「うー…」
 アリサはパソコンの画面とにらめっこをしていた。体験として与えられた仕事は、紙に書かれた出荷数などの数字を表にしてまとめるというものだ。別に難しいことではないが、かなりの量に、アリサはくたくたになってしまった。それでも、一般の会社員がする仕事より、ずっと少ないと言うのだから驚きだ。1日目もくたくたになってしまった彼女だったが、2日目はまだ午前中だというのに、もっと疲れてしまった。
 事務ソフトの使い方を忘れてしまったアリサは、ポケットから手帳を出して、ページをめくった。彼女は大事なことや思いつき、スケジュールなどを手帳にメモして管理している。何か一つ物事を起こそうとする時も、まずは紙の上で計画を練ることにしていた。今回は、ソフトの使い方を聞いたとき、基本機能をメモしておいたページを見ている。
「アリサさん、調子はどう?」
 手帳を見るアリサの後ろから、祐太朗が声をかけた。
「あんまりよくない…疲れちゃって」
 アリサがイスの背もたれにもたれかかり、ぐうっと体を伸ばした。アリサの体重を受けて、イスがぎしぎしときしんだ。
「そっか。もう昼休みだから、ご飯食べに行かないかい?」
 祐太朗に言われ、アリサは時計を見た。既に昼休みになってから10分が経過している。気が付けば、オフィスには数えるほどしか人がいない。休むときに休まないと、後で仕事が出来なくなることは、昨日習っていた。
「んー、そうね。行きましょう」
 アリサが立ち上がる。もちろん、彼への警戒は怠らない。昨日、いきなりキスをされそうになったことで、アリサは彼の評価を要注意人物としていた。
「職業体験はどうだい?楽しい?」
 エレベーターへと歩きながら、祐太朗がアリサに聞いた。
「んー、想像していたものと違ったかな。もうちょっと派手なことをすると思ってたから…」
 アリサが正直に感想を言った。向かい側から歩いてきたOLを避けて、廊下の端を歩く。
「そうか。どんなことを想像していたんだい?」
「電子機器会社だから、回路作ったり、デザインしたり…」
「はは、さすがにそこまでのことはしないよ。僕たちはアルバイトのようなものだからね。逆に考えれば、これだけ普通の事務仕事を任せてもらっているということは、お客さん扱いはされていないということではないかな」
 祐太朗がエレベーターのボタンを押した。今いるのは12階。かなり高い階層だ。
「そうなの?」
「そうだと思うよ。普通ならばお客さん待遇で、簡単に出来る仕事しかさせてもらえないはずだから」
 エレベーターが到着した。2人以外、乗り込む人も降りる人もいないようだ。アリサはエレベーターに乗ってB1のボタンを押した。地下1階にある食堂は、安くてそれなりの味と量が保証されている。アリサにとって嬉しかったのは、カレーライスのトッピングにエビフライがあることだった。
「そっか〜。西田君は息子さんだからわかるけど、私も…」
 がったん!
「え?」
 エレベーターが大きく揺れた。電灯が切れ、箱の中が暗くなる。前についている非常用の赤ランプが点灯した。
「しまったな。今日はメンテナンスで止められるんだ。道理で人が乗っていないと思った」
 祐太朗がはははと笑った。
「えー、どうすんのよ?」
「心配しないでも、5分もしたら1階まで下ろされるだろうさ。少し待とう」
 しかめ面をするアリサに、祐太朗が慌てるでもなく答えた。アリサはもう少し何か言ってやろうと思ったが、すぐにやめて口をつぐむ。
「ところで、昨日言ったこと、真面目に考えてくれたかな?」
 アリサの目をじっと見る祐太朗。その目に、アリサは昨日感じたのと同じ、嫌な物を感じた。
「何かしら?」
 アリサが油断なく距離を取る。といっても、エレベーターの中なので、その距離は2メートルもない。
「結婚を前提に、僕と付き合ってほしいと、昨日の食事中に言った。そのとき君は、笑いながら、私には彼氏がいるから無理だと言ったよね。その後僕は、1日考えて、もう一度返事を聞かせてほしいと言ったはずだけどな」
 事実だけを淡々と話すその言い方に、アリサの背中の毛が逆立った。
「昨日も言ったはずよ。彼氏がいるから無理。これは何ヶ月経っても、変わらないわ」
 アリサははっきりと言い放った。強い意志を込め、誤解のないように。
「うーん、困ったな…」
 祐太朗がゆっくりとアリサに近寄る。いつでも祐太朗を殴ることが出来るように、アリサが拳をつくる。彼女は同年代の少女の中では腕力が強い方だ。また、アーチェリーや西洋剣術の大会で賞を取るほどの猛者でもある。
『本当なら殴りたくないけど…これ以外ではいい人だし…』
 アリサが唾を飲み込む。目の前、息すら感じられる距離に、祐太朗が立った。
「僕はね、君のことをとても好きになってしまっているんだ。君が好いている男の子より、僕は君を愛せる自信がある」
 祐太朗の言葉には、力があった。人を惹きつけるカリスマのようなものが見えた。普通の婦女子ならばそれこそ一発で惚れてしまったかも知れないが、心に思う男がいるアリサにはそれほどの効果はなかった。
「それで?」
「だから、君と恋人の関係になりたい。だめかな」
 祐太朗の手がアリサの頬を撫でる。殴ってはいけないという理性が、アリサの中で音を立てて崩れた。
「お断りよ」
 ガッ!
 アリサが祐太朗の手を掴んだ。
「そんなことをしても無駄だよ。いつか僕は君の心を手に入れてみせよう」
「そうかしら?」
 ぐぎぎぎぎぎ!
 アリサが手に力を入れた。
「いたたたた!」
 祐太朗が手をふりほどこうと腕を上下した。アリサは離さない。ますます強く、祐太朗の手に爪を立てる。
「無駄なの?こんなことしても?」
「む、無駄だよ!あ、愛を得るためなら、これぐらいの痛みには、耐えて…あたたた!」
「へえ、耐えるんだ?くふふふ」
 ぐぎぐぎぐぎ!
 握手をする要領で、アリサが祐太朗の手を握る。アリサのサディスト心に火がついた。
「痛くない?痛くないの?」
 ぐりぐりっ!
 追い打ちをかけるように、アリサは靴の踵で、祐太朗のつま先を踏んだ。
「ぎゃあ!も、もうやめてくれよ!ご、後生だから!」
 がたん
 エレベーターが動き始めた。アリサが手を離すと、祐太朗は自分の手を振った。
「悪いわね、西田君。これに懲りたら、私を恋人にしようなんて、思わないことね〜」
 エレベーターの扉が開いた。外には、作業服を着た青年が数人、点検用の工具を持って立っていた。彼らはまさかエレベーターに人が乗っているとは思っていなかったらしく、アリサが外に出るとさっと道を空けた。
「ふ、ふふ。ますます好きになったよ。諦めるもんか」
 祐太朗がふらふらとエレベーターから出て、アリサの後を追った。


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