授業が無事でもなく終わり、竜馬はアパートの部屋へ帰って、居間でごろ寝をしていた。地方出身の彼は、東京にアパートを借り、姉と一緒に暮らしている。
「だりぃ…」
 久々に学校に行っただけなのに、異様に疲れる。肩に何かずしりと乗っているような気分だ。竜馬の部屋には、やることがなくて暇を持て余していた修平が、宿題をやっつけるという名目で来ていた。もっとも、実際は宿題など1文字も進んでいないのだが。
「あー、くそ、いてて。あいつら、本気で殴りやがったなあ…」
 竜馬が頬を軽く撫でた。
「挑発するお前もお前だよ。適当に話あわせときゃよかったんだって」
「んだよ、悪いか」
「悪いに決まってるだろう。いつもアリサちゃんと一緒にいるのに、あんなこと言っちゃ、反感買うぜ〜?」
 手に持っている雑誌のページをめくる修平。先ほど西川が持っていた雑誌とは違うが、これも成人向けの雑誌だ。表紙に、水着を着たグラビアアイドルが写っている。
「反感なんざ知るかよ。くそっ…どっかにかわいい女の子はいないのか…」
 はあ、と竜馬がため息をついた。
「女の子、ねえ…種でもまいときゃ生えてくるんじゃねえの?」
 修平の言葉に、竜馬ががくりと転んだ。
「アホか!植物じゃあるまいし!」
「そっちの種じゃねえよ。つまりだな…」
「そこで止めておいてくれ。下品な話をするテンションじゃない…」
 修平が説明しようと顔を上げたが、竜馬はそれを押しとどめた。
「しかし竜馬。この年で恋愛とか、性交渉の体験がないってのも、今時は珍しいぞ」
 修平は雑誌の漫画ページを読んでいるようだ。時折、小さくくすくすと笑っている。
「んだよ。お前、体験あるのかよ」
「一応、な。まあ、それについては詳しくは聞いてくれるな。恥ずかしい」
 一瞬、修平の顔が、真面目になった。彼にも何か、忘れてしまいたい過去があるのだろうか。
「そんなことより竜馬、これこれ、すげえぜ」
 手に持った雑誌を竜馬に見せる修平。そのページには、人間女性のあられもない姿が載っていた。
「うひあっ!」
 情けない声をあげて、竜馬が後ろにばたんと倒れる。
「修平、お前、前回鼻血垂らしてたくせに、こんなの見て大丈夫なのかよ!」
「そりゃあ、これから見るって気合いが入ってりゃ、十分だよ」
 修平の顔がにやけている。
「あー、清香さん柔らかかったなあ…また酒飲ませてえなあ」
 修平が物思いに耽る。清香というのは、竜馬の姉だ。本名は錦原清香。竜馬と同じ地球人で、修平は彼女に惚れている。
「なんで俺の周りはこう、変態ばっかりなんだ…」
 竜馬ががっくりと肩を落とし、漫画雑誌を手に取った。
「そういうお前だって変態じゃんかよ。こんなもん持ってるくせに」
 修平がテレビ裏の微妙なスペースをまさぐり、1枚のディスクを取り出した。ディスクケースには「獣人女子高生!悶絶絶叫!」と、でかでかと印字されている。
「んーと?あたし愛玩わんこ。毎日楽しくて幸せ、ご主人様は美味しいソーセージを…」
「てめえ、なんで俺の隠し場所知ってんだ!」
 修平が解説を読み始めた時、竜馬は慌ててディスクを取り返した。
「ほーぉ、愛玩わんことな?」
 にやにやと修平が笑った。
「な、なんだよ、その目は」
 竜馬が不機嫌な顔で修平を睨んだ。
「いや、別に〜?」
「んだよ、この野郎!」
 がちゃり
 竜馬が掴みかかろうとしたそのとき、唐突に部屋の戸が開き、不機嫌な顔の清香が入ってきた。ぴっちりとしたタンクトップとミニスカートという出で立ちだ。
「姉貴、おかえり…?」
 清香の後ろから、あからさまに柄の悪い地球人男が1人入ってきた。ストレートに言ってしまえば不良、ヤンキーだ。ほうきヘアーに鉢巻きという、まるでアニメキャラのような突っ張り方をしている。着ている服も持ち物も普通だが、まっとうな人間でないことが2人にはよくわかった。
「あ、姉貴、その人は?」
 竜馬と修平はがくがくしながら部屋の隅へ避難した。
「あたしの後輩。あんた達の高校の3年で、名前は江崎君。ほら、挨拶を…」
「こんちゃーっす!」
 竜馬と修平が挨拶をする前に、江崎が頭を下げた。
「こ、こんちは…」
 竜馬が片手を上げる。
「そんな怖がらないでいいって。こいつ、ブレイクダンスやってるからこんな見た目なだけだって」
「そ、そうなんか?で、でも、殺気が…」
「事情があってね。悪い、お茶入れてくれない?」
 清香が深刻な顔をして言葉を切った。竜馬は何も言わずに、冷蔵庫からやかんを出した。
「さて、いくら貸してほしいって?」
 テーブルに座り、清香が江崎を睨む。
「5万…いや、3万でいいから、貸して欲しいんです」
 真剣な表情の江崎。どうやら彼は金の無心に来たらしい。
『姉貴、どうするつもりだ?今月はもう金ないのに…』
 コップを出し、やかんの中の麦茶を注ぎながら、竜馬はぼんやりと考えた。
「3万ねえ…メリ・クップッティファーには端金でも、あたしにとっちゃ大金だよ」
 流行りの外国人女優の名を比較に出す清香。彼女の目も、江崎同様真剣である。
「でも、俺、本気なんです!まじ、俺のせいであいつまで退学んなって、腹ん中にガキいるっていうし、まじで…俺…お願いします!」
 江崎が下がって土下座をした。
「土下座は最後まで取っておきなさい。あたしはそんなもので相手を見たりしない…あ、ありがと」
 竜馬が出した茶を受け取る清香。目の前に広がる、生々しい光景を見ていられなくなった竜馬と修平は、そそくさと竜馬の部屋へと入り込んだ。
「なあ…あの江崎先輩って、もしかして例の噂の…」
 竜馬がひそひそ声で切り出した。
「あ、お前も気づいてたのか。うん、たぶんその噂の先輩じゃないか?」
「だよな?金借りるほど困ってることってなんだろ…出産費用?」
「いや、そりゃおかしい。いくらなんでも、今日明日産むわけじゃないだろ。結婚式費用とか」
「金借りてまで結婚式か?なんとなくあの雰囲気、せっぱ詰まってるというか…生活費じゃないのか?」
 竜馬と修平は、頭を付き合わせて、ひそひそと会話をした。
「馬鹿野郎!彼女だって人生の花道飾りたいでしょうが!結婚式だけは挙げなさい!」
 清香の怒鳴り声が響き渡った。
「結婚資金ってことでいいみたいだな…」
 竜馬がぼんやりと言った。どうやら話はまとまったようだ。江崎の声で「ほんとありがとうございます!」と何度も聞こえた。そして、戸の閉まる音が聞こえた後、清香がふうとため息をついた。
「お姉さん、話は終わったんですか?」
 修平が清香に声をかけ、竜馬と一緒に居間へ戻る。清香はかなり悩んでいるようで、がっくりとテーブルに頭をついている。
「あー、有り金全部、貸しちゃった…4万…」
 清香がぐったりと転がった。スカートが少しめくれる。
「え?じゃあ、俺らの生活費は…?」
 竜馬が恐る恐る聞く。
「ない」
 清香がきっぱりと言い切った。
「おい、どうすんだよ!仕送り15日じゃねえか!雑草でも食って生きるのかよ!」
「うるさいうるさぁい!考えてんだから待ちなさい!」
 竜馬がずいと清香に近づき、清香がばっと竜馬から離れた。
「けっ…どうがんばってもダメだな。支払いもあるはずだし…」
 また清香が寝転がってしまった。
「もう下着でも売るしかないんじゃねえの?」
「はは、もし売ってくれるなら、なんぼでも買っちゃいますよ」
 いらいらと竜馬が言い、修平がそれに同調した。
「竜馬、お前頭いいな!修平、あたしの下着買わない?そうね、値段は…」
「冗談に決まってんだろ!本当にするなよ!」
 どすんっ!
「げふぅ!」
 スカートに手をかけた清香を、竜馬がタックルで止めた。
「いいじゃんか!修平は喜ぶ、あたしらには金が入る、何の問題が?」
 ぶちかましを食らった腰をさすりながら、清香が竜馬を見つめた。
「問題あるだろ!その、友人が姉の下着持ってるとか、嫌なんだよ!」
「…ったく、わかったよ。そこまで言うってことは、他に金を手にする宛てがあるんだろうね?」
 清香がスカートをしっかりと履き直した。修平は、物欲しそうな、残念そうな目で、清香と竜馬を交互に見ていた。
「金、か…どうすれば…」
「条件付きでいいなら融資するわよ?くふふふ」
「そうか、融資…え?」
 竜馬が振り向くと、学生服を着たままのアリサが、茶を飲みながらにこにこしていた。
「アリサ!お前、いつの間に!」
 竜馬はアリサからずざざと遠のいた。
「不用心よね、鍵が開いてたのよ」
 アリサがドアを指さした。先ほど、江崎が出て行った後、清香は鍵を閉め忘れたらしい。
「悪いけど、話は聞かせてもらったわ。私の出す条件を飲んでくれるならば、5万でも10万でも、貯めてるお小遣いから貸してあげてもいいんだけど…」
 尻尾を振るアリサ。その目は妖しく竜馬を見つめていた。
「誰がそんな条件なんか…」
「まあ、待て。まずは聞かせてちょうだい」
 否定しようとした竜馬を押しのけ、清香がずいと顔を出した。竜馬は考えていた。アリサのことだ、きっと無理難題をふっかけるに違いない。
「そうねぇ…現実的な線だと、明日一日、竜馬が私の彼氏になるとか。どう?」
 予感は的中した。アリサにとっては天国のような1日だろうが、竜馬にとってはそれは拷問に近かった。
「どこが現実的なんだよ…これより非現実的なことがあるか?」
 アリサの射程に入らないように、竜馬は注意深く後ろに下がった。
「いっぱいあるわよ〜。結婚する、子供作る、一生添い遂げる、同じ骨壺に入る、他にもいろいろ。どれがいい?」
「どれも嫌だ。悪いが、他を当たらせてもらおう」
 竜馬がきっぱりと断る。
「なあ、竜馬。たった1日だぜ?その辺は妥協のしどころじゃないのかね。今日のお前、おかしいぜ?アリサちゃん関係でそんな切れるなんて」
 先ほど見つけた、竜馬のアダルトディスクの解説を読みながら、修平が言う。
「そうそう。別に取って食われるわけじゃないんだし」
 その横で清香がうなずく。
「嫌なものは嫌なんだよっ!アリサとデートするくらいなら、ニューハーフとデートする方が断然いいね!屈辱的だ!」
 竜馬が言ったとたん、修平がばたんと倒れた。
「ほ、ホモは嫌だ!ホモは嫌だぁぁ…」
 がくがくと震えている様は、まるで芋虫のようだ。その姿は滑稽でもある。
「…そういえば私、竜馬にお金貸してたわよねえ」
 アリサが無表情で竜馬を見つめた。その顔は能面のようだ。よほど怒っているのか、毛が軽く逆立っている。
「悪いけど、返してくれない?確かあれは千円。ねえ、お願い」
 アリサの怒りは、まるで尖った矢のように、竜馬に突き刺さった。
「い、いや、今持ち合わせなくて…」
「竜馬確か、借りたときはすぐ返すって言ったでしょ?」
「でも、ほら、今家にも金ないし、財布ん中もあんまりなくて…」
 アリサの攻撃に、竜馬はたじたじになってしまった。彼女から逃げるようにまた下がると、「ホモは嫌だ…」と繰り返す修平にぶつかってしまった。
「ううん、いいの。私とデートするよりその手の人とデートする方がいいって言うほど、竜馬に余裕があるのはわかってる。いつまでも私にお金借りてても、屈辱的でしょ?ほら、返して」
 彼女の言葉には迫力があった。さながら、殺人犯を追いつめる特殊部隊員、草食動物を襲う恐竜のような。
「う、うう…」
 竜馬は助けを求めるように、姉の方を向いた。彼女も彼女で何か考えているようで、竜馬の目線には、気づいているのに気づかないふりをしていた。
『そうだった、姉貴は俺とアリサが付き合うことを望んでるんだった』
 ちらりとアリサを見る竜馬。彼女の怒りは増幅しているようだ。華の乙女がここまで否定されたら、誰だって怒るだろう。今この場に、竜馬の味方はいなかった。
「…悪かったよ…」
 竜馬は小さい声で謝罪した。
「え、なに?聞こえないんだけど」
「悪かったよ!あー、そうさ、俺は悪者さ!お金貸してください、お願いしますー!」
 わざとらしく聞き直すアリサに、とうとう竜馬が音を上げた。
「わかってくれればいいのよ〜。素直じゃないんだから、もう」
 ぎゅうぎゅう
 アリサが竜馬に抱きつき、体をすりすりとくっつけた。
「暑苦しいだろうが!離れろよ!ただでさえうちにはエアコンねえんだからよ!」
「ごめーん、くふふ」
 竜馬が叱りつけると、アリサは離れた。竜馬は不機嫌をあらわにして、顔を扇風機に向けた。
「さーて。お姉さん、ちょっと紙とペン貸して?」
 アリサが転がっていた団扇で顔を扇いだ。
「シャーペンでいい?」
「出来れば消えないペンがいいかな。あと、朱肉も」
 テーブルの上に、ルーズリーフが1枚と、ボールペンが出された。アリサは鼻歌を歌い、ルーズリーフにかりかりと何かを書いている。
「なんだ、竜馬。話ついたのか?」
 ようやく正気に戻った修平は、不機嫌そうな竜馬と、楽しそうなアリサを見て、そう言った。
「ああ、ついたさ。そうさ、俺はどうしようもない男さ。たかだかあと8日程度、女に金借りないと生活できないような男さ」
 竜馬の背中には哀愁が漂っていた。ただの女性ならばいいだろうが、相手はアリサだ。彼女に対して、意固地なまでにプライドを持っている彼には、それは敗北に感じたのだろう。
「でーきたっ。内容を読んで、承諾印をお願い」
 ルーズリーフを持ち上げ、太陽に透かすアリサ。それを竜馬の手に握らせる。
「え…と…錦原竜馬はアリサ・シュリマナに借金をするにあたって、以下の各項を遵守すること。1、彼女の彼氏として振る舞うこと。2、彼女の言うことを一概に否定せず、嫌悪せず、遠のけず、追い払わず、彼女を受け止めること。3、自然な恋人であるように努力すること。4、この契約の期間は2045年8月7日の夜から、2045年8月9日の朝まで、24時間プラスアルファである。以上を守れなかった場合、契約破棄のペナルティとして、噛みつきひゃっかいとキスいっかいの刑に処す…」
 竜馬は一息に契約書を読み上げた。アリサは嬉しそうににこにこしていた。一番下にサインをする欄があり、アリサの手書きサインと、ぷにっとした肉球印が押してある。その下の、金額を書き込む欄は、空白になっていた。
「いい機会だ。一度、お試しのつもりで、付き合ってみりゃいいと思うよ」
 清香が嫌ににやけている。その顔すら、今の竜馬には腹が立つ。しかし、彼には選択肢がない。ここで何かを言う気力すらない。
「…」
 何も言わず、竜馬はボールペンを取り、震える手でサインをした。


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