『ただいまより…』
 体育館の中にアナウンスが流れた。そろそろ劇が始まる。竜馬は舞台の袖に立ち、もう一度カンニングペーパーを見た。髪がワックスで固められ、自分の髪でないような感覚に陥る。横にいる恵理香は場慣れしたもので、ポケットから出した櫛で尻尾の手入れをしていた。
「あの…」
 竜馬が恵理香に話しかけようとしたそのとき、幕が上がった。すぐに竜馬が出ないといけない。竜馬は慌てて舞台へ出た。
「あ…」
 急に心臓が早鐘を打ち始めた。観客はゆうに100人は越えている。用意されたイスが全て埋まり、後ろには立ち見の客までいる。その全ての視線が、竜馬に注がれていた。次の行動がわからない。ぱっと後ろを見た竜馬は、そこのセットが出来上がっていることに気が付いた。壊れたベッド、倒れそうな本棚、イス、机、チェストの上にはトランクとハンドガン。やるべきことを思い出した竜馬は、イスに座った。
「ふう…」
 息を付く。次の行動は、確かポケットにあった札束をテーブルに投げ出す、だったはずだ。案の定、彼のポケットには新聞紙のような札束が入っていた。1つ、2つとテーブルに向かって乱暴に投げる。
「金、か。汚れてやがる。くそったれ…」
 竜馬は顔を押さえた。今この瞬間、彼は「デニス・アンソニー」だった。手に貼り付けてあったカンニングペーパーで、次の台詞を知った竜馬は、ゆっくりと立ち上がった。
「汚れているものは腐敗する。腐敗したものにはウジが集る。俺もウジか。蠅になる前に、踏みつぶされて死ぬような…ちくしょう!」
 ドスッ!
 机が蹴り飛ばされて倒れた。上に置いてあった新聞や札束が落ちた。声のイントネーションには気を使う。はっきりした物言いでないと人には伝わらないし、大きな声でないと後ろまで届かない。発声法も学んでいない竜馬にとって、これはあまりいい状況ではなかった。
『つ、次はどうするんだっけ…いかん、忘れた…』
 竜馬はカンニングペーパーをちらりと見た。扉を叩く音で銃を持つ、とある。
 トントン
 乾いた音が鳴った。竜馬はチェストの上の銃を手に取った。ずっしりと重いモデルガン、小学生のころに友人の兄が持っていてうらやましかったのを覚えている。
「誰だ?」
 竜馬は銃を持ったまま、袖の方を向いた。
 ガチャ
 ドアの開く音と共に、恵理香が舞台へと入ってきた。
「女か…出ていってくれ。間に合ってる」
「あなたを救いに来たの」
「間に合ってると言ってる。脳味噌をぶちまけたいか?」
 竜馬が恵理香の顔に銃を向けた。
 場所変わって、袖から2人を見つめるのは、島村だ。その横には、ダークスーツ姿の、敵役の生徒が数人立っている。デニスとモニカの会話が終わり次第、この生徒達は敵として、舞台になだれ込む算段になっていた。今回、殴り合いに綿密な打ち合わせが出来なかったため、ほぼアドリブになるだろう。
「あああ〜、不安だ、俺が言うのもなんだが不安だ…」
 島村が小さな声でつぶやいた。今回は、あまりにも急ごしらえすぎた。主役が2人とも大けがをするとは、誰も予想出来なかっただろう。片方だけならばなんとかなっただろうが、今回は2人とも初見の人間だ。どんなアクシデントが発生するかわかったものではない。
「部長が不安がってどうするんすか。島村さんは島村さんでやれるだけのことをやればいいっすよ」
 後ろから湯似九郎が声をかけた。彼はフランクな格好に着替えている。島村と湯似九郎は、コンビで刑事役をやることになっていた。
「そうだな…何も起きないといいが…」
 横にいた敵役が一気にステージになだれ込み、島村は目を向けた。竜馬と恵理香が、次々に襲いかかる敵を倒す。とは言うものの、竜馬の体さばきは、アクション映画のような格好のいいものではなく、まるでちんぴらがケンカをしているような拙いものだ。対する恵理香は、演劇での戦いというものが身に付いているらしく、拳一発、蹴り一発にしても倒れやすくてダメージが少ないようになっている。
「まだ大丈夫だ。これなら…」
 げしぃっ!
 後ろからの蹴りを受け、竜馬は倒れてしまった。元の役者ならば簡単に避けられただろうが、彼にはそうもいかなかったようだ。
「…だめだ、こりゃ。やはり映研に勝つことは出来ないか…」
 島村はがっくりと膝をついた。


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