埼玉の街は広かった。あちらにも、こちらにも、探さなければいけない場所が見える。通り過ぎる人に獣人を見ることはあったが、それはアリサではない。あの、先だけ黒い耳も、美しいブロンドも、どこにも見ることは出来ない。
「はぁ、はぁ…」
 走り疲れて、竜馬は道ばたにへたり込んだ。心臓が悲鳴を挙げている。中学生のころ、剣道を部活動でやっていたときは、こんなこともなかった。今はもうそんな体力がなくなっている。
「ちくしょう…アリサ、どこだよ…」
 竜馬はまたふらふらと歩き始めた。今にも転びそうなその足取りは、まるで酒でも飲んだかのようだ。
「どこだよ…謝るよ…帰ってこいよ…」
 竜馬の目は、人を見ていなかった。アリサだけを探していた。尻尾を見ればそちらへ目をやった。犬耳を見ればそちらへ振り向いた。彼女の姿はどこにも見えない。
「なんでもしてやるよ…お前の好きなこと…だから、帰ってこいよ…ああ、くそっ…」
 何度も人にぶつかった。何度も転びそうになった。歩き慣れない街のアスファルトは、竜馬に優しくしてはくれなかった。
「ちくしょう…」
 竜馬はとうとう立ち止まった。空が暗くなり、街は夜に包まれている。街は明るく、闇は存在しないはずなのに、竜馬は暗くなっていく恐怖を覚えた。暗くなり、世界が見えなくなるような恐怖を。今にも泣きそうな顔で、竜馬はビルの壁に手をついた。
 ブブブブブ
 ポケットの携帯電話が震えている。祐太朗がアリサを見つけたのかも知れない。携帯電話を出すと、サブディスプレイに、名前が浮かび上がっていた。アリサ・シュリマナ。
「もしもし!」
 竜馬は電話を取った。風の音が通話口から鳴っている。アリサは何も言わない。
「おい、帰ってこいよ!お前、どこにいるんだ?話がしたいんだ!」
 泣きそうな声で、竜馬が叫んだ。今ここで電話を切られてしまえば、アリサとつながる糸はもうないかも知れない。彼は必死だった。
『…今、マルヨキビルの屋上にいるわ』
 ブツッ
 アリサはそれだけ言って電話を切った。ツーツーツーと、通話が切れた音が響く。電気が走ったかのような速度で周りを見回し、マルキヨと看板がかかったビルを見つけた竜馬は、わき目もふらず駈けだした。
 肺が何度も酸素を吸い込む。足が少しでも速くと前へ出る。ビルの扉に入り、エレベーターの前に来るも、エレベーターは6階や8階あたりをうろうろしている。待ちきれなくなった竜馬は、階段を昇り始めた。
「はぁ、はぁ、はぁ、ぐうう…」
 途中、足が止まりそうになるが、苦しさを我慢して昇り続ける。
『最後にこれだけハードに走り回ったのはいつだったっけ…』
 記憶を読み返している暇などない。竜馬はとうとう屋上への扉を見つけた。外に出る竜馬の目に入ったのは、空調のダクトの群と、落下防止用のフェンスにもたれかかっているアリサの姿だった。
「アリサ!」
 竜馬はアリサに駆け寄った。アリサは何も言わず、また泣き出しそうな顔で、竜馬のことを見つめていた。
「何を話したいの?」
 アリサが冷たい声で言った。竜馬が、彼女と1メートルほど開けて停止した。
「謝りたいんだ…その…いろいろとさ。それで、言いたいことがあるんだ…」
「謝りたい…?」
 竜馬の言葉に、アリサの顔が一瞬で歪む。
「嘘つかないで。嫌いなんでしょ?私が。嫌いで嫌いでたまらなくて、他の男に押しつけるくらいなんでしょ!?私の気持ちなんか…」
「違う!」
 アリサが捲し立てる言葉を、竜馬が強く切り裂いた。アリサが威圧されて黙り込む。
「俺、アリサに色々言ったよな。その、うっとおしいとか、自己中だとか…嫌いだとか…」
 竜馬は、言葉にならない思いを必死に言葉に起こしながら、話し始めた。
「勘違いしてたって言うか、なんつか…その、さ。俺から見たアリサは、さっき言った部分が大きく見えた。でもさ、それってさ、要するに、甘えじゃないかなって。修平も言ってたんだ。アリサがこんなに俺にいろいろするのは、俺に甘えてるからだって」
 体が分離したような感覚が竜馬を包む。必死に物を言う自分の横に、冷静に自分を見つめる自分がいた。
「そのさ、忘れてたんだ。いつまでも拒絶することが、どれだけアリサを傷つけているか、ってこと。アリサだって、女の子なんだって…」
「それで?」
 アリサの目は凍り付いたままだ。怒りという感情すら見取ることは出来ない。
「それで…さ。あの、聞きたいことがあってさ…いいか?」
 アリサを見つめる竜馬。アリサは黙り込んだまま、首を縦に振った。
「今まで俺が言ったこと、改善しようと、アリサは頑張ってくれてたんだよな…?」
 緊張が竜馬を突き刺している。動くどころか、息をすることすらかなわない。空気がゼリーのように固まって、竜馬はそれを吸い込むことが出来ない。
「当然じゃない。努力しなかったとでも思ってるの?」
「ああ、そっか…うん、わかった…」
 竜馬は一歩、また一歩とアリサに近づいた。アリサの目の前、息がかかる近さにまで歩み寄ると、そこで立ち止まった。
「アリサが、頑張ってくれたんなら、それでいいんだ。えーと…俺をそこまで好いてくれる心が大事ってか…今まで気づいてあげられなくてごめん。本当にすまなかった」
 竜馬が頭を下げ、謝罪した。言葉は出し惜しみするものではないことを、竜馬は知っていた。謝るときには謝らないと、相手に心は伝わらない。そして…
「もしアリサさえよければ…その…俺と…」
「俺と、なに?」
「俺と、付き合ってくれないか」
 そして、愛は言わないと相手に伝わらないということを、竜馬は知っていた。
「嘘ばっかり。ほんとは私のこと、好きでもなんでもないくせに。同情なんかいらない…」
 ぎゅっ
 竜馬の腕が、アリサを抱いた。
「いや…そんなことない。好きだよ。大好きだ」
 ビルの屋上を風が通り抜けた。アリサのスカートが、風にたなびいた。
「ほんと、無駄な言葉なんか、いらないんだ。好きだよ」
 竜馬がアリサの耳にささやくと、アリサの毛が一瞬で逆立った。だんだんとそれが収まり始めたとき、アリサはにっこり微笑んでいた。
「うん…私も竜馬が好き。それでいいんだよね」
「うん、いいんだ。なんだかあっけないな、簡単だったよな」
「うん。あははは、簡単すぎて、笑いが止まらないね。あっという間だったよね」
「そうだな。はは、ははは」
 2人は笑った。怒っていたことも忘れ、焦っていたことも忘れ、大声で笑った。暑いことも忘れ、汗だくなことも忘れ、腹を抱えて笑い続けた。
「あー、と。お取り込み中悪いんだが…」
 人の声がして、竜馬は後ろを向いた。スーツ姿の獣人男性が立っている。体格がいいその男性は、微妙な表情で2人を交互に見た。
「あ…お父さん。竜馬、紹介するね。この人が私のお父さん、カイオヤ・シュリマナ」
 アリサがカイオヤの隣に立ち、竜馬に紹介をした。竜馬が反射的に頭を下げる。
「見ていて恥ずかしかったな。迎えに来てくれと言っていたのに、場所がわからないから、携帯のGPSを使ったのだが…まさかこんなことをしているとは思いもしなかったよ」
 疲れた顔でカイオヤが言った。父親にしてみれば、愛する娘を他の男に取られると言う場面は、あまり嬉しいものではなかっただろう。
「あの、カイオヤさん…」
「竜馬君だったか。何も言わないでもいいよ。私は帰ろう。アリサを送ってあげてくれないかな。私はもう行くこととするよ」
 カイオヤは竜馬に何も言わせず、背を向けてその場を去った。竜馬は彼の背を見て、アリサをしっかり愛することが、彼に対する慰めになることを知った。
「ん…じゃあ、行こ?西田君には私がメールしておくから、このまま帰っちゃお」
 アリサが尻尾をふりふり歩き出した。後ろに竜馬が続く。本当は並んで歩きたいし、腕だって組みたい竜馬だが、、ひとかけらの気恥ずかしさがそれをさせなかった。
「たった1時間くらいで、なにもかも変わったなあ…」
 そうつぶやいた竜馬が何かを蹴飛ばした。拾い上げると、それは誰のものかわからない、小さな手帳だった。ページの間からはらりと紙が落ちる。
「あ、と」
 紙が挟んであったページを探す竜馬。ページをめくると、アリサの筆跡で文字が書き込んである。どうやら彼女の手帳のようだ。紙が挟んであったページは、新しい方のページらしい。最新のスケジュールを何気なく見た竜馬は、体の芯が凍り付くのを感じた。
 そこには、計画が書かれていた。竜馬に自発的にアリサを好きだと言わせるための計画が。綿密に練り混まれたそれは、パターンが10通り以上作られている。その中の1つに、今のパターンがあった。泣きながら逃げるときっと追いかけてくる、どこかで待つ、父にメールを送って既成事実を作る…
『そうだった…アリサはこういうことを、俺相手には平気でする女だった!』
 竜馬の目の前が真っ暗になった。かろうじて気絶寸前で意識がつながったが、血の巡りが悪いことが自覚できた。目も耳も申し訳程度にしか聞こえない。いっそ、気絶した方が、余計なことを考えずに済んだかも知れない。
「あ、あ、ああ…」
 言葉にならない声を漏らす竜馬。自分が立っているのかも座っているのかもわからない。ずるずると引きずられている気もすれば、階段を下りたり昇ったりしている気もする。どこか遠くで「大丈夫?」と聞こえた気もするが定かではない。 
『そんな、そんな…』
 アリサに愛を囁いた自分が、まるでピエロのように思い出された。アリサの言った「簡単すぎて笑いが止まらないね」という台詞が、悪魔の声となって蘇った。怒りとも恐怖ともつかぬ感情が竜馬を支配する。そう、全てはアリサの策略。竜馬を彼氏にするための、アリサの奸計…
 竜馬は騙されていたのだ。
「アリサ、てめええ、騙しやがったなあああ!」
 竜馬は大声で叫んだ。と、周りの風景が一転していることに気が付く。どこか屋内のイスに座らされている。品のいい絨毯、やけに大きいベッド、テレビとチェストがあり、チェストの上には電話機が置いてあった。
「どこだよ、ここ!」
 竜馬は室内を見渡した。ホテルのようだ。アリサがバスルームらしきドアを開けて出てきた。手にブラシが握られている。
「気づいた?竜馬、いきなり抜け殻みたいになっちゃうんだもの。びっくりしたよ?」
「アリサ、てめえ!よくもぬけぬけと!手帳は読ませてもらったぞ!」
 竜馬が手帳を手に、憤怒の形相でアリサに詰め寄った。
「あ〜ら、読んじゃったのね。くふふ、竜馬、ごめんね。でも竜馬も私を西田君とくっつけようとしたんですもの。おあいこよ」
 アリサが竜馬の鼻をぷにゅりと押した。そして、いとおしそうに竜馬に抱きつき、背中を撫でる。
「もう無しだ、無し!こんなんありえねえよ!さっきのは無しだ!バカ女!」
 竜馬がアリサを強引にふりほどいた。時間を見ようとして携帯電話を出すと、6件ものメールが入っていた。内容を読んで、竜馬はさらに青くなった。
『From真優美:しんじてたのに りょまくんなんか嫌いです さよなら しんじゃえ』
『Fromニシダ:君は僕の敵にならざるを得ない人間だったんだね。畜生のごとき野郎だ』
『From清香:私おばちゃんになるわけ?(笑笑)』
 他にも、美華子や恵理香などから、似たような内容でメールが入っていた。
「な、なんだよこれ!」
「あ、ごめーん。このホテルに入るときの実況と、写真を5枚ほどと音声撒いちゃった〜」
 アリサがからからと笑った。
「実況って…おい、ここはどこなんだよ!音声ってなんだよ!」
「何って、ほら、ラブホテルとか言う建物よ?くふふふ。音声はこれよ」
 アリサが携帯電話を出すと、竜馬の声で「俺と付き合ってくれないか。好きだ、大好きだよ」と流れた。アリサの尻尾が揺れている。
「冗談じゃない!俺は帰るからな!」
 竜馬が部屋を出ようとしたそのとき、アリサが竜馬の首根っこを掴んだ。
「うあ!」
 竜馬の上半身が後ろに反る。体を支えている足を蹴り飛ばしたアリサは、竜馬の体を後ろから受け止め、まるでマグロでも抱えるかのように抱き上げた。ベッドに竜馬を転がしたアリサは、征服感に満ちた目で竜馬を見下ろした。その間、約2秒。竜馬が彼女に抗う隙はなかった。
「逃がさないわ。大好きよ。こうして愛を囁くだけでいいんだよね。簡単でしょ?」
 ガッ!
 竜馬が逃げないように、アリサは竜馬の上に馬乗りになった。
「や、やめろよ!やめろってば!」
 泣きそうな気持ちを必死に抑え、竜馬は精一杯の抵抗をした。だが、アリサの力の前では児戯に等しく、易々と押さえ込まれてしまう。竜馬は4月に見た夢のことを思い出した。アリサが竜馬をラブホテルに引き込む夢だ。あのときは寸前で目が覚めたが、これは現実。目が覚めることはない。
「竜馬…愛してるわ…」
 アリサの目が鋭くなる。竜馬は本能的に感知した。自分は食われる、食われる…
「う、うわああああ!」
 そして、戦慄の夜が、訪れた。



 (続く)


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