夜になり、竜馬は考えていた。今日1日、アリサがいなかったおかげで、彼はのびのびと授業を受けることが出来た。昼休みにくっつかれることも、放課後についてくることもなかったし、抱きつかれることも、噛みつかれることも、殴る蹴るの暴行を受けることもなかった。それは快適な生活だった。これがずっと続けばいいのに、と思いすらした。しかし、考えれば考えるほど、胸に何かしらの違和感を感じる。笑っているときも、ふっとそれが止まってしまう。その感情に、竜馬は憤りを感じていた。
『なんで寂しがる必要があるんだよ。俺、自分で自分がわからねえよ』
 はあ、と竜馬はため息をついた。何度目かわからないため息だ。目線が虚空を彷徨う。そんなにアリサのことばかり考える自分が嫌いだ。アリサのことばかり…
 スコーン!
「ぐっはぁ!」
 後頭部に強烈な衝撃を受け、竜馬は思わず手に持ったおたまを取り落としそうになった。
「あ…ご、ごめんなさい!」
 真優美が慌ててかけよる。竜馬の住むアパートの部屋には、真優美を始めとして、修平、美華子、恵理香が来ていた。そして、竜馬の姉である、人間少女の清香も座っていた。清香はセミロングの髪を後ろで束ねている少女で、演歌と和文化をこよなく愛する女性だ。修平は彼女のことがとても気になるようで、事あるごとに清香のことを賛美していた。
「真優美ちゃん、何すんだよ!」
 竜馬が真優美にきつい言葉を浴びせかけた。
「あ、あの、ごめんなさい…あたし、あたし…」
 真優美が涙目で頭を下げた。心の中に、何か悪いことをしてしまったような気持ちがわき上がり、竜馬はこれ以上物を言うのをやめた。
「まあ…次から気をつけてよ。今度は何したの?」
 泣きそうな真優美の頭を、竜馬が優しく撫でる。
「えーと…テレビのリモコンを投げちゃって…あ、ご飯まだですか?」
 テレビのリモコンを拾う真優美。彼女の視線は、竜馬が作っている野菜炒めに注がれている。
「まだ。もう少し待っててね」
 竜馬が苦笑いをした。この少女と話していると調子が狂う。真優美ははーいと返事をして戻っていった。
「ええー!?それ本当!?」
 後ろで大声が聞こえた。清香の声だ。まだ7時過ぎだというのに、酒を飲んでいるようだ。
「な、なんすか。男ならそういう願望の1つや2つや3つくらい、あるもんすよ」
 修平がおどおどしながら答える。
「いや、でも異常でしょ。ありえない」
 今度は美華子の声だ。いつも冷静な彼女だが、声の調子に少し嫌悪が混ざっている。
「そんな言うなら竜馬に聞いてみればいいじゃん。みんなそんなもんだって」
 テーブルにコップを置く修平。ぱたぱたとまた真優美が寄ってきた。
「竜馬君〜」
「どうした?」
「竜馬君は、女の子のスカートの中に住みたいと思ったこと、ありますかぁ?」
 がしゃーん!
 そのあまりにも衝撃的な質問に、竜馬は手に持っていた塩の瓶を取り落とし、置いてあった皿を数枚割ってしまった。
「思うわけないだろ!何をそんなバカなことを…」
 竜馬は慌てて塩の瓶を取った。その場においてあったビニール袋に、割れた皿の破片を拾い集める。
「修平君がそんなことを言っていたもので…えへへ、竜馬君に限って、そんなことないですよねぇ」
 不安そうだった真優美の顔が、一瞬にして晴れた。
「修平、おま、女の子に変なこと吹き込むんじゃねえよ!」
 すぱーん!
「いてぇ!」
 竜馬がおたまを投げつける。それは修平の頭にクリーンにヒットした。
「い、いやー。俺、小学生のころ、すごく清楚でスレンダーなお姉さんと仲よくてさ。小説家だったらしいんだけど、ものすげえ優しくて」
「それとスカートと何か関係あるのかよ!」
「そのお姉さん、いつもロングスカートでさ。抱きつくといい匂いがしてさ。そのころから性欲少年だった俺は、いつかお姉さんのスカートの中に住んでやろうと思っていたわけだ。わかるか?あの、何とも言えない恋心…」
 修平が目を閉じて頷いた。その仕草は、思い出を引っぱり出して賞味しているようにも見えたが、内容が単なる性欲少年の欲望ではあまりにも格好が悪い。
「レッテルを貼るようなことは言いたくないが、男と言うのはしょうがない生き物だな…」
 恵理香のため息が聞こえる。太い尻尾がぱったんぱったんと揺れた。
「ま、いいんじゃない?逆に錦原みたいに、変に節操ある男の方が接しにくい。バカな方が相手しやすいじゃん?」
 ごく当たり前のように美華子が言う。
「そうですかぁ?私はやっぱり、好きな男の人には節操持ってほしいなぁ…うん、だから、竜馬君もその…ぅん…」
 真優美が赤面してうつむいた。ぶつぶつと言う言葉の中に、時々「好き」だの「撫でて欲しい」だのといった言葉が聞こえる。アリサほどではないが、彼女もだいぶ夢乙女らしい。
「でもねー、竜馬だって、こんなものを…」
「わあああああああああ!」
 清香が出したディスクを、竜馬がひったくる。アダルトビデオであることは明白だ。表紙でなまめかしい姿態を見せる獣人女性に、真優美が恥ずかしそうな顔で凍り付いた。
「やはり変わらないのだな…」
 恵理香は少しがっかりした様子で、キッチンの方へ行った。できあがった野菜炒めを大皿に盛り、茶碗を人数分取り出して持ってくる。
「よーし、表紙と裏面は見た。後は内容を妄想して楽しむことにしよう!」
 そう言い放つ修平の顔は輝いていた。
「てめえ、ぶん殴って…」
 竜馬が修平に詰め寄る。
 パラパパパーパパーパパララー
 と、竜馬のポケットから、大きな音が鳴り響いた。
「あ、電話だ。すまん」
 ポケットから携帯電話を取り出す竜馬。画面に「アリサ・シュリマナ」と出ている。
「もしもし?」
『あ、もしもし、竜馬?』
 アリサの声が耳に届いた。竜馬は自分の部屋に入り、戸を閉める。
「なんだよ、どうした?」
 ベッドに座り、竜馬が足を組む。
『寂しいから電話しちゃった。竜馬は私がいなくて寂しくなかった?』
「寂しくねえよ。むしろ、いなくてすっきりしてるね」
『あら、残念。まあ、帰ったらその分抱きついてあげるわ〜』
 竜馬の冗談口調に、アリサが冗談とも本気ともつかぬ声で答えた。彼女の声を聞き、安心してしまった自分の心を、竜馬が慌ててうち消した。
『そうそう。私ね、職業体験してるんだけど、同い年の獣人の男の子が1人来ててね』
 アリサの長い話が始まった。竜馬は適当なところで相づちを打ってはいるが、話の内容はほとんど聞き流していた。空いた方の手にはペンを持ち、くるくると回している。
 曰く、西田祐太朗という名のその少年は、格好がよくてフェミニストで女好きであると。そして、人の言うことをよく聞かないで、自分の判断で行動することが多い少年なのだそうだ。何より困ったのが、彼がアリサを痛く気に入ってしまっているということだ。
『…でね、昼ご飯の時なんか、ひどいのよ。何を思ったかいきなり、結婚を前提に付き合ってくれないか、とか言われて。私、冗談だと思ってたら、彼は本気なのよね。もうどうしたらいいかわかんなくて…』
 アリサが言葉を濁した。その困惑気味な言葉遣いに、竜馬は今までになかった邪悪な心を呼び起こしていた。その男とアリサをくっつければ、竜馬は晴れてお役ご免、自由気ままな恋愛ライフを送ることが出来る。
「そいつ、よっぽどアリサのことが気に入ったんだな。嫌われるよかいいじゃん」
 竜馬は攻撃を開始した。もちろん、アリサには攻撃だとは気づかれないように、細心の注意を払う。
『そうかなあ…明日また一緒に仕事するんだけど、そのときも変なアクション取られそうで怖いのよね。どうしたらいいかな?』
「やりたいようにやらせればいいじゃん。そんだけ好かれるって、お前幸せだぞ?」
『なんでよ〜。それって、キスとかさせろってこと?』
 アリサの声がいきなり不機嫌になった。
「そうじゃなくてさ。ありのままのお前を好いてくれる人って、大事だよ。いろいろなところでさ」
『そう…かなあ。私、よくわかんない。だって、あってまだ24時間経ってない人に好かれても…』
「まあ、今はまだそうかも知れないけど、友達づきあい続けてみなよ。案外、仲良くなれるタイプの人間かも知れないぜ?」
『うん、そっか…』
 アリサが黙り込んだ。竜馬は心の中で、しめたと思った。楽しい恋愛ライフが目の前に見える。
『竜馬、ありがとう。相談に乗ってくれて』
 アリサが少し寂しそうな声で言った。
「別にいいさ。職業体験だっけ、楽しんでやってきなよ」
『うん、ありがと…じゃあ、切るね』
「ああ、うん。じゃあな」
 竜馬が携帯電話を耳から離した。
『あ、待って!』
 アリサが慌てた声で叫んだ。
「どした?」
 もう一度耳に携帯電話を当てる。
『あ…やっぱなんでもないよ。じゃあね』
 ブツッ
 電話が切れたことを意味する音が響いた。数秒間、竜馬は会話の余韻に浸っていた。ゆっくりと携帯電話をおろして、電話を切る。
「…」
 何も言わず、壁を見つめる。アリサは最後に何を言おうとしていたのだろうか。
『あいつだって俺にひどいことしてるんだもんな』
 相反する2つの感情が竜馬を責める。彼女の好きにさせた方がいいのではないかという迷いと、自分の言う通りにして欲しいという心。彼女の自己主張についていけるほど自分は我慢強い人間ではない。
『どうしたらいいんだろうなあ…』
 竜馬はため息をついた。解決する案が浮かばない。なんともならないのだろうか…
「そうそう、竜馬のAVって言ったら、こんなのもあってね〜」
 清香の声が響いた。竜馬の背中を、冷たい物が滑り降りる。もうアリサどころではない。人格が否定されかねない一大事が起きている。
「姉貴ぃ!何してんだよぉぉ!」
 竜馬は引き戸を開き、居間に転がり込んだ。


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