―――――伍―――――
〜襲い来る雷電の使者〜

「うーん……」
 うすら明かりの中、直樹が薄目を開いた。アパートの天井が見えるということは、昨日の最後にはちゃんと家に帰ったらしい。どうも昨日の終わりの記憶が曖昧で、どうやってここに帰ってきたか覚えていない。着ていたのは、昨日の服だ。部屋着にすら着替えていない。
 枕元の携帯電話を手に取ると、既に八時を過ぎている。店が開くのは十時。九時の少し前から、朝の仕事をしなければならない。用意をしなくては。
「あ、いや、今日はいいのか」
 壁に掛けてあるカレンダーをぼんやり見る直樹。今日は確か、吉田が櫛沢路から出て遠くへ行かなければいけない日だ。土曜屋は休み、することは定休日に行っているような雑事だけだ。吉田は昨日あれだけ酒を飲んでいたが、果たして問題はなかったのだろうかと、直樹は心配になった。起きあがった直樹は、顔を洗うべく、布団から一歩踏み出した。
 ぐにぃ
「あ?」
 何か柔らかい物が足に触れ、直樹は足を戻した。屈むと、そこには個別包装のチーズが転がっていた。何かおかしい。きれい好きな直樹は、いつも部屋の中を綺麗に片づけているはずなのに、今日に限って異様に汚い。酒瓶に始まり、何かの袋、食べかす、くしゃくしゃのティッシュ、雑誌に文房具。様々な物がころがっている。テーブルの上は、汚れた食器が出っぱなし。まるでハリケーンか何かが部屋の中を通り過ぎた後のようだ。
「こいつぁいったい……」
 記憶が安定しない。テーブルの上に広げた、ノートパソコンもつけっぱなしだし、テレビはビデオ入力のチャンネルが表示されたままになっている。いつもなら開いている、廊下と部屋とを隔てるカーテンも、なぜか閉じている。起きがけでぼんやりしていた直樹だったが、カーテンの向こう側から、何か音がすることに気がついた。
「なんだ……?」
 もしかして、寝ている間に泥棒でも入ったのだろうか。もし刃物でも持ってたらと思うと、怖くて仕方がない。足下に転がっていた、ビールの瓶を掴み、直樹がそろそろと玄関方面へ近寄る。
 ジャバアアアアア
 水の流れる音がする。それが、トイレからする音だと気づくのに、大して時間は必要なかった。
 がちゃり
 トイレのドアが開く。灰色のスウェットの上着に黒の膝上スカートという出で立ちの美玉が、寝ぼけ眼をこすりながら現れた。このスウェットは確か自分の物だったはずだと、直樹がタンスの中を確認すると、上下揃いのうち上だけがなくなっていた。
「起きた?」
 部屋に入ってきた美玉が、当然のように座り、置いてあったコーラの缶を空けた。
「ビール瓶なんて持って、まだ飲むの?」
 面白そうに美玉がくすくす笑う。
「あ……ううん。昼間から酒は飲まない」
 直樹は、瓶を持ちっぱなしだったことを思い出し、床に置いた。
「ところでさ……部屋がさ、汚いんだけどさ」
 すっかり呆れてしまった直樹が、少しずつ片づけをしながら美玉に言う。
「昨日はだいぶ盛り上がったからね。汚れもするでしょ」
 目の前にあった菓子の空き袋を、美玉がゴミ箱に入れた。コーラの缶からは、しゅわしゅわと音がする。確か、冷蔵庫にさサイダーが入っていたはずだ。掃除が済んだら飲もうと、直樹は思った。
「吉田さんは?」
「途中で寝ちゃったじゃん。だから河岸をここに変えたの、忘れた?」
「覚えてない。うあ、やっべぇな」
 頭を掻く直樹。いよいよもって、昨日の記憶がない。布団を押入に入れながら、昨日のことを思い出そうとすると、少しずつ記憶が浮かび上がってきた。確か、美玉と過去の話をした後、吉田がトイレから戻ってきたのだ。美玉は美玉でがんがん酒を飲むし、吉田はすっかり出来上がって秘蔵の酒などを持ってくる。そのうち、かなり飲んでいた吉田がダウン寸前になり、お開き宣言をした。
 飲み足りないとわがままを言う美玉に対して、直樹は二人で飲み直さないかと提案したのだった。酔った直樹には、自分の本性を隠すような真似は出来ず、下心があるのは見え見えだった。普通の女の子ならば、嫌な物を感じて付いては来なかっただろうが、美玉は酒を持って直樹の部屋まで付いてきた。なぜだかそこで、流行のドラマの話から、不治の病がどうとか、今の日本の医療水準は高いだとか、シリアスな話になった。
(それから……あれ……)
 それから先は思い出せない。いつの間にか、朝だった。自分は布団で寝ていたが、美玉はどこで寝ていたのだろう。今部屋の中は、足の踏み場もない状態だ。まさか、美玉が起きてから布団を片付け、また部屋の中を散らかしたわけでもないだろう。すると……。
(一緒に!?)
 はっとして、直樹は美玉のことを見た。美玉はテレビを付け、お笑い芸人が司会をするラーメン屋のグルメレポート番組を見ている。
『だーかーら、そんなつまんねぇこと言わないで、もっと飯食え飯!』
『お米ですよー? お米ですよー!』
 お笑い芸人コンビのネタで、ラーメン屋の店員達がどっと笑った。美玉も、それを見て笑っている。やましさや恥ずかしさというものが、美玉からは少しばかりも感じられない。やはり、一緒に寝てはいないのだろうか。
「あ、あ、あの、美玉さん、もしかして、宿泊、うち、うち?」
 だらだらと汗を流しながら直樹が聞いた。顔と局部に血が溜まる。
「うん。前と同じように泊まらせてもらったよ?」
 あっけらかんと答える美玉。前と同じ、ということは、もう一枚布団を敷いていたのだろうか。いやしかし、だがしかし……。
「……そうだ。つまんねぇこと考えてないで、洗濯機回さないと」
 急に冷静になった直樹は、置いてあるカゴを取り、ベランダに出た。もう着るものがないのだ、洗濯をしなければいけない。直樹所有の洗濯機は、ベランダに設置されており、洗濯をした後にすぐ干すことが出来る。最初彼は、黄砂などで洗濯機が汚れるからいやだと思っていたが、今になって考えてみれば、これはかなり便利ではある。
「ん?」
 下に、誰かいる。身を乗り出すと、そこにいたのは、昨日会った女性だった。ビールを注文した、褐色肌の女性。その後ろに、三人の男が、まるで影のように張り付いている。女性は、何かを探すように、紙切れをじっと見つめていた。
「美玉さん、昨日言ってたの彼らだよ。本当に知り合いじゃない?」
「どんな人?」
 美玉がのそのそとベランダに出た。そして、ひょいと下を見る。と、美玉の表情が、だらけきったそれからいきなり緊迫したものになった。女性が顔を上げ、美玉と目が合う。
「見つけた!」
 すぅっと下の女性が手を引く。その手が、心なしか発光しているように見える。そして、女性はその手を、まっすぐにベランダに向けて伸ばした。
「危ない!」
 直樹の首を、美玉が引っ張った。
 ジビビビビビビ!
「ぎゃああああああ!」
 いきなり、爆発音が繋がったような音が響いた。目の前にあった物干し竿が、黒く焦げ、プラスチックの溶ける臭いを発している。
「やばいやばい、なんで……」
 下から見えないように、しゃがんだ状態で、美玉がつぶやく。彼女は、直樹の頭をぎゅっと抱いていた。直樹はと言えば、その柔らかな感触に喜ぶ前に、今起きた非常識なことに心を奪われていた。
「あ、ありゃなんだよ!」
 目の前で展開する、危機的とでも言うべき状況に、直樹が身を固くした。
「私を狙ってきていることは確かね」
「狙われるようなことしたのかよ?」
「まあね。詳しく話してる暇はないわ。まず、逃げましょう」
 こそこそと部屋の中に戻る美玉。直樹もそれに続く。
 ジビビビビビ!
 またもや音が響く。ベランダの天井に向かって、青白い光の線が伸び、それが当たったところが焦げた。そこで直樹は、下にいる女性の出した何かの正体を掴んだ。電撃だ。しかも、かなり強力で、指向性のあるものだ。美玉はベランダから離れ、道側の窓に近づいた。
「よいしょ」
 箒の先に、シャツをくくりつけた美玉は、それを窓の外に差し出した。
 ビビビビビ!
「あー!」
 ボォォウ!
 あっという間にそのシャツは燃え上がり、灰となった。
「囮を使って逃げるのは無理そうね。こっちも抜け目なしかぁ」
「人のシャツ使って何してんだあんたは!」
「こういうの、、漫画で見たことない?」
「ないよ! あー、ちくしょう! 俺のお気に入りのシャツなのに!」
 当然の事をしたまで、という顔の美玉を、直樹が怒鳴りつけた。
「向こうは、本気で私たちを攻撃するつもりね。ほら、なにかいい手を考えて?」
 驚いて、転がっている直樹の上を、美玉がまたいで通った。
「んなこと言われたって、警察に電話するくらいしか……」
 がしっ
「それはダメよ。騒ぎが大きくなるばっかりで、きっと根本的な解決策にはならないわ」
 電話をかけようと、携帯電話を取り出した直樹を、美玉が止めた。
「な、なんでだよ?」
「相手は人じゃないわ。言うなれば、妖怪変化とでも言うのかしら。人の法から外れている生き物よ。警官じゃ、頼りにならないわ」
 部屋の隅に置いてあった鞄を取る美玉。中を開き、ごそごそと漁っていた美玉だったが、何かを取り出した。黒く丸い球で、先から白い線が出ている。
「妖怪が怖い?」
 妖しい目つきで、美玉が聞いた。
「怖くはない。うちの店だって、飯を食いに来る客の二割は、妖怪なんだ」
 見くびられているような気がして、直樹が憮然とした表情で返事をする。
「そう。怖くないならよかった」
 きゅっ
 美玉は、軽く直樹のことを抱いた。柔らかな感触と、ふわりと漂うお日様の匂い。堪能する暇もなく、美玉は直樹を離した。
「出てきやがれ! もうネタはあがってんだ! おとなしく出てこりゃよし、そうでなきゃ、ローストビーフにしてでも捕まえるぜ!」
 外で女性が喚いているのが聞こえる。確か、下の階のサラリーマンは今日は出張でいないし、学生は外に泊まりがけで遊びに行っている。アパートにいるのは自分たちだけだ。
「何するんすか! ビームとかマジないわ! 話し合いましょうよ!」
 妖怪であれ、会話が出来るならば、コミュニケーションも出来るはずだ。直樹は、なんとか話し合おうと、声を張り上げた。出ていかなければローストにされるというならば、出て行かざるを得ないだろうが、出ていったところであの女性が攻撃を加えない保証はない。
「うっさい! あたしゃ正義のために、そいつを捕縛しに来た! 邪魔するなら、お前も酷い目に遭わせてやる!」
「邪魔するつもりなんかないけど、そんな乱暴なことされたら困るんすよ! うちの店の大事な従業員なんすから!」
「結局邪魔するつもりじゃねぇか! 貴様ふざけやがって! ぶちのめしてやる!」
 ビビビビビ!
 女性が怒って、ところかまわず電撃を乱射し始めた。雷を操るだなんて、無茶苦茶な妖怪だ。直樹は妖怪に詳しくはないので、彼女の正体が何だかはわからない。
「あいつの正体、なんなんだ?」
「妖怪よ」
「そうじゃなくて、妖怪名だよ」
「うーん……まだわからない」
 直樹の問いに、美玉は首を横に振った。
「わからないか。もしかすると、妖怪サンダー雷電ババァとかいう名前かもしれん」
 部屋の中を漁り、直樹が言った。向こうが飛び道具で来るならば、こちらもそれで対抗せねばなるまい。しかし、そんな都合良く飛び道具が存在するはずもなく、この状況を打開出来そうにもなかった。
「今、なんて?」
「妖怪サンダー雷電ババァ」
 思いついた妖怪の名前を復唱する直樹。美玉は、ぷっと空気を吹き出し、大声で笑い始めた。
「あははははは! 何それ! サンダー雷電ババァってどういうセンスよ!」
 よっぽどツボにはまったのか、美玉が笑い続ける。
「てめぇー! ババァとか言いやがったな! おとなしく出頭して、賞金を寄こせ!」
 ジビビビ!
 声が聞こえてしまったようである。またもや電撃が来た。今度のそれは、さっきのものより強いようだ。
「賞金? 美玉さん、賞金って?」
 まだ笑っている美玉に、直樹がこそこそと話しかけた。
「せ、説明は後。今はなんとか逃げないと。ふぅぅ……」
 無理矢理に笑いをかみ殺した美玉は、鞄の中から、百円ライターを取り出した。
「下がって」
 丸い何かに、持っていたライターで火をつけた美玉は、それを窓から放り投げた。
「うわああ! んだこりゃぁ!」
「姐さん、逃げてくだせぇ!」
 下の方でわあわあ騒ぐ声が聞こえ……。
 ボフゥゥ!
 くぐもった爆発音と共に、大量の白煙が立ち上った。タイミングを合わせて、美玉が靴を履き、鞄を持つ。
「ほら、何してるの? あんたも逃げるの!」
 ぐい!
 美玉に引っ張られて、直樹も外に出る準備をした。鍵を閉める間もなく、直樹は美玉の後ろを、おたおたとついていく。階段を下り、一階へ来ると、そこは煙の海だった。
「げほっげほっ……どこだぁ! 出てきやがれ!」
 ジビビビ! ジビビビ!
 煙の中で、ベランダ方向へ向かって、女性が雷を連発している。女性だけではない。三人の男達も、女性と同じように、手から電撃を出していた。流れ弾が何かを壊さないかと、直樹は心配になったが、自分達の身だけでも助かって良かったと思い直した。
「ん……」
 口元に指を当てて、黙っているようにとのジェスチャーを取る美玉。が、しかし。運命のいたずらか、必然か。直樹はくしゃみをしたくなってしまった。鼻に何か埃が入ってしまった様子だ。
「はぁ、はぁっ……」
 なんとか我慢しようと、直樹が必死に口を押さえる。おさえる、が……。
「はぁっくしゅん!」
 とうとう直樹は我慢しきれず、大きなくしゃみをしてしまった。
「そこか!」
 ジビビビ!
「ぎゃあああああああ!」
 直樹の体に、男の一人が放った電撃が直撃した。強い衝撃が直樹を襲う。雷に打たれるというのは、このような状態なのだろう。滅多にない体験ではあるが、貴重な経験だと喜ぶ余裕はない。
「もう、世話の焼ける」
 体が動かなくなった直樹を、美玉が背負って逃げ出した。土曜屋の前まで逃げ込んだ美玉は、壁際に停車してあった、直樹のバイクを一撫でした。すると、バイクの車輪にかかっていたロックが、かちりと音を立てて外れた。
「鍵が……」
 直樹は目を丸くした。車輪を止めるU字型の鍵が、すんなりと取れてしまったのだ。これも、彼女の技なのだろうか。
「ほら、エンジン。そっちまでは出来ない」
 U字ロックを放り出した美玉が、エンジンをかけるように促す。直樹は、痺れて上手く動かない体で、ポケットに手を入れた。昨日着替えていないのだから、鍵もそのまま入っているはずだ。
「ほら、早く! 何してるの!」
 痺れを切らした美玉は、直樹のポケットに手を突っ込んだ。
「うはははは! くすぐったいくすぐったい!」
 直樹が身をよじる。ポケットから出た美玉の手には、鍵の束が握られていた。
「だぁー!」
 ジビビビビビ!
 女性と一緒にいた男の一人が、直樹めがけて電撃を飛ばした。美玉が直樹を引っ張ると、電撃は土曜屋の玄関引き戸にぶち当たった。
 ボォォウ!
「うわあ! も、燃えてるー!」
 土曜屋の玄関が燃えている。電撃がガラスを通過したのか、内側にかけてある暖簾も燃えている。たしかこの玄関は、木の暖かみがどうとか、匂いがどうとか言って、見目や質感にこだわったものにしてあったはずだ。鉄筋コンクリートなどより、よっぽど燃えやすい。
「火事火事火事! やべぇぇ! 消防に電話しないと!」
「私がここにいたらもっと被害が広がるのよ。早く逃げよう」
「だ、だから、まず消防に電話を! うわー! いちいちきゅうって何番だっけ!」
 あわあわしている直樹を後目に、美玉がバイクを起動させようと、そこらをいじり始めた。
「はっ、逃がすか!」
 もう一人の男が、体全体をバネにして、美玉を捕まえようと飛びかかってきた。
 ごぉん!
「ふげ!」
 男の顔に、美玉の投げたヘルメットがぶつかった。それと同時に、鍵を回してスターターをかける美玉。轟音を立てて、バイクが始動する。
「スクーター以外のバイクは乗ったことないのよね。えーと、たしかこうで、こう」
 美玉がバイクに跨り、直樹を後ろに乗せた。
 ぎゅうううううん!
 バイクがその場でぐるりとターンして、道の方向を向いた。
「ひぃ!」
 初心者の駆るバイクに乗っているという事実が恐ろしい。バイクはぐんぐん加速し始めた。
「美玉さん、クラッチ! クラッチ! 足んところと手んところで!」
「わかってる! 映画で見たことあるもん!」
 美玉がクラッチを入れ、ギアをチェンジした。直樹は、落とされないよう、しっかり掴まっていた……はずだった。が。
 ぽろ
「あ」
 直樹がバイクから転がり落ちた。体が痺れていて、ちゃんとしがみつけなかったらしい。すかさず、男が二人がかりで直樹を押さえつける。
「わあああ! 助けてくれよ!」
「無理! ごめんねー! 後で迎えに来るからねー!」
 ぶおぉおおおおおん!
 転がった直樹を回収する素振りすら見せず、美玉はスピードを上げる。器用にギアを上げ、さらなる加速を得たバイクは、どこかへと走り去った。
「あー! 置いてかないでくれよぉぉぉ!」
 直樹がバイクの排気ガスに向かって叫んだ。が、美玉の姿は、もう影も形も匂いすらも残っていない。
「ははは、あの女に関わったのが運の尽きだな。諦めろ」
 女性が、とても嫌らしい笑顔を浮かべながら、直樹の前に仁王立ちした。
「じゃあ、姐さん。俺らは追跡をします」
「おう。気ぃつけてな」
 男三人は、美玉が消えていった方向に向かって走りだした。残されたのは、直樹と女性だけ。見た目こそ普通の女性だが、他にどんな隠し芸を持っているのか、わかりはしない。
体は上手く動かないし、バイクもなくなったし、どこへも逃げることは出来ないだろう。どんな目に遭うのか、とても恐ろしい。
「さぁーて。お前、あの女について知ってることを、洗いざらい吐いてもらおうか」
 女性の肩に担がれる直樹。抵抗する術もなく、彼は運ばれて行った。


「んっ、んっ、んっ……ふはー! やっぱ発泡酒じゃないビールは美味ぇな! 悪いな、もらっちゃって!」
 ようやくきれいになった直樹の部屋で、ジョッキに注がれたビールを、女性が飲んでいる。このビールは、貧乏な彼がいつか良いことがあった日に飲もうと、冷蔵庫に大切に保管していたものだ。昨日の飲み会でも、これは温存していたらしく、冷蔵庫にちゃんと入っていた。それがこんな形で無くなるとは、思いもしなかった。別に要求されたわけではないが、彼女に対してちゃんとした応接をしなければ、電撃で黒こげになるかもしれない。そう思うと、とっておきを出さざるを得なかった。
(くそ……俺の大事だったのに……)
 情けない顔で、部屋の隅に三角座りをする直樹。半ば焦げた物干し竿には、洗濯を終えて干した服がはためいている。
「なんかイヤーな顔してるが?」
 興が削がれるとでも言いたげに、女性は直樹のことを睨み付けた。
「いや全然」
 とっさに目をそらす直樹。ここまでご機嫌を取ったのに、また気を悪くされてはたまらない。
「ちっ、なんだよ。あからさまに不機嫌になりやがって。客に飲み物を出すのは常識だろ?」
 女性も、少なからず不機嫌になったようで、ぐいぐいとビールを飲む。
「俺は客だと思ってない。シャツも燃やされるし、感電もするし。そら、こんな目に遭えば、不機嫌にもなりますわなあ」
 本音が口をついて出てしまう。命の危険と隣り合わせだという状況でも、悪態をつくくらいのバイタリティは持っているつもりだ。
「いいか? あたしはいつでも、お前をひどい目に遭わせることが出来る。シャツ一枚にこだわることも出来ないようにしてやろうか?」
 パリパリと、ガラスのジョッキを握る手が音を立てる。
「へいへい、お嬢様の言うことに逆らうつもりはございやせんて」
「よーし、それでいい。かわいいぞ。ピアスがよく似合ってる」
「そいつは嬉しい」
 皮肉じみた物言いの直樹に、積雷が大きく頷く。
「……ったく、扱いづらいったらありゃしねえ」
 直樹が小さな声で独り言を言った。
「ふう……じゃ、一息ついたところで、質問を始めようか」
 女性は直樹の言葉を無視して、五○○ミリリットルの缶の中身を全てジョッキに注ぎ、空にした。
「その前に、名前ぐらい教えてもらえませんかね」
 女性に向かって直樹が言う。彼女の口の周りについている泡が気になって仕方がない。ビールに対する未練が消えていないのだ。自分はそこまでセコい人間だったのかと、直樹は久々に思い知った。
「セキライだ」
「セキライ?」
「うん。イメージ、積む雷。自分でつけた。OK?」
 積む雷。積雷。積乱雲は雷を生むとも言うし、彼女の特徴を表した名前ではあるだろう。が、しかし。
(そんな名前を恥ずかしげもなく……)
 直樹は、はあとため息をついた。一般的な日本人の名前ではない。自分でそんな名前を付けるとは、なんというか……。
「あたしが自己紹介したんだから、次はお前だ。名前を教えろ」
 口の周りの泡を、積雷が手の甲で拭った。お世辞にも、お上品な仕草には見えない。美玉とは大違いだ。
「直樹……常田直樹」
「トキタナオキだな。よし、覚えたぞ」
 不本意ながら、名前を名乗る直樹。そういえば、昔読んだ漫画では、妖怪に名前を教えるのは危ないということが書いてあった。真名がどうだとか、操り人形になるとか。
 固有名詞は、読んで字のごとく、その本人にしか当てはまらない名前だ。同姓同名という、あまり一般にないパターンもあるが、基本的に個人の名前はその個人以外に使われることはない。だから、「扉」という一般名詞や「人間」などという種族名詞と違い、その個人を縛り付けるのに非常に強力な意味を持つのだという。
(……まあ、いいや。どうせ逆らったらひどい目に遭うんだ)
 半ば投げやりに、直樹は心の中で諦めた。この女性が自分を操り人形にするにせよ、ローストビーフにするにせよ、もう逃げられる算段もないし防ぐ方法もないのだ。おとなしく、なすがままにされて機嫌を取った方が、生き残る可能性としては高い。欲を言うならば、五体満足で生き残りたいところだ。
「まず、あの女の年齢だ。答えろ」
 積雷の尋問が始まった。ポケットから出したメモ帳に、なにやら書き込み始める。
「……知らない。詳しくは聞けなかった」
 ふてぶてしい態度を崩さず、直樹は質問に答えた。
「前に住んでた場所は? 地名は?」
「知らない。いきなりやってきて、ここは住み込みだから大丈夫だろうって」
「以前はどんな職業に就いていた? 何をしていた?」
「知らない。でも、接客は上手い。大学時代は心理学を専攻してたらしいよ」
 知りたい情報が、何一つ手に入らないという状況に、積雷がいらつき始めた。
「んがぁー! なら、何なら知ってるってんだよ!」
 がちゃん!
「っくー!」
 メモ帳を放りだして、積雷がテーブルを両拳で叩いた。が、予想に反してテーブルが固かったのか、拳を痛そうにさすった。
「知ってることなんかほとんどないんだよ。酒飲みで、接客が上手くて、あとイチゴが好きとかなんとか言ってた気がするけど、それ以外は……」
「んだよ、役に立ったねぇなぁ……」
 最後の最後までビールを飲みきり、積雷はふはっと息をついた。
「白沢さんがなんかしたわけ? ここまでするって異常だと思うけど……」
 やや批判的な語調で、直樹は女性に問いかけた。
「白沢? 誰だそりゃ」
 怪訝そうな顔で、積雷が聞いた。
「あんたが追ってる人でしょ。白沢美玉って……」
「待て待て。なんかおかしいぞ」
 ぴたり、と積雷が指を出し、直樹の唇に当てる。
「あたしが聞いてるのは、猫沢美玉だ」
 誰だ、それ。と直樹は問い返したくなった。今追われているのは白沢美玉。彼女が追っているのは猫沢美玉。一文字違いの女だ。
「まさか人違いで、人ん家に襲撃を?」
 怒りがふつふつと沸き上がり、積雷を睨み付ける。
「そんなはずねえよ。ほら、これ。あの女の写真だべ?」
 積雷が、ポケットから一枚の写真を出した。そこに映っていたのは、他ならない美玉その人だった。着ている服まで、最初に出会った時と同じだ。が、しかし。何かおかしい。いつもならふんわりとした雰囲気で、ぼんやりしているはずの美玉が、かっと目を見開き、何かと対峙している写真だ。雰囲気が違うと言えば違う。
「考えてもみろ。なんの関係もない女が、追跡者相手に焙烙玉なんか投げるか?」
「ほうろくだまがわからん」
「手投げ爆弾の一種だ。あいつ、投げてたろ? だいたい、ただの女が、危機的状況からとっさに逃げ出せるはずないだろう。まず警察か消防に通報して、部屋の中に立てこもって助けを待つのが普通だ」
 指摘されて、直樹もようやく気がついた。白沢美玉は追われることについて知っている様子だったし、現に襲撃を受けても冷静に逃げ出した。使っているのも、普通では手に入らないような小道具……有り体な言葉を使えば兵器や兵具に当たるものだ。まっとうな女性が、あんな危険物を持ち歩いているはずはない。 
「しかし、なあ。賞金って言うけど、美玉さんを捕まえて警察に突き出すと?」
 たった四日ではあるが、美玉を見てきた直樹には、美玉が危険な人物である実感が湧かない。
「賞金元は警察じゃねえな。ちょいと、普通の人間にゃ縁がねぇ場所でな。あいつは、犯罪者として登録されてたんだ」
 あぐらをかき、にやにやと笑う積雷。あれだけ危険なところを見せつけられたのに、なぜか憎めない。それというのも……
(この! 胸が! そして尻が!)
 いけないのだろう。男の悲しい性である。
「ま、いい。首尾良くやれば、あたしの式が、あの女を捕まえるころだ。高い金出して買ったんだぜ」
 式というのがなんなのかはわからないが、恐らくあの三人の男のことであろう。式、という言葉から連想されるのは、式神。陰陽師が使うという使い魔だという話を聞いたことがある。ということは、彼女は呪術師なのか。
「ところで、おかわりない?」
 直樹のそんな思考を、まるっきり無視した積雷が、にこにこ顔で空になったジョッキを差し出した。
「もうないよ……」
 そうだった、大事なビールを飲まれたのだったと、直樹は肩を落とした。


 櫛沢路はかなり広い街だ。市内中央には大きな川が流れ、東部と西部に分かれている。市内を斜めに横断するのは、高速道路と新幹線の線路だ。櫛沢路は海と山に面し、東側に海、西側に山があるため、海側、山側といった比喩をする。土曜屋は、ぎりぎり西部中央に位置しており、美玉の乗るバイクは山側へと逃げていた。
「まずいなー……」
 先ほどの位置からそれほど遠くない繁華街、コンビニエンスストアでバイクを降りた美玉が、周囲を警戒した。うろついている歩行者の中には、追っ手はいないようだ。バイクのエンジンを切り、ガソリンメーターを見る。既に、針はかなり危ないところを指しており、それほどガソリンが入っていない。恐らく、直樹はぎりぎりまで給油をしない性格なのだろう。美玉はこれ以上の走行は危険だと判断していた。
「給油したいなあ……」
 先ほどの位置から、まだ安全圏へ逃げ切っていない。直樹をなんとか回収出来ないかと、わざわざ遠くに一度逃げた後、こっちへ戻ってきたのだ。こんなことならば、戻る前にガソリンスタンドに入ればよかった。こちらで給油したら、ノズルが刺さっている間に、奴らが来て、その場で捕まってしまうだろう。
「どうしよ……迎えに行かないと、何されるかわからないし……」
 直樹のことをぼんやりと思い浮かべる美玉。ここ数日間しか、一緒に行動していないのに、ただそれだけの理由でひどい目に遭うのは、彼にとっても割に合わないだろうし、かわいそうだ。それに、出来るだけ関係のない一般人を巻き込みたくはない。せっかく吉田に無理を言って、住み込みで働かせてもらってもいるのに、その環境をうち破る事もしたくないが、今回の事件を上手く隠蔽するのは難しいかも知れない。
(玄関も燃えちゃったしなぁ……)
 焦げる玄関の図が、美玉の頭の中で再生された。吉田は、あれを見てどんな顔をするだろうか。悲しむだろうか、それとも。
(……色々考えても仕方ないなあ。地図を買って作戦を立てよう……ついでにお昼ご飯も買おう。お腹空いちゃった)
 コンビニエンスストアの中に入る美玉。流れている曲は最新ヒットチャートで上位に食い込んだポップスだ。まだ春は真っ盛りで、花粉症対策と花見のコーナーが設けられている。適当に、櫛沢路の地図とおにぎりを取り、レジに向かう。財布をちゃんと持っていたかと、スカートのポケットに手を入れ、美玉は確認をした。
(直樹君……)
 ぼんやりと、美玉が直樹のことを考える。彼は自分にそれなりに懐いてくれている。まだ四日目だというのに、フランクに会話の出来る仲になった。彼には、自分のことはあまり知られたくない。自分の「本性」は……。
「いらっしゃいませ」
 野太い男の声で、店員が言った。何の気なしに顔を上げて、美玉がぎくりとする。そこにあった顔は、先ほど直樹と美玉に向かって電撃を放っていた男の一人だったからだ。コンビニ店員の服は着ているが、顔はアメリカ映画の悪役のようで、とてもミスマッチだった。
「もう逃げられやせんぜ」
「おとなしくするんだな」
 雑誌を立ち読みしていた客と、酒コーナーを物色していた客が、後ろから美玉に詰め寄る。それらも、女の手下だ。
「あ、やっぱいいです。返却しといてください。じゃ」
 ガー
 自動ドアの前に立ち、美玉は外へ出ようとした。
「待てや、ごら」
 がし
 その肩を、男の一人が掴んだ。と……。
「い、いやあああ! 変態ー! 誰か、誰か助けてぇぇぇ!」
 美玉は叫びながら外へ転がり出た。歩道を歩く歩行者が、何事かとコンビニエンスストアの方へ振り向く。
「え、あ、いや……こ、これは違うんです」
 急に衆人の元へさらけ出された男が、弁解をしようとわたわたし始めた。隙をついて、美玉は男の元から逃げ出し、集まり始めた野次馬の中から、一人の高校生男子を選んで抱きついた。
「あ、あの人たちが、私を手込めにしようと! お願いですぅ、助けてください!」
 涙声で訴える美玉。半分は演技ではない。もし捕まったら、何をされるかわからないからだ。自分が賞金首であることは理解している。だからこそ、逃げ回らなければいけない状況も理解している。今までは人目につかない土地に住んでいたから、そんな心配もなかった。人恋しさに人里で生活をしようと思ったのが、間違いだったのかも知れない。
「おっさん、あんたらどういうつもりよ」
 少年は、泣きべそをかく美玉の姿を見て、闘志を奮い立たせたらしい。つかつかと、男達に詰め寄る。
「もしもし、警察ですか。え? あ、私ではなくて……」
 その隙に、別の野次馬が携帯電話で通報をし始めた。これは美玉に形勢が傾いているだろう。心の中で、美玉がほくそ笑んだ、そのときだった。
「聞いてください! その女は、当店で万引きをした疑いがあります! 拘束してください!」
 店員服の男が、野次馬に向かって叫んだ。今度は、美玉に視線が集まる。
(やばっ)
 美玉がたじろいだ。このままでは、野次馬の手で捕まってしまうことだろう。もし警察が来て、彼らの言うことを信じたら、さらに敵は増える。
「そうです! 俺も見ました!」
 もう一人の男も叫ぶ。三人が口を揃えて、美玉のことを万引き犯と言うならば、例えそれが嘘であっても不利だ。こうなったら、一人に泣きついて、味方を一人でも作る方が得策だ。先ほどの少年に、もう一度抱きつく。
「あの人達の言うことは嘘です! でたらめです! 私、万引きなんてしてません! あなたなら信じてくれますよね!? 監視カメラを見ればわかります!」
「騙されないでください! そいつはもう二度目です! もう逃がすわけには行かないんです!」
「あ? え? い、いや、俺は……」
 両面から説得されて、少年は困惑してしまった。この年頃の少年には少々酷かも知れない。コンビニ店員の言うことを信じるか、女性の言うことを信じるか、二つに一つ。とんでもないとばっちりだが、これも運命だろう。
「あ、警察」
 誰かが呼んだらしい警察車両が、サイレンを鳴らしながらやって来た。あまりにも早すぎる。きっと、近くを巡回していたパトカーが、通報を受けてここに向かって来たのだろう。男達に隙が出来る。その隙をついて、美玉はバイクまで走り、エンジンを始動した。
 ドルルルルル!
「うおお!」
 男の一人がバイクを止めようと前に立ちはだかった。ぐんぐん美玉がスピードを上げる。
 ぶぉおん!
「ぎゃあ!」
 男の横スレスレをすり抜けたバイクは、道へと駆け出した。ともかく遠く、遠いところへ逃げなければいけない。美玉はバイクのギアを変え、さらに加速した。


 所は直樹の部屋へと戻る。直樹は、この危険な女性を、どうやって部屋から追い出すかをずっと考えていた。直樹の頬には張り手の跡が一つ。これは、ジョッキを片づけようとしたとき、誤って積雷に向かって倒れたせいだった。怒った積雷は、直樹のことを平手打ちして「次やったら消し炭な」と言った。平手打ちはとても痛かったが、積雷の体の柔らかな感触は、直樹の心を掴んで離さなかった。
「まだかー?」
 積雷が台所の方へ顔を出す。彼女が催促しているのは、昼食だ。美玉がここを出てから既に一時間。昼には少し早い時間だが、積雷はすっかり腹を空かせて、直樹に食事を要求した。仕方なく料理をする直樹だったが、あまり乗り気ではない。美玉はどこをぐるぐる回っているのかはわからないが、戻って来る様子もないし、捕まった様子もない。無事ではあるのだろうが……。
「今出るよ」
 出前でも受けたかのように、直樹が返事をする。土曜屋は出前サービスをしていないので、実際にこんなやりとりをしたことはないが。
 彼は怖くて仕方がなかった。機嫌を損ねるのもそうだが、部屋を荒らされるのも困る。積雷がどんな人間かはわからないが、人を嬲るような行為は嫌いではなさそうだ。家捜しでもされたら、せっかく片づけた部屋が、また汚くなってしまう。
(くっそー……美玉さん、早く迎えに来てくれよぉ……)
 かちゃかちゃと音を立て、シンク上の棚から食器を出す直樹。棚に入っていた深皿を二つ取り、フライパンの中身を流し込んだ。今作っていたのはチャーハンだ。その場にあった、残ったつまみやなんかを無茶苦茶に混ぜた、本当に手抜きの料理である。二つの皿と、サイダーの入ったペットボトルを二本手に持った直樹は、部屋の方へ戻り、テーブルの上に皿を置いた。
「おお、美味そう!」
 積雷がスプーンを取り、皿を受け取る。いただきますの言葉もなく、積雷はスプーンを手に取り、チャーハンを食べ始めた。
「くぅ、美味いな。サラミってチャーハンに入れても合うんだなあ」
 ペットボトルを一本取り、中身を喉に流し込む積雷。お世辞にも上品な食事法とは言えない。ワイルドという言葉が似合う。
「そんなにがっつかないでも……」
「ばっか、こう見えてもあたしゃ忙しいんだよ。忙しい女は食うのも早くなくちゃいけないの」
 もう一皿を平らげてしまった積雷は、すたすたと台所へ行き、少しだけ残っていた残りを取った。そして台所で立ったまま、それをぺろりと平らげた。
「うー……」
 何とも言えず、直樹が自分の分を食べる。サイダーを飲もうと、ペットボトルに口をつけたとき、数日前の休日に、美玉と間接キスをしたことを思い出した。
(あの人、一見普通の女の人だったもんなぁ……)
 直樹が知っている美玉の情報は少ない。その中では、催眠術が使えることと、鞄の中に武器を持っていること、そして身軽であることくらいしか、戦闘に役立つことはない。あの屈強な男を三人も相手にして、無事でいられるだろうか。
「なんか、飯食ったら眠くなってきたな……」
 あぐらのまま、壁の柱に背を預け、大きく口を開けて積雷があくびをする。
「眠い?」
「春だしな。最近、寝不足だし……」
 直樹の問いに、おざなりに答えた積雷は、目を閉じた。そしてそのまま寝息を立て始めた。なんとも寝付きが良い。
「積雷……さん?」
 名前を呼ぶが、返事がない。顔の前で手を振るが、それにも反応しない。この短時間では、熟睡とまではいかないだろうが、もう寝入ってしまっているようだ。
(今の間に……)
 今の隙ならば、なんとか逃げられるかも知れない。立ち上がった直樹が、そろり、そろりと、足を運ぶ。外に出るには、まず積雷の前を通らなければならない。足音をたてずに……。
 ばっ
 積雷の前を横切ろうとした瞬間に、彼女は目を見開いて、直樹の足を手で鷲掴みにした。ぎりぎりと、強い力で足を握る。
「うお!」
 そのあまりにも素早い動きに、直樹が驚愕の声をあげる。
「あ……なんだ、毛布かけようとしてくれたんか。悪りぃ」
 直樹に謝罪する積雷。何を言っているのか、と思った直樹だったが、すぐに気が付いた。直樹のすぐ横に、朝散らかっていた毛布を畳んだものが、置いてあったのだ。
「お前、優しいんだな。いきなりこんな目に遭って、怒ってるかと思ったが」
 直樹のことを正面に見据えて、積雷が微笑む。彼女が敵であると、直樹は一瞬忘れそうになった。積雷の目は、とても真っ直ぐだ。悪意がある様子はない。美玉を捕まえようとしたのには、何か理由があるのかも知れないと、なんとなく思った。
「! ……だめか」
 甘い空気は、すぐに消えてなくなった。積雷が、宙を見つめて、何かを呟いた。彼女の野球帽が揺れた気がする。
「この街の地図を出せ。紙の地図あるか?」
 片手を振って、積雷が直樹に地図を出すように促した。
「地図? それならここに……」
 直樹は壁にかけてあったカレンダーを外した。市民カレンダーには、簡単な地図がついている。大まかな地形は乗っているが、細かいランドマークは乗っていない。
「上出来。こいつを、こうして……」
 ポケットから、芳香剤の玉のような、透明で小さな粒を数粒出す積雷。それをころんと地図の上に乗せる。すると、四粒の玉だけが地図の上を滑り、三粒は青色に、一粒は赤色に変化した。赤色の玉は、まるで意志を持っているかのように、少しずつ少しずつ動いている。青色の玉はと言えば、地図中央部分で止まったままだ。ちょうどこの位置は、土曜屋がある場所の近く。確かコンビニエンスストアがあったように記憶している。
「ん……」
 口で、効果音のようなお経のような言葉を唱えながら、積雷は青色の粒を指で転がした。ころ、ころ、ころと、赤色の粒の方向へと動く青い粒。赤色の粒は動きを止めることなく東側へ向かっている。青色の粒は、大きな道をなぞるように動き、赤色の粒の方向を目指した。青色の粒に比べて、赤色の粒の動きは早い。
「こうするとな、式神が、あたしという目を通して、ターゲットを正確にトレースするんだ。お前も見たろ? あの男達はみんなあたしの式神なんだよ」
 ま、自分で作ったわけじゃないけどな、とにやにやと笑う積雷。彼女は式神と言った。ということは、買ったというあれらは、彼女の命令を聞いて行動するしもべなのだろう。筋骨マッチョな男を式神として操るには、目の前の女性はひ弱に見えた。しかし、電撃の強さを見る限り、かなりの力を持っているようだ。漫画の中で読んだような世界が、今こうして目の前にあることを考えると、あまりリアリティはない。
(でもま、妖怪自体がアンリアルだもんなあ)
 いつも店に来る常連のことを考える直樹。例えば、とある狐の男性は、土曜屋に来る妖怪の中では、かなりの常連だ。彼も本当ならばアンリアルなのに、自分が生きる世界に普通に存在してしまっていることで、リアルに感じている。感覚が麻痺しているのだ。
「ターゲットっていうのは?」
「猫沢だよ。今あいつは、時速五十キロメートル程度で巡航している。あ、信号で止まったな」
 女性が地図の上を指さす。確かに、交差点がある位置で、赤い玉が停止していた。つまり、この地図はリアル櫛沢路の縮図であり、青い粒と赤い粒がそれぞれ男と美玉を表しているのだろう。
「……もし、美玉さんがおとなしく捕まらなかったら?」
 積雷のことを、直樹が強く睨み付ける。
「そのときどうしようと、あたしの勝手だろう?」
 憮然とした顔で、積雷が答える。ただで済ませるつもりがあるとは思えない。かといって、雷と式神を操りながら、平和的な話し合いを切り出すとも思えない。
(もしか、して……)
 ふっと、美玉が黒こげになり、地面に突っ伏す姿が脳裏に浮かんだ。どうあっても、逃れられない。積雷は戦闘をする気だ。殺される? このままでは、美玉が危ない?
「だぁー!」
 べしぃ!
 その考えに思い至ったとたん、直樹は地図をひっくり返していた。何の魔術か知らないが、粒をどかしてしまえばいいのだ。そうすれば、きっと美玉は無事に逃げる事が出来る。だが、粒は予想に反して、地図の上に張り付いたままだった。
「ぬぐうう!」
 青い粒に手をかけ、紙から剥がそうとする直樹。が、瞬間接着剤ででもくっついているかのように、粒は紙から離れようとしない。
「無駄無駄。んなことしても意味ねぇっつの」
 積雷が直樹を鼻で笑う。
「はぁ、はぁ……」
 どれだけ力を込めても無駄だった。粒は離れない。それならば、地図を破けばいいのだ。
「でぇぇぇぇい!」
 力を込め、地図を破こうとする直樹だったが、ただの紙だったはずの地図は、まるでケブラーかスペクトラで出来ているかのように丈夫になっていた。歯が立たない。そうしている間にも、赤い粒と青い粒が近づいていく。
「どうしてあの女をかばうよ。たかが四日一緒にいただけの女に、仲間意識がそんなに強く感じられるわけでもあるまいよ?」
 荒い息の直樹に、積雷が問う。
「そうだなあ……」
 ぐっ
「パフェ食う姿が、かわいかったからかね」
 紙を破こうとする手に力が入る。あの顔のためならば、少しくらいの無理ならしようというものだ。それが、男の意地だろう。
「惚れたか?」
「ああ、惚れたね」
 紙も破けないし、表面の粒もどかせない。さっきまで、ただの紙だったはずだが、何か妖術のようなもので強化されているのだろうか。ライターがあれば焼けるのだろうが、あいにくと直樹はタバコも吸わないし、ライターを持たない。
「ったく。男ってのは、これだから手に負えねえ。これ以上邪魔するようなら、お前も黒こげだって言ったよな?」
 パリパリパリ……
 小さな音で、積雷の手が爆ぜる。帯電を始めたようだ。
「殺すつもり? マジで?」
「大丈夫。抵抗出来なくするくらいで勘弁してやるよ」
 まるで、静電気を帯びたかのように、積雷の髪が逆立った。回りに、避雷針になるようなものはない。直撃は避けられない。と、次の瞬間。
 ぼんっ!
「わあ!」
 地図が火を噴いた。正確には、地図自体が火を出したわけではない。表面についていた、青い粒の一つが爆ぜたのだ。
 ぼんっ! ぼんっ!
 残りの二つも、同じように爆ぜた。カレンダーが焦げ、白い煙を出す。
「臭っ!」
 まるで、プラスチックでも焼いたかのような臭いが、部屋に充満した。その焦げる臭いに、耐えられなくなった直樹が、慌てて窓を開く。畳の上で、粒から出た火がカレンダーに移り、ぷすぷすと煙を出していた。赤い粒は、急速に色を失い、元の透明な粒に戻った。
「な……お、お前!」
 積雷が警戒気味に身を引く。彼女の足がテーブルにぶつかり、テーブルの上にあった空のペットボトルが倒れた。皿の中のスプーンが滑り降り、かちゃんと音をたてる。どうやら積雷は、地図に起こった異変を、直樹がしたものだと勘違いしたらしい。この状況は利用出来ると、直樹は直感で判断した。
「そうだよ。俺がやったんだ。あんまりにも舐められっぱなしじゃ、この俺に流れる血が泣くからな!」
 ぱんっ、と右の二の腕を叩く直樹。実際に流れてる血は、大したものじゃないが、こうしてはったりを利かせ続ければ、なんとか騙せるかも知れない。
「てめぇ……何者だ?」
 あからさまに警戒した様子で、積雷が両腕に帯電を続ける。さっきまでビールを飲んでチャーハンを食べて喜んでいた女性と、同一人物だとはとても思えない。
「名乗るのもおこがましいしな、あえて名は言わない。あんたの方が、詳しいんじゃないのか?」
「な! まさかお前……」
 直樹が一歩前に出ると、それに合わせて積雷が一歩下がる。
「……ははっ。まさかこんなところでお目にかかれるとは思わなかった。二十代の男の姿で現れるっていうから、どんな面してんのかと思えば、冴えねぇじゃねえか」
 何を勘違いしたのか、積雷が軽く戦闘態勢を取った。どうやら、誰かと間違えている様子だ。その誰かが、どんな人物かはわからないが、積雷の緊迫具合から見て、虎の威を借りる効果ぐらいはありそうだ。
「こうなると、ますます生かしてはおけねぇなあ! 悪いが、少々眠ってもらうぜ! いくらお前でも、最大でやりゃ少しは効くだろ!」
 パリパリパリ!
 積雷の腕が強く帯電した。こんなものを受けたら、ロースト直樹になってしまう。
「わー! 待て待て待て! 俺を攻撃したら、この部屋に張り巡らされた罠が感知して、ただじゃ済まないぞ!」
「なにぃ!? くそっ、こしゃくな真似をしやがって!」
 当てずっぽうな直樹の言葉を、またもや積雷は信じた様子だ。攻撃態勢を解き、直樹のことを睨み付ける。
 どうやらこの女性は、人の言うことを、疑いもせず信じてしまうらしい。思えば、先の美玉に関する尋問でも、直樹の言ったことを疑わずに、すんなり信じてしまっている。これは使える、と直樹は考えた。
「い、今すぐ美玉さんの追跡をやめればよし、そうでないとどうなるかわからんぜ」
 積雷へ、プレッシャーをかけるように、直樹は言葉をぶつける。
「くそっ! そう簡単に引けるかよ! あたしはこれで稼いでんだ! 今月だって赤字だし……」
 積雷が叫ぶ。いきなり、話が現実的になってきた。今まで、ただのハンターでしかなかった積雷が、いきなり普通の人間のように見えてしまう。
「だ、だからと言って、なんの変哲もないただの女を、捕まえて換金してもいい理由にはならない」
 少々戸惑いながらも、直樹が反論する。その言葉に、最初きょとんとしていた積雷だったが、すぐに声を大きくして笑い始めた。
「……なんだよ」
 その笑い方がしゃくに障った直樹は、積雷のことを睨み付けた。
「さっきもそんなこと言ってたな。お前ほどのやつが、そんなことも知らんのか?」
 どうやら、積雷が勘違いをしている人物は、このくらいのことは知っているらしい。直樹がまた言葉に詰まる。
「あ、あいにくと世間の情報には疎いんだ」
「ま、いい。本人に聞いてみればいいじゃねえか。テレパシーでもなんでも使ってよ。お前、使えんだろ?」
 挑発的に言う積雷。直樹は、だんだんと追い込まれてしまった。が、ここで本当のことを知られるとやばい。
「道理だな。お前に聞くより、よっぽど正確な情報が手に入りそうだ。そうしよう」
 ふっと、直樹が笑った次の瞬間。
 ジビビビビビ!
「ぎゃああああああ!」
 直樹を強い電撃が襲った。さっきの物より数段強い。体が痺れるだけではなく、目の前がばちばち言っている。五感が上手く動作しない。
「はっ、バカが。お前が本物だったら、テレパシーなんざ使えるはずねえだろ。くだらん嘘つきやがって」
 ざっ
 直樹の前に、積雷が足を置いた。逃げだそうにも体が言うことを聞かない。金縛りのような状態だ。
「数日過ごしただけのお前でも利用価値はあるな。一緒に来てもらう。あの女本人から、過去に何があったのかを、たっぷりと聞けばいいさ。悪いが、これも商売でな」
 積雷が、マグロでも抱えるかのように、直樹を抱きかかえた。抵抗も適わない。何より、皮膚感覚や三半規管が半ば死んでいて、自分の状態がよく理解出来ない。直樹はただ、おとなしく連れていかれるしかなかった。  


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