高層ビルが天を指す。それはまるで、透き通るような青い空に突き刺さる、巨大な剣のようだ。高架橋を走り抜ける電車。日の光を反射して煌めく街。そんな非自然的な物にも、人々は注意を払うことなく、日々の生活を送っている。埼玉県。ここは東京の人口が飽和状態になったときのことを考え、副都心として機能すべく発展を遂げた街だ。埼玉は東京に次いでトレンディな都市になってきており、外資系の商社がオフィスを借りるビルが多数建っていた。
そんな埼玉の真ん中で、アリサは制服姿で空を見上げていた。東京都と呼ばれる中でも、田舎部に近い場所に住んでいる彼女にとって、街とは新宿であり、渋谷であった。しかし、普段遊びに行く都市以外にも、これだけの規模を持った都市がある。当たり前のことではあるだろうが、東京よりは田舎だろうと思って来たアリサにとって、これはまさに青天の霹靂だった。
「アリサ。何をぼうっとしてるんだい?早くしないと置いていくよ」
アリサの後ろから、一人の獣人の男性が声をかけた。髪が黒いところを除けば、まさにアリサと同じカラーリングの体毛をしている。スーツを着る体は大きく、バッグを持つ腕は太く力強い。
「ああ、お父さん…ごめん、ちょっと街に見とれてて」
アリサが自分のカバンを持ち、ぱたぱたと後を追った。男性は、アリサがついてきたことを確認し、歩を進める。バッグには、英語と日本語で「カイオヤ・シュリマナ」と書かれていた。
アリサの父親であるカイオヤは、精密機器生産をしている会社の社長だ。彼の運営している「株式会社KOコーポレーション」は、パソコンの周辺機器から信号機のような大型機械、果ては携帯オーディオプレイヤーや工作機械まで製造している大企業である。今から20年前、まだ獣人や爬虫人が珍しかったころ、彼はこの星の技術で何かしらの会社を設立出来ないかと考えた。最初は10人程度で運営していた会社だったが、だんだんと人が増え、今では従業員数2000人を数えるほどとなっている。
「たしか、この辺りで待ち合わせなんだが…」
カイオヤが駅前の広場で立ち止まり、辺りを見回した。客待ちのタクシーや、広告を絶え間なく表示する大型ディスプレイは見つかるものの、探している人物は見あたらない。
「んー…」
獣人星系の言葉で独り言を言うカイオヤ。携帯電話を取り出し、メールを打ち始める。
アリサは荷物を下ろし、ベンチに腰掛けた。朝早くに出て来たので、眠気がだいぶ溜まっている。もしここでベッドと枕など用意されたら、すぐにでも寝てしまうだろう。
今回彼女が埼玉まで来たのは、カイオヤの会社の取引先で、アリサが職業体験を行うことになったからだ。カイオヤの友人でもある、西田社長が経営している「株式会社ニシダ」で、アリサはこれから3日、職業体験をすることとなっている。我が子がかわいいのは誰でも変わらないようで、今から苦労をさせて将来は一人前の女性になってほしい、というのがカイオヤの考えだった。
「企業体験って3年になってからするものじゃないのかな…帰って竜馬と遊びたいよぅ…」
アリサがぶつぶつと文句を言う。駅前の大時計に目を移すと、9時を差している。もし学校に行っていれば、1限目の最中だろうか。
「すみません、お待たせしました。いやー、道が混んでいたもので」
駅方面から、2人の男性が走り寄ってきた。片方は地球人の、少し太った男だ。笑っているわけではないのだろうが、顔がにやついている。ただそれは、嫌らしい笑い方ではなく、どちらかといえば七福神の恵比寿様のような、人に好かれる類の笑い方だった。もう一人は獣人で、年はアリサと同じくらいに見える。猫系の獣人なのか、鼻が短く、全体的に突っ張った顔をしている。体毛はライオンカラーといえばいいだろうか、濃い褐色の頭髪に薄い黄色の体毛をしており、ショートにした髪を少し散らしている。
「今回はわざわざ娘のために、お忙しい中時間を割いていただき、ありがとうございます」
カイオヤが丁寧に頭を下げる。
「あ、いやいや。お役に立てれば幸いですよ」
恵比寿男が頭を掻き、はははと笑う。
「アリサ・シュリマナです。これから3日間、よろしくお願いします」
手短に自己紹介をするアリサ。普段は竜馬相手に色ボケの限りを尽くしている彼女も、普通の人間相手ならばただの少女だ。
「どうも。西田翔太ともうします。アリサさん、よろしく」
恵比寿男が自己紹介をして手を差し出した。アリサが手を握り、強く握手する。乾いた翔太の手は、年齢を感じさせた。
手を離して一歩下がる。と、獣人少年の目が自分を見ていることに気が付いた。
『とりあえず愛想、だっけ』
アリサは少年の方に向き直り、にっこりと微笑んだ。
「そちらの方は?」
カイオヤが少年の顔を覗き込む。
「ああ。こいつは、私の息子です。妻が獣人なのですが、目に見えたハーフではなく普通の獣人として産まれたんですよ。アリサさんのサポートをさせようかと。ほら、挨拶を…」
少年の方を翔太が軽く叩いた。
「西田祐太朗です。お会いできて光栄です、美しいお嬢さん」
ぞくっ…
アリサは祐太朗の目線に、何か嫌な物を感じて、毛を逆立てた。
「どうした?」
アリサの驚きようを見て、カイオヤが怪訝な顔をする。
「ん…何でもない」
アリサが微笑んで、祐太朗とも握手をする。もう一度じっくりと祐太朗の目を見ても、今は何も感じられない。
『思い過ごしよね。うん』
心の中で自分を納得させるアリサ。先ほどのものは見間違いだろう。普段竜馬からの愛を期待しすぎてるあまり、初見の男性が自分を注視していると感じるなど、自意識過剰でしかないだろう。
「それでは、後はお任せしてよろしいですか?」
「ええ、どうぞ。お嬢さんは責任を持ってお預かりしますよ」
カイオヤが翔太の顔を覗き込むと、翔太がにこにこと微笑んだ。
「わかりました。アリサ、いい子にしてるんだぞ?」
「あ、うん」
カイオヤが最後にアリサの肩をぽんぽんと叩き、歩き出す。彼はこれから埼玉で仕事があるらしい。そのついでに、アリサをここまで送ってくれた。
「さて、行きましょうか。車を用意してあります。これからの体験が、アリサさんの将来選択の指標となってくれれば幸いですよ」
翔太は停めてある車へと歩き出した。中では、運転手らしき男が、退屈そうに本を読んでいる。翔太と祐太朗、そしてアリサが近づくと、運転手が慌てて外に出て、ドアを開けた。翔太が助手席に乗り込み、後部座席にアリサと祐太朗が乗る。
『隣が竜馬だったらなあ…』
アリサが小さくため息をついた。
「どうかした?」
祐太朗が心配そうにアリサの顔を覗き込む、
「え?あ、いや、何でもないよ。これから上手く出来るか心配なだけ」
アリサが軽く笑ってみせた。言葉とは裏腹に、彼女の心は何でもなくはなかった。これから3日、竜馬にあえないと考えるだけで憂鬱になる。それほどまでに、彼女は恋の病に冒されていた。もっとも、彼女の行動は恋の範疇を超えているだろうが。
「心配はいりませんよ。どちらかといえば、アリサさんは見学をメインにしていただくことになるでしょうから」
翔太が時計を見ながら言った。それを聞いて、アリサは少しほっとした。これから何をさせられるか、本当にわからない状態だったからだ。
「有意義な職業体験になると思うよ。僕もこの機会に、一緒に会社で学ばせてもらうことになっているんだ。よろしく頼むよ」
祐太朗がにっこり笑った。歯がきらりと光る。
「ええ、まあ。私、企業体験なんて初めてだから、少し不安があっただけ」
アリサが愛想笑いをして目を逸らす。どうもこの男といると、ペースが狂わされる。アリサの尻尾がいらいらと揺れた。それでも祐太朗は目を逸らさず、アリサの顔をじっと見ていた。
「何?」
「どこかで見た覚えがあって。どこだったかな」
祐太朗が難しい顔をして、過去の記憶をたぐり寄せている。
「そう?気のせいじゃない?」
アリサは素っ気なく言った。彼女は、以前も同じような会話があったことを思い出した。4月の話だ。竜馬、修平、真優美と初めてあったとき、真優美もちょうど同じようなことを言った。そのときアリサは「アーチェリーと西洋剣術が強い。アーチェリーでは優勝もした」と語った。優勝したときに新聞に載ったのを、真優美が見たのだろうと指摘すると、案の定真優美はそのことを知っていた。祐太朗もそうなのではないかと思ったが、面倒くさい会話をする気力がないアリサは、彼を放置することにした。どうせすぐに会社につくだろうし、そうすると私語をする時間もなくなるだろう。
「さて、と。つきましたよ」
車が1つのビルの前で停止した。スーツを着た人々が忙しく出入りをしている。
「それじゃあ、私はこれで。祐太朗、しっかりと案内してあげなさい」
「うん、了承した」
翔太がぱたぱたとビルの中へ走って行った。彼もだいぶ忙しいようだ。アリサは運転手に一礼して、車から降りる。気が付くと、祐太朗の目がアリサをじっと見つめていた。
「どうしたの?」
アリサが祐太朗から少し離れる。
「きれいだなと思って。キスしてもいいかい?」
「はぁ?」
アリサは素っ頓狂な声を出した。海外や異星ではこんな冗談が流行っているのだろうか。だが、祐太朗は冗談を言っている顔には見えない。
「いいかい?」
きゅっ
祐太朗の手が、アリサの顎を軽く掴んだ。
「え、本気で?嫌よ〜。私、彼氏いるもの」
ぺしん
アリサがからから笑い、手をはたき落とした。もう少し遅かったら、本当に口づけされていたかも知れない。そう思うと、ぞっとした。
「残念だな。まあ、いいよ。じゃあ、行こうか」
祐太朗が歩き出した。アリサの中の何かが警鐘を鳴らしている。この男はどこかおかしいと。アリサは彼に対する不安と、職業体験に対する期待を胸に、後ろをついていった。
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