「うわ、もう6時か。ここがアリサのいる会社だな…」
 竜馬は時計を見て、一人つぶやいた。目の前に建つ大きなビル。駅からバスに乗り十数分、降りたバス停から迷いながらもたどり着いた、今日の目的地だ。夕日に輝くビルの中では、今もまだ忙しそうに人々が歩き回っている。
 修平や真優美など、他の友人も連れてこようかと最初は思っていたが、結局は1人で来ていた。1人の方が、アリサを説得しやすいだろうし、複数人が1つの方向に話を流そうとすると、アリサが気づいてしまう危険がある。
 中に入り、受付の前へ歩いていく。学校帰りにすぐに来たので、竜馬は学生服のままだ。Yシャツにネクタイ、そして学生ズボン。背負っている学校指定のカバンが、会社の雰囲気とミスマッチになっている。
「本日はどういったご用件でしょうか」
 受付嬢が微妙な微笑みを浮かべている。学生服の相手に接するのは慣れていないようだ。
「すみません、こちらにアリサ・シュリ…」
「竜馬ー!」
 がしっ!
「んがあ!」
 竜馬は背中に強烈なアタックを受け、思わず叫んだ。後ろからタックルをしてきたのがアリサであることは、火を見るより明らかだ。
「来てくれたんだ。ありがと〜」
 アリサが竜馬に抱きつき、頬をすりすりとこすりつける。
「す、すいません、解決しました」
 受付嬢に竜馬が頭を下げる。そして、ロビーのイスにアリサを引きずるように連れていくと、アリサを乱暴に引き剥がした。
「竜馬、汗かいてるのね。暑い中、私にあいに来てくれたのね。ああ、嬉しい」
 よほど嬉しいようだ。尻尾をぱったぱったと振っているアリサは、とてもご機嫌に見えた。
「そんなんじゃねえよ。ちょっと、どんな会社だったのか興味が湧いただけだ」
 Yシャツの首筋をつかみ、ぱたぱたと中に風を入れる竜馬。ただでさえ残暑が厳しいのに、アリサのような毛物に抱きつかれ、余計に汗が吹き出てしまった。
「株式会社ニシダって、聞いたことあるでしょ?」
「ん、一応。LSIとか作ってる会社なんだろ?」
「うん。大企業から下請けしてる会社なのよ。工場は千葉の方にあって、そっちには1000人くらいの技術者が…」
 アリサが得意げに話し始めた。研修で知ったのか予習でもしていたのかは知らないが、とても詳しい知識だ。もしアリサに、株式会社ニシダのパンフレットを書けと言ったら、彼女は容易に作ってしまうことだろう。だがあいにく、竜馬は本気でこの会社に興味を持っていたわけではなかったので、途中から眠気を感じ始めた。
「そう言えば、お前が電話で言ってた男って、どんなやつだったの?今いる?」
 アリサの話を途中で切る竜馬。ロビーを見渡しても、それらしい影は見えない。
「ああ、私だけ先に出てきたのよ。出来るだけ一緒にいたく…」
 アリサがエレベーターの方を向いて固まった。スーツを着た、猫系の獣人の男が、エレベーターから降りてきた。優雅に歩いていた彼だが、アリサの姿を見つけ、近寄ってきた。
「アリサさん、ここだったのか。これから、食事でもどうだい?奢ろうじゃないか」
 彼は竜馬など眼中にないように、アリサに話しかけた。あるいは、2人は無関係だと思ったのかも知れない。アリサは竜馬の腕に抱きつき、にやりと笑う。
「紹介するわ。私の彼氏の、錦原竜馬よ」
 獣人男の目線が竜馬を見る。
「挨拶が遅れて失礼。僕は西田祐太朗。アリサさんの、未来の夫となる者です」
 嫌味を言うような印象でも、ケンカを売るような印象でもなく、祐太朗は当然のことのように言い放った。
「ああ…俺は錦原竜馬、です。よろしく。後、彼氏ってのは、こいつの嘘なんで」
 あえてそこにはつっこみを入れず、竜馬が手を差し出した。祐太朗がそれを握り、強く握手をする。
「竜馬ったら照れちゃって…」
 すりすりすりすり
 アリサが頬をすりつける。祐太朗の目線が竜馬に注がれた。彼の表情や態度は普通だったが、強い嫉妬が見え隠れしていた。
「西田君、せっかくだけどお食事のお誘いは遠慮するわ〜。竜馬と2人で行きたいのよ〜。久々にあえたから、嬉しくって」
 アリサは「2人で」というところを強調して言った。彼女の顔はにやついている。きっと脳内では、いい具合に花が咲いているに違いない。
「お前なー、せっかく誘ってくれた人の好意を無駄にするなよ」
「えー?でも、竜馬と2人だけで行きたいのよぅ」
「ダメだよ。行くとしたら、西田さんも一緒に、だろ?」
 アリサがぷうと膨れてそっぽを向く。彼女を放置して、竜馬は祐太朗の方へ向き直った。
「一緒に行きましょう。おごりとか、そういうのなしで」
 竜馬がそう言うと、祐太朗は敵意のない、しかし嫉妬のこもっている顔で、竜馬に微笑みかけた。
「ありがとう。では、ご一緒しようか」


 アリサが2人を連れてきたステーキハウスは混んでいた。夕食時というのもあるだろうが、どうもそれだけではないようだ。ぱっと見た感じでは、店内は広く清潔、メニューは全般的に安く、品揃えもいい。加えて、ライス無料や、いくら以上食事の客に限りドリンクスープバー半額など、サービスも充実している。ステーキハウスというよりは、ファミリーレストランと言った装いだ。竜馬が座ると、その横にアリサが座り、向かい側に祐太朗が座った。彼はやはり、竜馬に少し嫉妬しているように見えた。
 辺りをそれとなく見回してみれば、東京とはまた違った客層の人々が食事をしている。東京には獣人、爬虫人がそれなりに多かったが、埼玉ともなるとそれほどでもないようだ。地球が連盟に加盟してから、まだ20年弱。アメリカと交易を開始した江戸時代の日本も、外国人はそれほどいなかったであろうことを考えれば、地球人ばかり目に付くのも頷ける。もっとも、地球の対応が早いおかげか、ハーフや2世まで既に産まれてはいる。差別などはなりを潜めているが、地下に行けばいくほど、地方に行けばいくほど、彼らが奇異の目で見られることは否めない。
「さて、何にしようか」
 祐太朗がメニューを開いた。色とりどりの食品画像が3人を出迎える。普段は食に関してそれほど飢えていないアリサも、今日だけは真優美のようにわくわくしているようだ。
「えー、と…」
 竜馬はメニューを一通り流し見した。リーズナブルなメニューの中から、目星をつける。
「俺決まった。2人は?」
 竜馬が順繰りにアリサと祐太朗の顔を見る。
「決まったよ」
「うん、大丈夫」
 2人がほぼ同時に答えた。竜馬が店員を呼ぶボタンを押すと、30秒と待たずにウェイトレスが来た。注文書を取り出し、一人一人の注文を取ったウェイトレスは、一礼をして戻っていった。
「あ、ちょっとおトイレ。ごめんね〜」
 アリサが席を立った。彼女が行ってしまうと、後には竜馬と祐太朗だけが残された。初対面で、共通の趣味や話題すらもないであろう相手に、竜馬はどう接したらいいものか考えあぐねていた。どうにかして、彼とアリサをくっつけなければならない。この後、こんなチャンスがあるかどうか、少々疑わしい。とりあえずとして、彼との連絡手段くらいは入手しなければいけないだろうか。
「どこまで知ってるんだい?」
 祐太朗が脈絡のない一言を口にした。
「え?何を?」
「君は彼女の彼氏なんだろう?ならば、僕の言っている意味もわかるとは思うんだが…そう、例えば家柄とか」
 祐太朗に言われ、竜馬はぼんやりと思い出した。アリサの家は大きかったことを。そして彼女がかなりの金持ちだったということも。そうでなければ、数話前のように、いきなりぽんと大金を貸してはくれない。
「そういや、アリサって金持ちだったな。親父さんがすごいとかなんとか。家柄って、貴族とか?」
 竜馬が何気なく言うと、祐太朗は少し驚いたようだった。
「ん…僕が見るに、君は彼女を少々邪険に扱ってるようだ。金目当てで彼女と付き合ってるというのならば、彼女があまりにも哀れだよ。そう、彼女には僕のような男が似合うというのに」
 立て板に水を流すように祐太朗が捲し立てた。
「金目当てもなにも、俺、アリサと付き合ってないんだぜ?」
「…どういうことだい?」
「えーとだな…」
 どこから話していいものか、竜馬は迷ってしまった。もし「自分はアリサと付き合う気はなくて、他の女の子との恋愛ライフを得るために、彼女を押しつけにきた」と言えば、祐太朗は怒るだろう。彼は見た目からして潔癖だろうし、自分の好きなものに価値がないと言われれば切れるタイプだとも思える。かといって、アリサと自分が付き合っているという設定が鵜呑みにされれば、それこそ行く末がない。
「実は、さ。俺、アリサと恋人関係でもなんでもないんだよ。一方的にあいつに好かれてるだけで、俺は友達以上のことをあいつに求めるつもりはないんだ」
 コップの水を一口飲む。ここでこけるわけにはいかない。緊張で口の中がからからだ。
「うーん…だけれど、昨日彼女は言っていたよ。恋人の錦原君が、自分にあえないで少々寂しそうだったと。嘘をついたというのかい?」
 祐太朗は腑に落ちないようで、悩みこんでしまった。
「あながち嘘でもないけど、さ。どういえばいいか…確かに少し寂しい感じはしたんだけど、恋愛抜きだと思うんだよ。俺はアリサを好きになれないんだ」
「どうしてだい?あんなに魅力的な女の子、そういるわけじゃないのに」
「子供のころ、あいつといたとき、いじめられてたんだよな…例えば…」
 竜馬は訥々と話した。犬をけしかけられた話。チーズちくわに芥子が入れられていた話。いやらしい本を押しつけられた話。極めつけに、好きだと言わないと用水路に裸で投げ込むと言われ、本当に投げ込まれた話…
「…嘘だろうね。君はそんなにアリサさんのことが憎いのか?」
 何も言わずに聞いていた祐太朗だったが、話が終わると同時に口を開いた。彼は竜馬の話を嘘だと決めてかかっている。
「嘘じゃないって。嘘だと思うなら、本人に聞いてみ?」
「そうか…じゃあ、本人に問いただすことにしよう。それで、君の目的はなんなんだ?」
 祐太朗の眼光が鋭くなった。彼が竜馬に敵意を持っているのは明らかだ。
「個人的には、君にアリサと付き合ってほしいんだよな。それでそのまま、2人幸せになってほしい」
 竜馬は目を逸らした。見ていられない。そのまま噛みつかれそうな気がする。
「何でだい?君が嫌いな女相手ならば、そんな気遣いも必要ないのではないかい?」
 どうも彼には理解出来ないらしい。祐太朗が首を傾げて、コップに口をつけた。
「うーん…嫌い、だな。うん、嫌いだ」
 竜馬ははっきりと言い切った。ここで自分の手元をしっかり見せておかなければ、祐太朗は何かしらの誤解を抱いたまま竜馬を見ることになるだろう。
「ただ、まあ。思われて恋仲になる幸せが、あいつには必要なんじゃないかなと思うんだ。お節介だろうけどさ。俺は無理だから。ほら、さっき言ったような理由で」
 一瞬、2人とも黙り込んだ。空気が淀んだのが感じられる。
「思われて…か。確かに僕は、彼女をこの上なく思ってしまっている。心が悲鳴を挙げ続けているんだ。少しでも多く話したい、触れたいと思うよ。うん、そうだね…」
 一言一言、言葉を口に出すたびに、祐太朗は自分の世界へと入っていった。
「よし、ちょうどいいな。これで俺と君の利害関係は一致した。とりあえず、君とアリサの仲を俺がなんとか取り持つから…ん?」
 祐太朗の目線が、竜馬の肩越しに、明後日の方向を向いている。目線をゆっくりと辿ると、その先にはアリサが立っていた。彼女は無表情で、何も言わずに、竜馬を見つめていた。
「あ…アリサ。お、おかえり」
 竜馬がぎこちなく笑った。
「戻ってたのか。ほ、ほら、座れよ。もうすぐ…」
 竜馬の胃に、重い物がずんと入り込んだ。もし今の会話をアリサに聞かれていないのならば、まだ可能性はある。もし聞かれていたら、噛みつかれて殴られて引っかかれて、竜馬がステーキのように食べられてしまうかも知れない。アリサの無反応が、ますます竜馬の恐怖を増長させた。
「あ、アリサ?」
 竜馬が立ち上がり、アリサの前にそろりそろりと近寄った。
「どうしたんだよ、なんか…」
 ぱぁん!
 なんか変だぞ、と言おうとした竜馬は、頬に衝撃と痛みを感じて転びそうになった。アリサの平手が竜馬の頬を叩いていた。
「何すんだよ!」
 竜馬は怒りより驚きが先立ち、思わず大声を出した。アリサの顔が、スローモーションビデオのように、少しずつ歪む。瞬きをするたびに、涙がこぼれ、頬の毛に染み込んでいく。
 いつもは強気で、こういう場面になったらまっさきに噛みつく彼女が、泣いている。それに気づいたとき、竜馬の胃の重さは、最高潮へと達した。
「竜馬、そんなに私が嫌いだったんだね…」
 アリサが涙声でつぶやいた。半分は竜馬に、そして半分は自分に言い聞かせている。
「いや、その…」
「私には竜馬しかいないのに…好きなのに…私、竜馬と一緒にいたいのに…う…ううう…」
 アリサが目を擦った。涙が後から後からあふれ出る。
「お、おい、泣くなよ。アリサ?」
 アリサの肩に竜馬の手が乗った。
 ぱしっ!
 アリサがその手を払いのけた。まるで、汚い物でも払いのけるかのように。
「アリサさん、彼も彼なりにあなたのことを考えて…」
「違う!竜馬が考えてるのは自分のことだけよ!」
 フォローを入れようとした祐太朗に、アリサが強く言い放った。
「もう嫌い!竜馬なんか嫌い!大嫌いなんだから!もうやだ!やだぁ!うわぁぁああん!」
 激しく泣くアリサは、店の外へと走って行った。後には、呆然とする竜馬と祐太朗が残された。
「アリサ…」
 竜馬は焦っていた。今まで、アリサがあんな態度を見せたことはない。大抵、怒って噛みつくか、「恥ずかしがらないでいいのよ?」などと言いながら自己中心的な理論を展開するか、膨れて何も言わなくなるかだった。だから、というわけでもないが、竜馬もかなり強く言うことが出来たし、それで交友関係が成り立っているところもあった。思い返せば思い返すほど、自己嫌悪が石のようにのしかかる。
『結局俺は…アリサを傷つけるだけで終わるんだろうか…』
 春からのことを、竜馬は思い返していた。再会したときのこと。下着泥棒を捕まえるために学校に進入したこと。花見をしたこと。機械研究部と戦ったときのこと。風邪のとき、看病してくれたこと。温泉に行ったとき、男湯に入ってきたこと。一日彼氏になったこと。青い猫を探したこと。そして、一昨日、寂しそうな声で彼女が電話を切ったこと…
『ああ…そうか』
 竜馬は気が付いた。この半年の間に、自分はいつの間にか、アリサを愛していたのだと。それに気づかなかった自分は、愚かな男だったと。
「この辺りの土地勘は僕の方がある。見つかったら連絡しよう」
 祐太朗の言葉で、竜馬は現実に引き戻された。アリサを探しに行かないといけない。
「わかった。とりあえず、これが俺のアドレスだから」
 竜馬はアドレスの書かれた紙を祐太朗に手渡した。そして店員に事情を話し、謝罪をしてから、店を飛び出した。どこにいるともわからない、わがままで、怒りやすくて、思いこみが激しくて…
 そして…とてもかわいい犬娘を捜すために。


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