃が火を噴いた。同時に、恵理香の肩口に穴が空き、血がだらだらと流れ始める。これは演劇部が独自に開発した小道具だ。まずは肩に耐熱パッドを貼る。その上から、少量の火薬と、粘性のあるインクの入った袋、そして電気的に発火させる信管をセットする。火薬は体には傷を与えないし、インクが染みて火は燃え広がらない。これでリアルな出血を再現したのだが、周りから見れば本当に肩口に何かを撃ち込まれたように見えた。
「あ、あ、あ…う、あ…くううう…」
 本当に痛そうな顔をする恵理香。彼女の目から涙がこぼれる。それを見て、竜馬の中にまたデニスの心が戻ってきた。憎い、目の前の男が憎い。
「てめえ…ぶっ殺してやる!」
「出来もしないことは言わない方がいい。その前に、聞かせてもらおうか。なぜそこまでその女に執着するんだ?」
 かちり
 ジャックが撃鉄を起こした。ここから長い台詞が続く。全てを覚えきれなかった竜馬は、カンニングペーパーを出そうと、ポケットに手を入れた。
『…あれ?』
 竜馬の手には、紙の感触が伝わってこない。カンニングペーパーを忘れた、ということに気づくまでに、そう時間はいらなかった。言うべき台詞がわからない。竜馬の胃に、嫌に重い何かがずしりと入り込んだ。
「わ、私のことなんか、いいから、逃げて…お願いだから…」
 恵理香が、かすれた声で言った。台本にはない台詞だ。彼女は近い分、竜馬がどうしてしまったかを的確に理解出来たのだろう。ジャック役の部員も、どうやら空気を理解したようで、アドリブで口を開いた。
「言うとおりだ。今逃げれば、命だけは…」
「そいつは無理な相談だな」
 ジャックの台詞を遮り、竜馬が語り始めた。彼の中にアドリブの台詞が次々と浮かび上がった。流れを止めるわけにはいかない。
「俺はダメな野郎さ。取り柄もない、力もない、何よりまともな心がない。自分を堕として、それを肴にウィスキーでも飲んでるのがお似合いの男さ」
 竜馬が足を開き、拳を握る。
「そんな俺を救おうとしてくれたこの子は、俺の天使だ。今なら言えるぜ。そうさ、世界は腐ってなんざいなかった。俺の腐った心根を優しく撫で、口づけをしてくれた彼女を、俺はもう愛するしかないのさ。ハレルヤってやつだ」
 ゆっくりと竜馬はジャックに近づいた。元の台本なんかどうでもいい。今のこの場は、彼のステージだ。愛する女を守ろうとする男、デニス・アンソニーのステージだ。
「面白い。素手でやろうじゃないか。野暮なものはしまおう」
 ハンドガンを腰のホルスターにしまい、拳を作るジャック。竜馬と相手の間に、台本という打ち合わせなどない。そして、100パーセント本物を意識しているこの演劇ならば、彼は本気で殴りかかってくるだろう。手には緩衝用の分厚い手袋をはめているとは言え、ここで負ければ後がない。
「おらぁ!」
 ドスッ!
 ジャックが右ストレートを打ち込んだ。考える暇もない。竜馬の腹に、拳が強く食い込む。
「どうした?そんなことでは…」
 はっ、とジャックが気づいた。竜馬の腹から拳を抜こうにも、竜馬はその手を掴み、離さない。
「ぐっ…!」
 次こそはと、左手に拳を握る。それを竜馬が、空いている手で受け止めた。ジャックの両手を、竜馬の両手が掴んでいる状態だ。引き離そうにも引き離せない。
「こいつで、終わりだ!」
 竜馬は上半身を、ぐいと後ろに引き、真っ直ぐに叩きつけた。
 ゴスッ!
「がぁ!」
 頭と頭がぶつかった。鈍い音と小さなうめき声が響き、ジャックが膝を折る。その腹めがけて、竜馬が足裏で蹴りを入れた。体が、マネキン人形か何かのように転がり、ジャックは動かなくなった。
『確か腹には雑誌入ってんだよな…大丈夫、かな…』
 荒く息をつき、竜馬はぼんやりと考えた。そして、次にすることを思い出した。
「大丈夫か、モニカ…」
 恵理香の縄をほどく竜馬。ほどきやすいように結んであるそれは、簡単に外れた。
「デニス…」
「モニカ。俺のせいだ。こんなくだらないことに巻き込んですまなかった…」
 竜馬が恵理香をぎゅっと抱いた。竜馬がちらりとステージに目をやる。彼の目の端に、真優美が見えた。
『キスシーンなんて見せたら、また真優美ちゃんが怒るなあ…どうしよう…』
 竜馬は迷った。しなければしないで、物語を進めることも可能だ。内容を忘れていたと言えば、周りも納得はするだろうし、とがめられることもないだろう。しかし、彼の中に住む悪魔は、しきりに「しちまえよ」と囁いていた。目の前にいる少女の顔は美しく、アリサと同様にファンクラブが作られてもおかしくはない。
『だ、だめだ!ここは話の流れを上手く調節して…』
 竜馬は軽く首を振り、唾を飲み込んだ。美華子を離してそっと遠のいたが、美華子は竜馬にまた近づいて、抱きつきなおした。
「ありがとう…怖かった。あなたが来てくれて本当によかった」
「ああ。今すぐここから…」
「待って。私、あなたが好き。あなたはどうなの?私のこと、好き?」
 恵理香の目が竜馬をじっと見る。竜馬はしばらく迷って、頷いた。
「生きていてよかった。なんて暖かいんでしょう。ほら…」
 両手で竜馬の顔を持つ恵理香。目を閉じ、そっと唇を唇に近づける。一瞬竜馬は、顔を覆う真優美を見た気がした。唇同士が触れ、恵理香の熱が竜馬に伝わる。
 なんとも言えない幸福感。体に電気が走る。口と口をあわせたディープキスをするのは初めてだった。
『ああ…俺、恵理香さんとキスしてる…』
 目を閉じ、恵理香の背中に手を回した、そのときだった。
「待ちなさい!」
 ガッ!
 ステージに誰かが転がりこんだ。黒いレザースーツを着て、レザーコートを着たその人物は、くるりと前転した後に瞬時に立ち上がり、ファイティングポーズを取った。ふさふさの犬尻尾、長い金髪、尖っていて先だけ黒い耳…
「あー、お前は!」
 恵理香が竜馬から離れ、アリサを指さした。
「そうよ、モニカ。デニスは私の男、手なんか出させないわ。かかってきなさい!」
 ちょいちょい、と手を振るアリサ。恵理香が竜馬から離れ、アリサに向き直る。あまりの展開に、観客は置いて行かれてしまったようで、私語が増え始めた。
「あなたも麻薬が欲しいの?彼は私が連れていくわ。手出しはさせない!」
「バカおっしゃいなさい、そいつと私が結ばれることは、運命として決まっているのよ!」
 2人が対峙している。このままではやばい、話が終わらない、と竜馬は思った。しかし、何か対策を考える間もなく、アリサが殴りかかり、恵理香が蹴りに入った。
「2人とも、やめ…」
 竜馬が瞬間的に2人の間に割って入る。が、熱くなった2人がそれで止まるはずもない。
 ドスゥ!
 竜馬はパンチとキックを受け、意識が吹っ飛んだ。最後の最後に彼が考えていたのは「やべえ、もう一度恵理香さんとキスしたいなあ…」という、不純な思いだった。


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