朝は一日の始まりである。人間が、生物が、そして植物が生きていく上で、なくてはならないものの一つに、必ず入るだろう。特に夏、それも日が昇り始めた早朝の空気は、前日の熱気と今日の熱気が混ざり合い、暑さと活力を流し込んでくれる。だが、彼…今日を楽しみにしていなかった「彼」には、その活力は訪れなかった。
「んー…くっ、ふううう…」
 ベッドの上で、上半身を起こしたアリサが、ぐーんと伸びをした。夏用の薄い寝間着は、ゆったりと大きかったが、やはり胸の部分だけ窮屈そうだった。
「あんまり寝れなかったな…暑い…」
 アリサがぼんやりとつぶやく。横を見れば、竜馬がうなされながら寝ていた。扇風機が彼の体を風でなで回しているが、暑さは消えないようだ。隣に、毛玉の女王とでもいうべきアリサが寝ていたからだろうか。時計は9時を指している。休日にしては早く起きてしまったようだ。
「うー…ん…」
 苦しそうな顔をして眠る竜馬。アリサは彼に抱きつきたい衝動に駆られたが、それが竜馬を苦しめるのだと思い、ぐっとこらえた。
 昨晩、契約書にサインしてしまった竜馬は、アリサと一緒に寝ることを否応なしに承諾した。アリサは嬉しくて嬉しくて仕方がなく、お泊まりセットを持ってきて、お気に入りの寝間着に着替えた。アリサはどきどきして、一緒のベッドに入ってもしばらくは寝付けなかったのだが、竜馬は案外早く寝てしまっていた。それが少々物足りないと言えば物足りないが、竜馬も疲れていたのだから仕方ないかも知れない。
「お茶…」
 アリサがふらりと居間へと入る。テーブルの上に、白いメモ用紙が置いてあった。それには清香の文字で「今日は1日空けます。2人とも仲良くするように。ご飯作ってあるから食べること」とだけ書かれていた。台所を見れば、炊飯器にはご飯が、鍋にはみそ汁が、電子レンジの中にはグリーンサラダと卵焼きが入っていた。
「お姉さん、いないの…ふああああ…」
 冷蔵庫を開けたところで、アリサが大きなあくびをした。麦茶の入ったやかんを出し、2つのコップにそれを注ぐ。そして、竜馬の部屋へ戻ると、片方に口をつけた。竜馬は額に汗をかき、死んだように眠っている。気になったアリサは、その場にあったタオルで、竜馬の顔を優しく拭いた。
「んー…?」
 竜馬がぐったりとして、起きあがった。目がまだ寝ている。寝ぼけ眼に見つめられたアリサは、にっこりと笑みを返した。
「おはよう。気分は?」
「悪いね…悪夢を見た…砂漠でのたれ死んだところに分厚い毛皮のコートをかぶせられる夢だ…」
 竜馬がゆっくりと起き上がり、ベッドに座った。
「ひっどい夢ね〜。はい、これ」
 アリサがその手に麦茶のコップを握らせる。
「ああ…ありがと…」
 竜馬は麦茶をぐいと飲み干し、ふうと息をついた。
「準備いいな…俺が起きるタイミング見計らって?」
「ん、まあ、そんなところかな」
 尻尾を振るアリサ。その顔はとても嬉しそうだ。
「ああ、眠い…」
 竜馬がベッド脇の、パソコンが置いてあるテーブルにコップを置いた。
「ほらほら、うだうだしてるとあっという間に日が暮れるわよ。外出の準備して?」
 アリサが竜馬をゆさゆさと揺さぶった。
「わかったわーかった、準備するから待っててくれよ。ったく、わがままなんだから…」
 タンスを開き、自分の衣服を取り出す竜馬。その顔はとても不機嫌だ。
「ああ、ほんとの彼女みたいな気分…私、男の子が欲しいの…」
 アリサがその背中に抱きついた。
「えーい、離せよ!ただでさえ暑苦しいんだから…」
「ストップ!」
 文句を言い始めた竜馬を、アリサが制止した。どこから出したのか、彼女の手は、1冊のハンドメイド冊子を持っていた。
「今日1日は私の彼氏様でしょ?そんな態度じゃダメよ〜。ほら、台本」
 冊子を竜馬の手に押しつけるアリサ。竜馬がそれを開くと、口にするのも恥ずかしいような台詞の数々が、彼を迎えてくれた。
「こんなん使わねえよ!」
「あら。じゃあ、噛みつきひゃっかいとちゅーいっかいする?それとも、お金返す?」
 竜馬は冊子を床に叩きつけようと振り上げたが、アリサがさらりと言ったのを聞き、ぴたりと思いとどまった。百回も噛みつかれたら、体中のありとあらゆるところがアリサの歯形だらけになってしまう。かといって、金を返したら、清香にも文句を言われ続けるし、何より生活できなくなってしまう。
「嫌な性格しやがって…お、俺だって、約束破ることくらい…」
「じゃあ何でしないのかしら?」
「う…」
 アリサがにやついている。その顔は勝利の喜びに満ちていた。彼女は竜馬の性格をしっかりと理解していた。つまらないところで正直なところ、いかに嫌いな相手でも無視したり仲間はずれにしたりは出来ないところ、そして約束を破るのがとても嫌いなところ。
「こいつ〜…」
 竜馬はぎりぎりと歯噛みした。もちろん、彼が悔しそうな顔をしたからと言って、契約がなくなるわけではない。竜馬は気持ちを落ち着かせるために深呼吸した。
「いい子いい子。じゃあ、この場合、どう対処すればいいのかしら?」
 アリサが竜馬をぎゅうっと抱いて、頬ずりをした。
「は、はは、アリサは、かわいい、なあ」
 冊子に書いてあった台詞を、竜馬はそのまま読んだ。感情のこもっていないロボットのように。
「はい、よくできました。お姉さんがご飯作ってくれたみたいだから、食べてからどっか行こう?」
 鼻歌を歌いながら、アリサが部屋から出た。その尻尾の振り具合を見れば、彼女がどれだけ喜んでいるかがわかる。目の端に、アリサの嬉しそうな尻尾を見て、竜馬はがっくりと力を抜いた。


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