古来より、人間は様々な場所に住み、様々な技能を手に入れてきた。科学は人間の生活を豊かにした。空を切り裂き、星を穿ち、大地を燃やし、木々をなぎ払い、人間の文明はその勢力を広げてきた。しかし…
「んー、美味しい!」
 そんな人間であっても、食の喜びの前には、ただのケダモノと化すのだった。
 夜になり、それぞれ思い思いの行動をしていた一行が部屋に戻ったとき、ちょうどよく女将が来て食事の用意が出来たことを教えてくれた。
 浴衣を着て、それなりの期待しながら広間へと移動した彼らが見たのは、期待を良い意味で裏切る豪華な料理だった。竜馬は一瞬、後で高額な料金を請求されるのではないかと不安になったが、これも料金のうちに入っていることを聞き、安心して腰を下ろした。大きなテーブルの片方には竜馬、アリサ、清香、修平と座り、向かい側には恵理香、真優美、美華子と座っていた。
「…と、そこまではよかったんだけどな…」
 竜馬がもそもそと茶碗蒸しを食べる。その隣に座る清香は、いつ持ち込んだのやら、一升瓶を膝に抱え、先ほどから酒ばかり飲んでいた。そして、それは未成年のはずのアリサや真優美にまで回り、優雅な食事のはずがだんだんと混沌の色を見せてきていた。
「ねえ、飲ませちゃってよかったわけ?」
 美華子がぼそぼそと竜馬にささやく。
「しょうがないよ、止められなかったしさ。機嫌を悪くしないといいけどなあ…」
 はあ、と竜馬はため息をついた。
「あー、酔ってきた、なんかものすっごい気分いいなあ」
 清香はだいぶ気持ちがいいようで、にこにこしている。肌がほんのり紅く染まり、酔っていることは傍目にも確認出来た。タバコがテーブルの上に置いてあるが、食事場所で吸うほど節操がないわけではないのか、手を出していない。
「清香さん、いい飲みっぷりですね。今おいくつでしたっけ?」
 コップに酒を注ぎながら修平が聞いた。
「6月に20になったよ。大学2年。何、酒飲んでいい年齢か疑ってんの?」
 くすくすと清香が笑う。
「そうじゃないっすよ。ちょっとした興味っす。清香さんが年齢偽って酒飲むような人には見えないですよ」
「あら、信じてくれてんの?そいつは嬉しいねえ。いい子いい子してやろう」
 ぐいっ
 清香が修平の頭を脇に抱え、ぐりぐりとなで回した。
「あだ、いたた、強いっすよ」
 そう言いながらも、修平はまんざらでもない表情で、清香の手をぺしぺしと叩いていた。
「姉貴は19のときからタバコも吸ってたし、信用なんかできんぜ?」
 竜馬が清香から目を逸らした。
「一応これ、18歳から吸えるやつ。火つけて吸うし、タバコと言ってるけど、実際はタバコとは別物なんだよ?ま、タバコと同じくらい喉は危ないけどね〜」
 竜馬の横に、清香が箱を置く。見れば確かに煙草という漢字や文字は見あたらない。
「違うのか」
「何言ってんの、匂いがぜんっぜん違うでしょ。あたしは法を守って正しく生きてんだから」
 一升瓶を手に取り、コップに酒を注ぐ清香。その姿を見た竜馬は、タバコであろうがなかろうが、清香のイメージは変わらないのだと思った。まるで居酒屋で飲む親父だ。
「ねえ竜馬、これ何?これ何?」
 アリサが酒臭い息で竜馬にすり寄った。彼女の手は、刺身の皿を掴んでいる。
「鯛と鮪の刺身だろ。山の中だって言うけど、魚が美味いのはいいよな」
「そうじゃないのよぅ。これよこれ」
 アリサが皿の上を指さす。大根の細切りやシソと一緒に、赤くて小さな葉がひとつまみ添えられている。
「んー…知らないな〜。同じ皿に載ってるってことは、食っていいんだろうけど…」
 赤い葉を竜馬が箸でつまむ。
「ああ、それは蓼という物だよ」
 竜馬の向かいで、焼き魚の骨を取っていた恵理香が、口を挟んだ。
「タデ?」
「うむ。食べてみればわかると思うが、苦みや辛みがあってな。こんな味の草でも食べる虫がいるそうで、そこから、蓼食う虫も好き好きということわざが生まれたんだ」
「なるほど。知らなかったよ」
 竜馬は蓼を口に入れて、そのことわざの意味をよく知った。確かに口に合うものでもない。
「じゃあこれは?今まで食べたことのない野菜だけど…」
 アリサがみそ汁の中から、タマネギを細くしたような形の野菜を、箸で摘んで恵理香に見せた。
「それはミョウガ。食べると物忘れが激しくなるという曰くのついた食べ物だよ。科学的には、逆に物忘れが少なくなるという話だ」
「これがミョウガ?名前は知ってたけど、見たことなかったわ〜」
 アリサは心底感心した様子で、美華子の顔を見つめた。
「あの、あたしもちょっと聞きたいんですけど、これは何なんですかぁ?ピーマン?」
 今度は、恵理香の隣に座っていた真優美が、天ぷらを箸で持ち上げた。緑色で、細長い、唐辛子のような形をした食材が、衣に包まれている。
「それは獅子唐だな。ヘタが獅子の顔に似ていることからそう呼ばれる。基本は甘めだが、たまに辛いものがあって、なかなか見分けがつかないそうだ」
「お獅子ですか〜」
 衣を剥がし、ヘタをじっと見る真優美。彼女にはそうは見えなかったらしい。そのままタレにつけ、口に入れる。
「くふふ〜。この雰囲気、いいわね〜。平和って言うか、なんて言うか…」
 何がおかしいのか、アリサが笑う。
「お前、酔ってんだろ」
「え〜?酔ってないわよ〜?くふふふ」
「嘘だ。お前、もう飲むなよ」
 アリサから酒を遠ざける竜馬。以前彼は、酒を飲んだアリサに噛みつかれたことがあった。自分を好いてくれないと逆恨みをしたアリサは、怒りのままに竜馬や真優美に噛みつき、大変なことになったのだ。それからというもの、竜馬は酔っぱらったアリサに対する警戒を強めていた。
「いいじゃん、みんな酔ってるんだし」
 アリサがけらけらと笑った。見れば、美華子と竜馬を覗いて、皆酒を飲んでいる。恵理香は顔色が赤くなったし、アリサは見たとおりだ。清香は異様にハイテンションになり、修平は難しい顔をしている。その中で、真優美だけは酒を飲んでも、何も変化がなかった。
「あれっすよ、こんな美人捕まえて、男女だとか鬼だとかひどいっすよ」
「親しみを込めてだよ。言われてる方としては、案外楽しかったりするんだよ?」
 修平がぐちぐちと文句を言っている。そして、それを清香が丁寧にうち消している。
「俺ならあれっすよ、女の人にそんなこと言わない、ってか、なんてか…」
 コップを掴んだ修平が、中の透明な液体を、ぐいと飲み干した。
「よしよし、修平は優しいね。お婿に来い来い、かわいがってあげるよ?」
 楽しそうに笑う清香の手が、修平の頭を優しく撫でる。それをじっと見ていたアリサは、竜馬に抱きつき、頭をなで回し始めた。
「お婿に来い来い〜」
「やだよ…ったく…」
 竜馬はしかめ面でアリサを押し戻した。
「ああ、美味しかった。ごちそうさま〜」
 心底幸せそうな声を出す真優美。箸を置いて、口を拭う。だいぶ酒を飲んでいるはずなのに、顔色一つ変わらないのは、体質だろうか。
「あたし、先に出ます〜。もう一度お風呂入ってから、部屋に戻りますね〜」
 真優美が立ち上がる。
「ああ、うん」
 何の気なしに真優美の方を向く竜馬。ひらりと浴衣の裾がめくれたのが見え、慌てて目を逸らす。
「竜馬、今何を見てたの?」
 アリサが鼻面を竜馬に押しつけた。
「お、お前には関係ないだろ…」
 竜馬は真っ赤な顔で鍋をつついている。そんな竜馬をちらりと見てから、真優美は部屋の外へ出た。広間から自室への道、そして風呂場までの道は覚えている。迷わないはずだ。
「えーと、こっちかな…」
 真優美がふらふらと歩く。人と接する態度には出ていないし、本人もそれほど自覚はしていなかったが、彼女は平衡感覚を一部削られ、ふらふらとしていた。というのも、清香に勧められるままに大量の酒を飲んだせいだ。本当は真優美は酒に酔わない体質だったが、食事の前にも入浴し、血流がよくなっていたせいもあるのか、酒はあっと言う間に回ってしまった。
「ん…」
 しばらく歩いた真優美が足を止め、小さくぶるっと震えた。
「おトイレ…どこかしら…」
 きょろきょろと辺りを見回すが、それらしき標識はない。もう少し行けば大浴場のはず、そこにはトイレもあるはずだ。少し我慢しながら、ゆっくりと歩く。
「…ん?」
 廊下を曲がった彼女は、目の前に何かふわふわしたものが立ちはだかっていることに気が付いた。少し後ろに下がって見てみれば、昼間雑貨屋でカップラーメンを食べていた巨体があった。キツネコブラだ。
「あ…あ、あなたも、お風呂しにきたの?」
 細かくかたかたと震える真優美。キツネコブラの身長は2メートル以上はある。威圧感はそこらの不良よりはあったし、鋭い爪や力強い腕を見ると、今にも襲われそうな恐怖を感じた。
「グルルルルル…」
 キツネコブラが敵意丸出しで唸る。
「あ、あの、えーと、あたし、おじゃまだったかしら…か、帰るね」
 今にも攣りそうな表情筋を無理矢理使い、にこりと笑った真優美が、にじりにじりと後ろに下がる。彼女の背中に廊下の壁が当たった。
「グオオオ!」
 どすんっ!
「ひいっ!」
 キツネコブラの右腕が、真優美の顔の横、壁に深々と突き刺さった。親指の爪が真優美の頬をかする。
「あ…ああ…」
 真優美は、足から力が抜けるのを感じた。ぺたんと廊下の床に座り込む。逃げられない、あの爪で今度は…などということが脳裏をよぎる。
 しょろろ…しょおおおおお
 太股の毛皮に、生暖かい液体が染み込んでいくのを感じる。恐怖のあまり失禁してしまったという事実を理解しても、それをどうこう考えられるほど、余裕がない。涙が頬の毛に染み込んでいく。
「グルルル…」
 壁に刺さった腕を、キツネコブラが引き抜いた。その視線が真優美を射抜く。
「グオオオオン!」
 ぶぅん
 キツネコブラの腕が再度振り上げられた。今度は寸分違わず彼女の頭に当たるだろう。
「あー!!」
 キツネコブラの咆吼より大きな悲鳴があがる。そして間もなく、真優美の意識は、暗い闇に一瞬で落ちた。


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