―――――七―――――
〜遠い過去、そして今〜

 ばさっ
 地面に布が落ちた。積雷の着ていた服だ。黒のシャツにカットジーンズ。そして、その隙間から、彼女の身につけていたであろう、ピンク色の下着が見えていた。
「え……もしかして、お札の中に封じ込めたとか、そういうお話?」
 目の前に起きたことを、信じようとして信じられず、直樹が美玉に聞く。
「封じ込めたのは力だけ。ほら、見て?」
 ぐっ
 積雷のブラジャーがある辺りに、美玉が手を突っ込んだ。ずるり、と何か長い物が引きずり出される。美玉の手は、猫のような手ではあったが、指の長さは人並みにあるため、物を掴むのに苦労はしないようだ。
「ほら。もう危なくないから、触ってみなよ」
 ぽい、と長い何かを投げ渡す美玉。直樹が反射的に受け取る。なま暖かく、ぐにゃぐにゃしていて、ふわふわで異様に触り心地の良いそれに、直樹は恐る恐る顔を近づけた。
 見た目はイタチのような動物だ。毛の色は褐色、所々に黒い毛が混ざっている。長さは三十センチから四十センチメートルと言ったところか、それほど長くはない。目を閉じ、口を半開きにして、時折小さな手をひくひくと動かしている。
 直樹はその動物の頭を軽く抱き、正面に向き合うように見つめた。ぴょこん、と三角の耳が、褐色の毛の中から顔を出している。
「かっ、かっわええ! なんだこの動物!」
 さっきまで泣いていたことも忘れ、直樹は率直に感想を口にした。刹那、美玉がむっとした表情になったが、すぐに戻った。
「さっき襲ってきた女の正体よ。私も実物を見るのは初めて」
「これってオコジョ? イタチ? それともテン?」
「全部外れ。これは噂に伝えられている妖怪の一種、<雷獣>よ」
 直樹の手から、美玉が積雷を奪い取る。
「ライジュウ……なんか、響きからして、雷を操りそう。まあ、納得できる」
 そう、積雷には雷を操る能力があるのだ。こんなに無造作に抱いていて大丈夫なのか、直樹は不安になった。
「美玉さん、さっきの雷、大丈夫だったんだな。マジ心配したよ」
「ええ。雷でやられたふりして、隙を狙ったの。敵を騙すには、まず味方からってね。こんなのあったから、こっそり通してね」
 じゃら
 美玉が持ち上げたそれは、古びたチェーンだった。駐車スペースの入り口に張って、車が入れないようにするための、太いものである。美玉の体には、傷どころか焦げ跡一つ付いていない。
「後、さ。美玉さん、妖怪だったんだ……?」
 直樹が聞く。ついさっきまで、美玉が妖怪だと言うことを、当たり前のように受け入れてしまっていたが、よくよく考えればそれは不自然なことなのだ。
「直樹君や吉田さんには関係ないから、知らせるつもりはなかったんだけどね。こんな形で知られるなんて」
「いや……なんか、いろいろと納得行った。確かに妖怪ならしゃあないって思う部分もあったよ。技能とかさ」
「そっかぁ。しょうがない部分か……<ヒト>でいるつもりはあったんだけどなあ」
 目を合わせる事が出来ず、目線を下に落とす直樹の前で、美玉がくすりと笑った。
「妖怪だって何でも出来るわけじゃない。百年、いろいろなところで旅をして、物を知って。そこで得た知識や力が、私を作ってるだけよ。人間だって百年間、私と同じ旅をすれば、同じ能力が身に付くはずなんだからね」
 美玉がくすくす笑う。百年も生きているなら、彼女が年下なはずはない。敬語を使っている方が正しかったのだ。
「そうなんかな……」
 敬語に戻さなければいけないような気がした直樹だったが、どうもそれも他人行儀な気がして、普通の言葉で話してしまう。
「そうそう。今の内に、処置をするから、その女を貸して」
「殺すつもり?」
「そんなことしないわよ。また暴れないようにするだけ」
 手を伸ばし、美玉は直樹の手の中から、積雷をかっさらった。
「これを、こうして……」
 先ほどのお札をもう一枚出し、美玉は積雷に再度くっつけた。もう、発光も放電もしない。
「あのー、美玉さん」
 まだ何かしている美玉に、直樹が声をかけた。
「なあに?」
「少し、聞きたいことがあって……いいかな?」
「ええ。答えられる範囲ならば」
 美玉が快諾する。聞きたいことはいっぱいある。二十一人殺したというのはどういうことなのかとか、鞄に入っていた武器は合法品なのかとか、大学で心理学を専攻していたというのは本当なのかとか。思考も上手くまとまらないから、聞こうと思っても言葉にならないこともある。
「そうだな……まずさ、美玉さんって、妖怪なんだろ?妖怪としては、どういう分類に入るの?」
 まずは、一番最初に浮かんだ、素朴な疑問を口に出した。
「それって、生まれとか育ちとか?」
「そうじゃない。例えば、俺は人間で、日本人だろ? 美玉さんは、どういう妖怪で、どんな分類に入るのか、知りたいんだ」
 とんちんかんな返事をする美玉に、直樹が具体例を出した。よく、妖怪をテーマにした物語では、どういう分類のどういう妖怪なのかを詳細に話している。
「そうねぇ……化け猫、になるのかな。言うなれば、化け猫の中の、猫又ね」
 ぺしん
 爪先で、軽く積雷のことを叩く美玉。それでも積雷は、目を覚ますことはない。
「そっか、美玉さん、猫又なのか。猫の化け物なら、みんな猫又だもんな」
 猫又ならば、メジャーな妖怪だ。色々と聞いたことがある。例えば、婆さんを食い殺して婆さんに成り代わっていたとか、遊郭で遊女として働いていたとか、行燈の油を舐めるとか。美玉も、そんな猫又の一人、いや一匹なのだろう。
「ううん。化け猫って言っても、色々いるのよ。猫又の上位には、猫?(ねこしょう)っていう化け猫もいるし、尻尾が二股になってない化け猫もいる。面白い例だと、エルバッキーとかね」
「エルバッキー?」
「うん。遠い宇宙から来た、猫型宇宙人なんだってさ。会ったことはないけどね」
 猫型宇宙人などという、おかしなものまでいるとは、直樹は知らなかった。妖怪はそれなりに慣れたが、宇宙人などと言われると、いきなり胡散臭くなるから驚きだ。
(猫又……)
 昔読んだ物語のことを思い出す。猫又は大抵の場合、、飼い主を食い殺す。彼女は、やはり人を……。
(あなたは人を殺すのか?)
 聞きたい。けど、聞けない。否定して欲しいが、もしそうでなかったら。聞いたら、真実を知ったら、どうも出来なくなる気がして。
「ん……」
 美玉の手の中で声がする。どうやら積雷が目を覚ましたらしい。積雷は、四足動物特有の仕草で顔を洗い、周りをきょろきょろと見回した。そして、自分がケモノの姿になり、美玉に抱かれていることに気が付き、青ざめた。
「てっ、てめぇ! 何しやがった! くらえ!」
 ぱちっ
「あっ!?」
 積雷が電撃を発射した。いや、電撃などという恐ろしいものではない。これはただの静電気だ。 
「なに、って……あんたは危ないから、力を吸わせてもらったのよ。直樹君、彼女のシャツを持ち上げてみて」
 言われたとおり、シャツを持ち上げる直樹。シャツの背中に張り付いていた、やや黄みがかったお札が、ひらひらと落ちる。
「あー! そ、そいつは……!」
 何がなんだかわからない直樹とは違い、積雷はそのお札がなんだかわかったらしい。大声をあげている。
「そうそう。服が散らばりっぱなしだったわ。丸めて私の鞄にでも入れといてくれる?」
「わかった」
 美玉に言われた直樹は、服を一枚ずつ拾い集めた。スニーカーに靴下、シャツ、ズボン、そして下着。拾い上げたピンクのショーツから、ふわっと汗と女性の香りが漂い、直樹は顔を赤らめた。だがしかし、目の前の珍獣がその持ち主だと言うことを思うと、どうも正直にときめくことが出来ない。美玉のような半獣半人ならば、まだいろいろと出来ることもあろうが、本当のケダモノ相手では……。
「その姿になっても、声は変わんないんだな……」
 直樹がぽつりと呟いた。積雷はかなり怒り狂っているようで、口汚く美玉のことを罵っている。手に噛みついて逃げ出そうとしたが、上顎と下顎を押さえつけられたせいで、口が開かなくなってしまった。
「さあて、これからどうしようかしら。雑巾みたいにぎゅうっと捻ってあげようか? それとも、背中にろうそくを固定して火をつけてあげようか。あ、スープ鍋に入れて蓋をして、コンロにかけるっていうのもいいわねえ」
 美玉が邪悪な顔で積雷に微笑みかけた。途端に、積雷はがたがたと震え始めた。
「あ、あたしを殺すのか!」
「殺すつもりはないわ。私を追うことのないよう、あなたを説得するだけよ」
「せ、説得? どんな感じで?」
 にこにこ顔の直美を見て、少しずつ積雷が安心し始めたようだ。こわごわ、美玉に質問する。
「そうねー。まず腕や足は動かないように縛って、物を言わないようにタオルでも噛ませようかな。それから、ロープで歩道橋から吊して、放置するの。普通車ならば車高が低いから、スルーして大丈夫だけど、車高の高いトラックが来たらぶつかって……」
「確実完璧に死ぬじゃねえかああぁぁぁ!」
 さらりと言いのけた美玉にむかって、積雷が怒鳴りつけた。
「まあ、お楽しみは後にとっておくとして。あんたには来てもらうわ」
 鞄からタコ糸を出す美玉。積雷の手足を押さえると、まるで焼き豚でも作るかのようにタコ糸でぐるぐる巻きにした。
「てめぇ! ふっざけんな! この……」
「はい、黙る」
 ぐっ
「うぐっ!?」
 積雷の口に、彼女が着ていたシャツを突っ込んだ美玉は、頭もタコ糸で固定した。積雷は、バッグの中でくねくねしているが、外に出るだけの力はないようだ。残されたお札を、美玉は注意深く折り畳み、財布の中に入れた。
「直樹君、ごめんね、迎えに行けなくて。でももう大丈夫だから……」
 美玉が言葉を止めた。直樹のやるせない表情に気づいたのだろう。言いたいことは山ほどあった。だが、それを何かが押しとどめた。
「……直樹君?」
 悲しそうに、美玉が首を傾げた。本物の猫が悲しい顔をしているかのようだ。やはり、人ではない。
「ごめん、美玉さん。俺……」
 直樹は俯き、目を閉じる。
「俺、まだ美玉さんを信用出来ない……」
 素直には、美玉のことを信頼出来ない。美玉に自分が殺されたりすることは、恐らくないとは思っているが、彼女が本性を隠していたことまでは事実である。事実を知らない限り、納得出来ないのだ。
「あ……」
 伸ばしかけた手を、美玉が戻した。やるせない、悲しい顔をして、俯いた。
「へっ、当然だろ。目の前で、知り合いが化け猫に変わったんじゃあな」
 シャツを吐き出した積雷が憎まれ口を叩く。
「そんなことを言うのはやめて」
「まあ、何を言おうが変わらないが。あたしはあたしが正義だと思うことをやってるだけだからな」
「何が正義よ。やめてよ、もうやめて」
「お前はのやったことは結局……」
「違う! あんただって、同じ場面に出会えば、絶対同じことをする!」
 積雷の言葉を美玉が強い言葉でうち消した。今まで、冷静に見えた美玉だが、その実は怒りが溜まっていたのかも知れない。
「何が同じ場面に出会えばだ! 自分を正当化するつもりかよ!」
「そんな言い方はやめて! どうせちゃんとした話も知らないくせに!」
「ちゃんとした話? 知ってるさ! 二十一人を……」
「そうじゃない! そんなことじゃない!」
 激しく二人が言い合う。そんな様子すら、直樹にはどうも納得がいかなかった。なんで言い合っているのか。口調からして、美玉が二十一人を殺したのは事実のようだが、それには何か理由があるのか。
「私が悪いわけじゃないのに、あなたまでそう言うのね。誰に騙されたかは知らないけれど」
 とても悲しそうな声で、美玉が叫ぶ。その悲壮感漂う姿に、積雷が口を閉じた。
「美玉、さん……?」
 美玉の名を呼ぶ直樹。一瞬、涙目の彼女を抱きしめようか、直樹は悩んだ。が、彼の心に湧いている不信感が、それをさせなかった。
「……そうだよね。巻き込んじゃったんだし、知る権利はあるか。あんたも、ほんとのこと知りたいでしょ」
「積雷って呼んでくれ。ほんとのことがなんだかは知らないが、あたしはあたしの今持つ知識しかない。その知識で判断すると、お前は大量虐殺した糞女だ」
 弱々しい美玉とは対照的に、積雷はイタチの姿なのに勇ましい。直樹には美玉が悪だとはどうしても思えない。事実を知りたい。
「そう、ね。それはその通りかも知れない。でも、理由があったことくらいは、知って欲しい。意図的に、思い出さないようにしていたけれど、久々に言うわ」
 ぽつりぽつりと言う美玉。山から吹いた風が、美玉の髪を掬う。
「……今から百年ほど前の話よ。私が住んでいたのは、東北の山奥にあった村。小さな、良い村だった」
 すう、と美玉の目が細くなり、ぴたりと閉じた。
「春には桜、夏には蝉、秋には実り、冬には雪。毎年繰り返す、四季折々の風景。山と川と、水田の多い田舎村。そこで私は、四匹兄弟の末として生まれたわ」
 匹なのか、と言いたくなった直樹だったが、口をつぐんだ。 
「私はそのときには、ただの三毛猫だった。毎日幸せだったわ。バッタを追いかけたり、ひなたぼっこしたり。女の子に飼われて、タマという名前をもらって、平和に暮らしていたわ。おタマおタマと呼ばれたものよ」
 ああ、それで、と直樹は納得した。お玉という言葉に反応したのは、このときにおタマと呼ばれていたからなのだろう。
「ある梅雨の時期、私の村で感染性の強い疫病が流行した。まだ、明治の世だった。そして田舎だった」
「……その辺は聞いてないな。疫病が流行ったから、感染を防ぐために、仕方なく殺したってか?」
「いいえ。私の村は、疫病というものに対する知識はまだあった方なのよ。麓に医師を呼びに行ける人たちもいたし、問題ないはずだった。でも、それと同時に起きた事件が、平和だった村を地獄にした」
 積雷の問いに、美玉は首を横に振った。今まで、坦々と話していただけの彼女の言葉に、感情が乗り始めた。
「突然落ちた雷。山の社に開いた扉。どこに繋がっていたかはわからないけれど、現れたのは数多くの死人よ。体を欲しがる亡者の群に、村は襲われた。見たことないでしょ、そんなの」
 ぎりぎりと、美玉が唇を噛む。悔しそうな、その顔に、直樹はぞくりとした。さっき、新聞紙の塊を見ていたときより冷たい瞳が、直樹と積雷を交互に見つめた。見つめられた直樹は、怖くなって目をそらした。
「まずは早い者勝ち。病気で弱った体に、亡者が我先に入り込む。元々入ってた魂が、ただ抜けるだけならまだいい。でも、病気で精神が弱くなっているところに、そんな乱暴な扱いを受けたら……わかるでしょ? 魂がバラバラになるのよ」
 美玉が両手を使い、紙を破くようなジェスチャーを取る。
「半欠けになった、元人間が、多くの亡者の間を、まるでちり紙みたいに舞って。消えられればいい方、消えることも出来ず、中途半端に残った魂が、叫ぶのよ。痛い、痛いって。次は、奪い合いよ。生きた一人の体を、数十人の亡者が奪い合う」
 ごくりと唾を飲む直樹。今まで土曜屋に来ていたのは、人間に友好的な人外ばかりだった。そのうち何か起きるのではないか、という恐怖心はあったが、恐ろしいことが、現実に起きることはなかった。起きるとして、せいぜい人間に使えない超能力で、店が荒らされたりする程度だと思っていた。僧侶がお札で退魔を行うというのも、漫画や小説の世界では見ていたし、人外は大したことはないと思っていた。
 が、しかし。美玉の見てきた世界は、そんな生やさしいものではなかったのだ。気づかぬうちに、直樹は人あらざる者に対して「友好的で無害」という概念を持っていたのだ。そして、それは一部は正しく、一部は間違っていた。
「マジ、かよ……戦国時代には、そういうこともあったと聞くが、明治になってから?」
「本当よ。ま、聞いたことがないのも無理ないわね。当事者は私以外、みんな死んでるんだから」
 驚愕の表情をしている積雷に、美玉が言い放った。彼女の兄弟という猫も死んだのだろうか。
「そのうち、数十の亡者が、一つの塊になったものが、一つの体に無理矢理入ったの。私を飼ってくれていた女の子も、人じゃない化け物に成り下がった。そのときのことは忘れない。私はねじり殺されそうになった。でも、結局は助かった」
 山の上から、また風が吹いた。さっきよりも強い風。風に乗って、ひらひらと舞ってきたのは、薄い桃色をした欠片達。桜の花びらだ。陽光の下、猫女の周りに桜が舞う風景に、直樹は強く「和」を感じた。
(最近同じような気持ちになったよな……)
 数日前の満月の日にも、直樹は和を感じた気がする。やはり、自分は日本人なのだと、こんなところで自覚させられる。
「人一人の体に、数十人の負荷がかかったってことは、霊の質量が多くなるってこと。例えば、ボンベを考えて。鉄製のボンベならば、十気圧や二十気圧の気体にも耐えられるわよね。でも、それと同じものを、ペットボトルに入れたら破裂する」
「それはつまり……」
 積雷と直樹が顔を青くする。
「……私の見ている前で、人々は次々と<破裂>していったわ。血しぶきをあげて。私をかわいがっていた女の子も……」
 直樹は吐き気を催し、口を押さえた。想像を絶する地獄の中に、美玉はいたのだ。自分は耐えられない。もしそんな場面を見たら、きっと正気ではいられないに違いない。
「気が付いたら、雨の中に私は横たわっていた。いつの間にか、私は人の姿になっていた。猫又として覚醒したのはその時よ。まだその辺りには死霊の臭いはしたけど、私は無事だった。さっきまであった死体は、みんな消えて、欠片すら見あたらなかった」
 自身の顔を撫でる美玉。その仕草も、まるで猫のようだ。
「折り悪く、麓に医者を呼びに行っていた一団が帰ってきてね。医者と用心棒、合わせて約二十人程度。彼らは陰陽師でも僧侶でもない、普通の人間よ。生きた体を求め、再度、亡者達が襲いかかりはじめた。今度は、屈強な男も混ざっている。もしかすると、高い霊圧にも耐えてしまうかも知れない。このままじゃ、どんな悪魔に変化するかわからない。だから……」
 ぐっと、美玉が拳を握りしめた。
「殺したのよ」
 美玉の頬を、涙が滑り降りていく。頬の毛に染みる涙。染みきらなかった涙が、ぽたり、ぽたりとアスファルトに落ちる。
「しょうがないじゃない。生きた体が、あんなところにあったら、いけないのよ。亡者も、生者も、救えないじゃない。両方とも、殺すしかなかったのよ」
 涙声になる美玉。体が、小さく震えている。猫が涙を流す場面など、直樹は見たことがなかった。今こうして目の前にいる美玉は、猫の変化だと言うことはわかっている。しかし、今の彼には美玉が「人間」にしか感じられなかった。そして、彼女のことを疑った自分を、強く恥じた。
「登録されてる事実と、ここでかち合ったな。二十一人の人間を殺したと聞いている。そこからお前は、危険な妖怪として、名前を登録されたんだ。危険度で言うならば、上から三番目程度のランク帯だ。でも、なあ」
 苦虫を噛みつぶしたような顔で、積雷が俯いた。
「そんなことがあったなんて、なあ。何か? あたしがお前を捕縛しようとした行為自体、正しくないことじゃねえか」
 積雷が耳を倒し、しょんぼりした顔をした。
「さて、どうかしらね。私が嘘をついてる可能性もある。そういう意味では、あんたの行動は、間違ってなかったかもよ」
「なんだよ、それ。あたしはただ……」
 涙を拭った美玉に、積雷がむっとした顔で答える。と言っても、ケダモノの顔なので、表情の認識は少々難しいが。
「お前だって、ちゃんとした場所で弁解すればいいじゃねぇか」
 そうだ、積雷の言う通りだと、直樹は考えた。もしこれが、理由のあることならば、その賞金をかけている賞金元も、少しは話を聞くかも知れない。事情があれば殺人が合法になるというわけではないが、仕方がないことではあったはずだ。
「私が今までに、それをしなかったと思う?」
 するりと問い返す美玉。積雷がうっと唸り、言葉を切る。
「数度、話し合いをするために、自分から捕まりに行ったことがあるわ。でも、申し開きなんか、出来なかったのよ。本当ならば、言い訳をする機会くらいはあるはずだけれど、私にはそれが与えられなかった。<協会>に捕まった妖怪が、どんな風に処分されるか、聞いたことある?」
 処分、という言葉が、恐怖を醸し出す。死刑か、あるいはそれに準ずる何かか。説明されなくても、容易に想像はつく。
「逃げ出せたのは幸いだったわ。親切な人が、私を逃がしてくれてね。それ以来、私は言い訳をすることもやめたの」
「待て、おかしいぞ。吟味の機会くらいはあるはずだ。向こうにはテレパスだっているんだぜ? お前が言うことが、嘘じゃないことはわかるはず……」
 縛られたままの積雷が、上手く回転し、美玉の方を向いた
「嘘じゃなくてもね、私を殺しておけば、全てが解決するらしいのよね」
 簡単なことなのよ、とでも言いたげに、美玉がふふっと笑う。
「要するに、全てを一方的に私のせいにしたい誰かがいるってことよ。誰かはわからないけどきっとそいつが、山の社から亡者を出した黒幕ね。たまにあんたみたいなのが来るから、私は今まで逃げ隠れる羽目になった。襲ってくる相手から逃げるたび、私の危険度は上がっていって。ただの猫又のはずなのに、今じゃこんな高額賞金首。なんでこうなったんだか」
 肩をすくめてみせる美玉。美玉にとっては、もうそれが当たり前になってしまったのだろう。百年間、追跡者から逃げてきたのだ。どれだけ辛かったことだろう。どれだけ苦しかったことだろう。おどけてはいるが、その背中には、悲しみが見え隠れしていた。
「……世の中って汚ねぇな。くそっ」
 やるせない気持ちになった直樹は、すっかり火の消えた元式神を、力任せに蹴り飛ばした。美玉の判断は、もしかすると間違っていたのかも知れないが、少なくともそんな状況では、まだ情状酌量の余地はあるはずだ。
「ともかく、これで私は、ここにいられなくなっちゃったね。またどこか、いられる場所を探さないと……」
「そんな……大丈夫だって。ほら、土曜屋に戻ろう。吉田さんも、きっと事情を知れば、なんか考えてくれるって」
 俯き、悲しそうな顔をしている美玉に向かって、直樹が手を差し伸べる。
「……だめよ。迷惑はかけたくない。私は追跡者に襲われているもの。今まで、山の中や海のそばで、ひっそり暮らしてきた。外国にいたこともある。やっぱり、街の中で普通の人並みの生活を送ることなんて、出来ないのよ」
 美玉が目を逸らす。彼女の顔には、あきらめの色が見えた。ここで彼女がいなくなってしまったら、自分はどうすればいいのだ、と直樹は叫びだしたくなった。
 がっ!
「きゃっ!」
 気が付いたら、直樹は美玉の撫で肩を、強く掴んでいた。
「どこにも行く必要ない! 俺も吉田さんも、美玉さんが来てくれて助かってる! 一緒に帰ろう! 何かあったら、俺が、俺が守ってやるって!」
 腹に力をこめて、直樹が美玉を引き留めた。相手が誰であれ、守ってやるという、強い意志。たかだか、ラーメン屋の丁稚とは思えないほど、直樹の心は赤熱していた。例え相手が、街一つを消し炭に出来るような大妖怪でも、軍隊すら相手にならないような大悪魔だとしても、美玉を渡したくはない。そんな理不尽を、彼女に味わわせたくはない。
「ん」
 ぐっ!
「ぐえっ!」
 美玉の手が、直樹の首を掴んだ。長い爪が、ちくちくと直樹の首に食い込む。気道を閉められた直樹は、鶏が絞められたときのような声を出した。
「私は人じゃない。人間にはない力もある。私は自分だけなら自分で守れるわ。だけど、あなたは? 私のとばっちりを受けて、死んだりしたら損じゃない。覚悟、ある?」
 力を強めるでもなく、弱めるでもなく、美玉は直樹の首を持ち上げていた。つま先立ちすれば、足は地面に着くので、首が締まる恐れはない。が、この目の前にいる猫女が、自分を軽々と持ち上げられる力を持っているということを、直樹は改めて思い知った。やはり、人外は「人の外」に位置する生き物なのだろう。しかし……。
「うっさい! 関係あるか! 俺、俺……」
 言わなければ。言わなければいけない。今言わず、いつ言うのだ。
「美玉さんに、また戻ってきて欲しいんだよ!」
 直樹が、声を振り絞った。美玉の手の締めが緩くなる。その機を逃さず、直樹は美玉の手から逃れた。
「猫だとか妖怪だとか関係ねえよ! この四日の美玉さんを見るだけで十分だ! あんたがいないと、店が回らないし、お、俺が悲しいんだよ!」
 美玉の手を握る直樹。言い切ってから、いきなり恥ずかしさがやってきた。まるで愛の告白だ。顔がかぁっと熱くなる。驚いた顔をしていた美玉だったが、すぐに気を取り直し……。
 ぱぁん!
「うあ!」
 直樹の頬をひっぱたいた。突然のことに、直樹が地面に尻餅を着く。
「お願い、直樹君。聞き分けて」
 悲しそうな瞳で、美玉が直樹を見下ろした。そんなに強い平手打ちではなかった。きっと、手加減をしているのだろう。彼女の爪が突き刺さったら、大怪我では済まなかったはずだ。
「さようなら」
 美玉が、くるりと向きを変え、歩き始めた。このままでは、どこかへ行ってしまう。どこかへ……。
「叩く必要ないだろ! おい、行くなよ! 行くなってば!」
 がしぃっ!
「きゃあ!?」
 美玉の背中に、半ば抱きつくように、直樹がしがみついた。驚いた美玉が、鞄を落とす。ここで逃がしたら、もう一生会えないような気がした。情けない行動ではあるだろうが、美玉を失うよりはマシだ。こんな別れ方、ごめんだ。
「離して!」
 げしっ!
「いでぇ!」
 馬のように、後ろ蹴りを直樹にぶち込む美玉。直樹は、片足の膝を蹴り飛ばされ、軽くよろめくが、美玉を離すことはなかった。
「行くなよぉ!」
「行かないで済むなら、私も行きたくなんかないわ! でも、迷惑をかけられないから……」
「うっさい、馬鹿ー!」
 ぎゅううううう
 美玉のことを抱きしめ、直樹が叫ぶ。
「<帰る>ぞ」
「え?」
 ぼそりと言った直樹の言葉を、美玉が聞き直した。
「<帰る>ぞ! ほら、いくらでも<おかえり>って言うよ! だから、<ただいま>って言えばいいじゃんか! ほら、<帰る>ぞ!」
 美玉の猫耳に向かって、直樹は大声で吹き込んだ。
「いいの? 私、<帰って>いいの?」
 心細そうな美玉の声。まるで、雨の中鳴く子猫のような声。
「いいに決まってんだろ! もう、土曜屋は美玉さんの帰る場所なんだぞ!」
 その美玉を勇気づけるように、直樹は言葉を放った。ふっと、腕の中の美玉から、抵抗する気配が消える。黙り込み、耳を伏せ、尻尾を止めるその姿に、直樹はまた心配になってきた。
「もしどうしても行くって言うんなら、この俺を倒してから……」
「わかったわ」
「え?」
 突然、美玉の抵抗が弱くなった。と同時に、何かオーラのようなものが、彼女から立ち上り始めたような気がする。
「ほ、本気かよー! ちくしょう、美玉さんを行かせないためなら、俺は本気で戦ってやる!」
 美玉を離し、直樹が二歩下がった。見よう見まねで、ボクサーのようなファイティングポーズを取る直樹。しかし。
「戦う気なんかないよ。私、<帰る>ことにしたわ」
 くるり
 美玉は、すっかりおとなしくなり、直樹の方へ向き直った。二本に分かれた尻尾が、ゆらゆら揺れる。
「え、マジ?」
 そんな美玉の言葉が、にわかには信じられない。さっきまで、あんなにここを離れると言っていたのだ。急な変わり身に、直樹は気後れした。
「<帰る>って、いい響きだね。だからさ、おかえりって言ってよ。すっごくいいなあって思ったの」
 うふふと笑い、美玉がまた尻尾を振った。ファイティングポーズを解き、直樹が呆然として立ちつくした。美玉は、ふにふにと体を動かし、直樹の前にひょいっと跳んできた。
「ただいま」
 美玉が、猫の口をにんまりさせ、直樹に言った。
「へ?」
 どうしていいかわからなくなった直樹が、頭をフル回転させる。彼女は、帰ると言った。さっき自分は、確か……。
「……おかえり?」
 疑問符付きの言葉だったが、それでも美玉は嬉しかったらしく、うふふと笑った。
「ただいま」
「おかえり」
「ただいまー」
「ああ、おかえり」
「ただいまっ!」
「おかえりっ!」
「ただいま帰りました!」
「おかえりなさいませ!」
 何度もただいまを言う美玉に、直樹が何度もおかえりを返す。そういう遊びか何かかと錯覚するような、決められたやりとり。通行人が見たら、何をやっているかすら理解出来ないだろう。
「はぁ、はぁ、はぁ」
 とうとう息切れした直樹が、額の汗を拭った。たかだか挨拶なのに、汗をかくほど、体が熱くなっている。ただの、帰宅の挨拶が、こんなに楽しく、嬉しいものだとは知らなかった。美玉が戻って来るというのなら、なおさらだ。
「なんか……」
 美玉の顔が、一瞬くしゃっと歪む。
「すごい、嬉しい、ありがとう……」
 泣きそうになった美玉だったが、それをぐっとこらえ、直樹の手を握った。美玉の毛の感触は、まるで上等の毛布のように柔らかかった。どういたしまして、と言いたくても、何故だか言えないかった。
「けっ。三文芝居みたいな流れだな」
 ひがみにも聞こえるような台詞を、積雷が吐き出したが、美玉は聞こえていなかったようだ。直樹には聞こえたが、あえてそれを無視した。
「うん。決心ついた。吉田さんにも、本当のこと言うよ。何かいい知恵をくれるかも知れないしね」
 しゅぅ……。
 美玉の体が、また一瞬暗くなり、毛が引っ込んでいく。数瞬の後、直樹の前に立っていたのは、人の姿の美玉だった。
「じゃあ、帰ろう。帰って、いろいろと後かたづけもしないといけないしね」
 バイクの鍵を取って、直樹がエンジンをかける。その後ろに美玉が乗り、積雷の入った鞄を背負った。
「ま、待て! 結局あたしはどうなるんだよ?」
 鞄の中で、積雷がもぞもぞ動いた。
「後で決めるわ。今は保留。店まで来てもらうわよ」
 ぽんぽんと鞄を叩く美玉。積雷が落ちないよう、ジッパーを閉めた彼女は、直樹の背中に抱きついた。
「しっかり捕まっててくれよ」
 美玉の暖かさを感じながら、直樹が言う。二つの柔らかな感触が、直樹にダイレクトに伝わる。帰るまで、これを堪能できると思うと、男冥利に尽きるというものだ。ゆっくり走って……。
 ブルルルル! ルルル……。
「え?」
 エンジンが停止した。まさか、直樹の嫌らしい考えを見抜き、バイクが怒ったのだろうか。
(んなわきゃない)
 心の中で否定し、イグニッションをかける直樹。今度は、エンジンすらかからない。長い間、バイクに乗らないで放置すると、エンジンの挙動が安定しないことがある。今回もその類かと考えた直樹だったが、バイクのガソリンメーターを見て唖然とした。針は、Eと書かれた方へ倒れている。
「ええー!? もうガスがないじゃないか! リザーブまで使い切ってるー!」
「え、嘘?」
 何度か、直樹はバイクのエンジンをかけようとしたが、もうかからなかった。バイクから下りて、スターター用のレバーを何度も蹴るが、やはり起動しない。どうやら、美玉が逃げ隠れるとき、全てのガソリンを使ってしまったらしい。メーターはそんな直樹をあざ笑うが如く、無情にもゼロを示しているのだった。
「……歩こうか。確か、坂下りたところにガソリンスタンドがあったはず」
 直樹はバイクを降りた。そして、ハンドルを手に取り、ゆっくりとバイクを押し始めた。柔らか饅頭を背中で堪能するのは、どうやら無理そうだ。罰が当たったのかも知れない。やはり、悪いことは考えるものではない。


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