「なあ…なんでこんな所歩いてんだ?」
 竜馬が前を歩くアリサに聞いた。今竜馬がいるのは、この辺りでは有名な住宅街。駅から少し遠いところで、地価が安いせいか、大きな家が多数建っている。夜になり、すっかり人通りがなくなったそこは、何か違う街のように感じられた。
「いいからついてきなさいよ。ほら、荷物しっかり持って」
「あ、ああ…」
 アリサに言われて、竜馬は手提げ袋を持ち直した。中には服や洗面道具などが一式入っている。アリサのたっての希望で、竜馬は今晩アリサの家に泊まることになった。今まで彼女と長い間交友関係を持っていたが、彼女の家に行ったことがなかった竜馬。心の中には、一筋の不安が残っていた。
『小学生のころは、どんなだったっけか…』
 昔のことを思い返す。アリサが用水路に自分を突き落とした話、アリサがアダルト雑誌を自分の机に入れた話、アリサが遠足のチーズちくわに芥子を練り込んだ話…。どんな話を思い返しても、やはりアリサの家のことは思い出せない。
「何やってんのよ。ついたよ?」
 アリサに声をかけられ、竜馬は我に返った。
「…え?嘘だろ?」
 竜馬は思わずつぶやいた。目の前にあるのは、家というジャンルの建物ではあるだろうが、かなりの大きさをしていた。詳しい分類分けすると、豪邸とでもなるだろうか。向かい側には公園が、両隣にはこれもまた大きい邸宅が建っている。
「嘘じゃないわよ。なんでそんなに驚いてるの?」
 アリサはつんとして、家の扉に鍵を差し込んだ。かちゃりと音がして、扉が開く。
「玄関だけ見てもすごいなあ…」
 中に一歩入った竜馬は、ほうとため息をついた。
「くふふ。気に入ってもらえた?」
「気に入るというか…すごい。その一言に尽きる」
「どう反応していいかわからないけど、誉め言葉だと思っておくわ。ありがと」
 アリサが微妙に微笑んで尻尾を振った。来客用のスリッパを揃えて出す。
「ああ、ありがとう」
 竜馬はスリッパに足を入れた。玄関先に飾ってあった1枚の絵を、竜馬はどこかで見た気がしたが、思い出すことは出来なかった。
「あ…」
 アリサはダイニングのテーブルに置いてあった手紙を手に取った。どうやら、アリサの両親は今日明日は帰ってこないようだ。
「うーん、困ったわねえ…」
 口ではそう言いながらも、アリサの顔はにやついていた。竜馬の背筋を、何か冷たいものがすべりおりる。
「あ…し、しまった!今日はカテキングの日じゃねえか!家で姉貴に録画を…」
「カテキングは月曜放送、今日は火曜日よ。それに、もし入ったとしても、うちで録画しても問題ないでしょ?」
 アリサが手紙をテーブルの上に置いた。そして、ゆっくりと、竜馬の方へ向きを変えた。
 がしっ!
「うわー!」
 竜馬を抱き上げるアリサ。そのまま、2階への階段へ走っていく。
「私の部屋を紹介するね」
「なんで持ち上げるんだよ!」
「離すと逃げちゃいそうで、怖いんですもの。くふふふ」
 アリサは階段を駆け上がり、1つのドアを開いた。ふわっと、甘い香りが漂う。勉強机に本棚、あまり使われていないであろうパソコンが目に入る。広さは8畳ほどあるだろうか、竜馬の部屋より大きい。床はフローリングで、この時期には涼しそうだ。
「よいしょっと」
 アリサは竜馬をベッドにどさりと下ろした。竜馬はようやく一息ついて、手提げ袋を置く。クローゼットの扉が半開きで、中の服がちらりと見えた。
「あー、なんか夢みたい、竜馬と2人でなんて…」
 アリサが夢見る乙女の顔でつぶやいた。
「何がだよ!大体、女の子っつーのは、ベッドにそう簡単に人を乗せたりしないもんだと思ってたぞ!」
 竜馬は大きく息をついた。ずるずるとベッドから下り、立ち上がる。
「人によっては、外着で上がったり、お風呂まだなのに上がったりするのを気にするけど、私は別に気にしないなあ…相手は竜馬だしね〜。くふふふ」
「ったく、こいつは…」
 アリサの顔は幸せそうだ。竜馬は文句を言う気も無くなって、ベッドに座った。実のことを言えば、竜馬は心に平静をなくしていた。アリサに、自分の家に来て欲しいと言われた時からだ。
『この年で性交渉の体験がないってのも…』
 昨日、修平に言われた言葉が、頭の中によみがえる。そして、その言葉は、今何かの実体を持って、竜馬の周りをぐるぐると飛び回っていた。
『これはチャンスなんだ。本当の恋人が出来たときのための予行演習なんだ。アリサは俺を好いてるし…』
 竜馬の苦悩を余所に、アリサは省エネエアコンのスイッチを入れ、部屋の片づけをしている。それほど散らかってもいない部屋がきれいになると、アリサは竜馬の隣に腰を下ろした。彼女の方から、ふわりと匂う女の子の香り。悩める子羊、錦原竜馬の頭の上に、天使と悪魔が現れた。
『やっちゃえよ。このわんこ、お前にぞっこんだぜ。金も持ってるみたいだし、ある程度付き合ってから別れればいいじゃん』
『そんなこといけない。嫌いな部分が直らないということは、君と性格的に合わないということだ。軽々しい付き合いはしてはいけない』
『どうせお前はへたれだ、他に女が出来たとしても、最後まで付き合う覚悟もその気もねえ。やり逃げでいいじゃねえか。きっと気持ちいいぜ』
『だめだだめだ!貴様はなんという怠惰なことを言うのだ!外道が!』
『何言ってやがる!今時の高校生なんざそんなもんなんだよぉ!』
 とうとう、悪魔と天使が殴り合いを始めた。
「どうしたの?そんな怖い顔して…」
 竜馬はばっとアリサの方へ向きかえった。アリサがにこにこと竜馬を見つめている。
「いや…腹減ったなあと思ってさ」
 竜馬はその場を取り繕うために嘘をついた。その顔に、何か触発されたらしい。アリサがいきなり竜馬に飛びかかった。
「おわあ!」
 がんっ!
 竜馬の頭がベッドの角にぶつかる。
「私を食べて食べて!竜馬ー!」
 アリサがむちゃくちゃに竜馬の顔を舐める。獣人は、純粋な犬のような、舐めで愛情を表現する文化は持たない。つまり、彼女はわざわざ純粋な犬のように振る舞おうとして、竜馬の顔を舐めている。そこから竜馬は、自分に服従するアリサの姿を想像してしまった。
 ぷつり、と音がして、理性の糸が切れた。
『そうだ、これは予行演習だ。だから何をしても許されるんだ!』
 竜馬の脳内に、訳の分からない考えがフラッシュした。そのとたん、目の前にいる、竜馬にとっては性格が悪くて、竜馬にとっては嫌な部分を持つ少女が、がらりと違う生き物として認識された。
「もーあかん!アリサぁ!」
 ぎゅうっ!
 竜馬の両手がアリサの柔らかい体を掴んだ。そのときだった。
 ピンポーン
 アリサの家に、チャイムの音が響き渡った。
「あ…だ、誰かなあ」
 竜馬はその音を聞き、まるで邪な操り糸が切れたかのように、正気に戻った。
「んもぅ、いいところだったのに…ちょっと見てくるね」
 アリサが部屋を外へ出ていく。階段をどたどたと下りる音が聞こえ、竜馬は一人部屋に取り残された。
『あの感触からして、やっぱり昔のアリサじゃないんだ、よな…根気よく躾けていけば、レディになるんじゃないだろうか…』
 竜馬の頭がくらくらと動いた。1分が1時間にも感じられる。思考のループは、まるで脳が迷宮になってしまったかのように、何度も何度も同じ所を彷徨った。
「お待たせ」
 アリサが部屋に戻ってきた。竜馬が顔を上げると、その後ろに、怒りをかみ殺して微笑んでいる真優美と、いつも通り無表情な美華子が見えた。
「おじゃましまーす」
 真優美は礼儀正しく頭を下げたが、彼女の全身からはアリサに対する敵意がにじみ出していた。
「あれ…2人とも、なんで?」
「近くを通ったので、寄ってみたんですよぉ。ほら、アリサさんの住所、前に聞いたことありましたし〜」
 竜馬は心の中で焦っていた。さすがに他人がいる前でアリサに手を出すことは出来ない。
「あのですね〜。風の噂で聞いたんですが、今日1日だけ、竜馬君はアリサさんの彼氏になってるんですって?」
 真優美がずばりと聞く。
「そうなのよ〜。ちょっとした事情で、1日だけのごっこ遊びだけどね〜。まあ、そのうち本当に彼氏彼女になるんだし、いいでしょ?」
 ぎゅう
 アリサが竜馬に抱きついた。これ見よがしに頭をすりつける。
「だから、離れろって!」
「違うでしょ?はい、これ」
 竜馬の手に、またもや台本が渡された。こんな場合の対処すらリストに載っている。
「ああ、そうさ、アリサは俺の、かわいい、彼女さ」
 抑揚のない声で読み上げる竜馬。真優美の眉がぴくりと動く。
「そっか、今はアリサの物なんだ…」
 小さな声で美華子がつぶやく。その一言で、真優美の中で何かが壊れた。
「アリサさんは竜馬君の心を踏みにじってるんですよぉ…そんな、ひどすぎますよ?」
 ビキビキと、空気が凍り付く音がする。真優美の体がぷるぷる震えている。
「あらぁ、悔しいの?今日1日は私の彼氏様なんだから、しょうがないわね」
「竜馬君がどんな気持ちだかも知らずに…ほんと…」
 竜馬は2人を見て、やばいと直感した。
『大丈夫だから!つーか、いいんだよ、俺は!どうせ本当に付き合う気はないんだし!』
 竜馬が真優美に目配せをする。それすらも助けを乞う視線に見えたらしく、真優美が大きくうなずいた。
「竜馬、ちゅーしちゃおっか。真優美ちゃんが嫉妬してるみたいだし〜」
 アリサが竜馬に顔を近づける。
「あー!」
 ぐいっ!
 真優美が慌ててアリサを引っ張った。
「何するのよ!」
「何もへったくれもないです!このー!」
 2人がケンカを始めようとした、そのときに事件は起きた。
 かちゃり
 美華子が腰に手をやり、何かを外した。
「え?」
 ぱしゅうううう!
 アリサが振り返ると、2人の顔に美華子が何かを吹き付けた。酸っぱい臭いのするそれが、敏感な犬鼻を持つ犬娘2人の顔にまともに降りかかる。
「こ、これは何、あ、あは、あははははは」
「う、うふふ、み、美華子ちゃん、何をする、んです、あは、かあ、うふふふ」
 唐突に2人が笑い出す。呆然とそれを見ていた竜馬を、美華子がぐいと引っ張り、持ち上げた。
「笑気ガス。人の物だと思うと欲しくなっちゃって。もらってくね」
 美華子は竜馬を引きずり、猛烈に走り出した。部屋を出て、階段を駆け下りる。
「痛い痛い痛い痛い!」
 階段を引きずられながら、竜馬が声をあげた。
「ほら、立って。走らないと2人が追ってくる」
 階段を下りたところで、竜馬を立たせる美華子。竜馬は尻を押さえながら、前屈みになった。
「いたた…なんでこんなことを美華子さんがするのさ!信用してたのに!」
「人の物だと思うと欲しくなる。性ってやつね。錦原に拒否権はないから」
「ちょ!ここでも俺の意志全否定かよ!裏切りかよ!俺は…」
 かちゃり
 美華子が銃を抜き、竜馬に向ける。片方は笑気ガスの入っているスプレーガン、片方はダーツを飛ばすダーツガンだ。竜馬は反射的に手を挙げて固まってしまった。
「返事は?」
「はい、わかりました、さからいません」
 銃を突きつけられて、竜馬が機械のように答える。
「あは、あはははは、ま、待ちなさい!あはは!」
 アリサがお腹を押さえて、転げるように追いかけてきた。美華子が竜馬の手を引き、わき目もふらず走り出す。靴を履き、外に出ると、熱い風が吹いていた。季節は夏、夜だとは言っても暑いようだ。
「美華子さん、もうやめるんだ!こんなことして何か得があるのか!?」
「だって、面白いじゃん?」
「何がじゃ!あー、もう、あかん!」
 楽しそうな美華子の後ろを竜馬が走る。そのさらに後ろを、アリサと真優美が笑いながら追いかける。
「こっちかな」
 目の前にある公園に、美華子は足を踏み入れた。少し走ると、向かい側の道へと突き抜けてしまう。
「こっち」
 ぐいっ!
 竜馬を引っ張り、草むらに倒す美華子。自分も伏せて、植木の影に隠れる。
「はあ、はあ、はあ、やっと収まってきた…うう、美華子ちゃん、ひどい…」
「美華子…!はあ、見つけたら、はあ、ひどい目に、はあ、はあ…」
 アリサと真優美がふらふらしながら前を歩いていく。竜馬は何か言おうと口を開けたが、すぐに美華子に口をふさがれた。2人は前を通り、公園を抜けていく。
「もう、疲れた…美華子さんと真優美ちゃんが来なければ、平穏無事に今日を過ごせて、キャッシング出来たかもしれないのに…!」
 竜馬は草の上に座り込み、大きく息をついた。
「そうもならないみたいよ。これ。アリサの部屋にあった」
 1枚の紙を握っている美華子。それを竜馬の手に渡す。
「なんだ…こりゃ…」
 竜馬は紙に目を通した。筆跡はアリサのものだ。書き殴られているその文字は、今日の計画書のようで、とても口では言えないような過激なことが書いてある。内容はお察し頂きたい。
「…ああ、忘れてた!そうだよな、あいつはアリサだもんな!これくらいはされても仕方ないよな!」
 紙切れを地面に叩きつける竜馬。ぺしっと乾いた音がしたが、それはとても情けない音だった。
「こんなものもあったし」
 そう言って美華子は、ポケットから黒いベルトを取り出した。ベルトというにはあまりにも短く、細い。
「これ、首輪じゃねえか…あいつ、こんなものまで…」
 竜馬の手がふるふると震えた。アリサの家にはペットはいなかった。つまり、これはペットではない何かのために買ったことになる。
「くっそー!アリサめ、あいつ…」
 ぷるぷる震える竜馬。彼が顔を上げると、にやにやしている美華子の顔が目に入った。
「どうしたのさ、美華子さん」
「いや…面白いと思って」
「笑い事じゃ…」
 竜馬が美華子に詰め寄った。
「あ、見つけた!」
 遠くから声がする。アリサと真優美が、美華子と竜馬を見つけ、走ってきている。
「やばい!」
 竜馬と美華子は逃げ出した。竜馬の手から、先ほどのメモがひらひらと落ちる。
「これは…竜馬、読んだのね!」
 アリサが大声で叫んだ。
「うっさい!もうお前の意図はわかった!もうつかまらんぞ!」
「後少しでアレがコレする展開だったのにー!」
 アリサがメモを落とす。それを今度は真優美が読んだ。あまりにも過激な内容に、真優美は顔を真っ赤にして、絶句してしまった。足が止まる。
「ちくしょう、月夜に釜を抜かれた気分だ!油断してるつもりはなかったのに〜!」
 竜馬は道へ飛び出した。夏の最中だというのに、工事をやっている。どうやら水道管の交換工事らしい。
「あ、あれ」
 美華子が工事現場を指さした。ヘルメットをかぶり、日の丸弁当をつつく巨大な影。キツネコブラだ。
「はっはっは、兄ちゃん、毛深いなあ。出稼ぎかい?」
「グオ、キュウ、キュウーン」
「はっはっは、そうかそうか。カップラーメンを食べるためにバイトか。最近は熊もバイトするんだなあ」
 工事現場の作業員とキツネコブラは、楽しそうに話をしている。美華子は何を思ったか、キツネコブラにダーツガンを向けた。
 ガスッ!
 引き金を引くと、ダーツの矢が真っ直ぐにキツネコブラへ飛んでいき、ぷすっと頭へ刺さった。
「グ、グオオオオン!ウオーン!ウオーン!」
 痛さのあまり泣き叫ぶキツネコブラ。痛みに耐えきれなくなったキツネコブラは、勢いよく走り始めた。
「美華子ちゃん、捕まえたー!竜馬君は…」
 真優美が美華子の背中を掴む。
「そんなことより、あれ」
「え?」
 真優美とアリサが美華子の指さす方を向く。キツネコブラが泣きながら、真っ直ぐにこっちへと突っ込んでくる。
「にゃー!いやー!あーん!あーん!」
 真優美がよくわからない泣き声をあげて、逃げ出した。キツネコブラがその後を追う。
「あはははは」
 美華子は心底面白そうに笑った。
「美華子!あんた、何やってんのよ!」
「いいじゃん。いつもはアリサがやってるようなことだと思うけど?」
「うっさいわね!私はいいのよ、ヒロインなんだから!あんた、脇役の分際で…」
 がくがくがく
 アリサが美華子の肩を掴み、前後に揺さぶった。
「わー!来る!」
 竜馬が大きな声で叫んだ。真優美がこちらへ走ってくる。そして、真優美が逃げる後を追ってキツネコブラが走ってくる。
「あ」
 どごおおおん!
 まるでボーリングのピンのように、4人はキツネコブラに吹っ飛ばされた。


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