―――――参―――――
〜ここに見えるは何かの断片〜

「買い物って楽しいねー」
 袋いっぱいに、いろいろなものを買った美玉が、にこにこ顔でクレープを食んだ。広い吹き抜けのホールに設置してあるベンチに座る二人は、一つずつクレープを持っている。このクレープも、なんたらかんたらの賞がどうとかいう話だが、詳しくは覚えていない。直樹には少し甘すぎるが、美玉は美味しそうに食べていた。
「俺も必要なもんがそろったし、よかったよ」
 直樹は荷物の袋を見ながら、今回買った品を、頭の中で確認した。荷物のうち、七割が美玉の買った品である。美玉は新たな生活を始めるのに必要なものを、どんどん購入していた。しかし、それほど持ち合わせがあるわけではないようで、中には長く使えそうもないような、数あわせの使い捨て品のようなものもあった。だが本人は、そんな安物買いをしても「大丈夫、使えるわ」と、大して不満な顔はしないのだった。
(しかし……)
 直樹が隣にいる美玉の顔をちらと見る。吉田に謎の催眠術を使っている場面を見た直樹には、どうも彼女が普通の人間には思えない。だからなんだというわけでもないが……そういえば、魔法使いなどは実年齢と外見が合わないと聞く。
『おほほほほ、直樹くうううん!』
『ぎゃああああ! 来るなあああああ!』
 しわくちゃな肌で迫る老婆の姿が、一瞬直樹の脳内に再生された。
(ないよな、ないよな! さっきは、年齢のことで、俺より年下だみたいな言い方してたし!)
 頭を軽く振り、直樹が必至に想像をかき消す。そんなおぞましいことがあってたまるか、たまらないのだ。
「このイチゴの周りのぷちぷち。種だって知ってた?」
 美玉が、クレープの中に覗くイチゴを見せた。
「ああ、うん。学校で習った」
 唐突な話の展開に、少し気後れした直樹が答える。
「この種を蒔いて、育ったとしたらこんだけの数の苗が出来るってことだよね。苗が二割くらいしか残らないとしても、十本は伸びるわけじゃない。一つの苗から五個のイチゴが採れるとして、一粒のイチゴが五十粒になるってこと?」
 クレープを食べながら、美玉がくだらない計算をしている。この子の頭の中には、イチゴを育てる手間という物が欠落しているようだし、育つイチゴの品質も考えられていないようだ。
「普通の種から育てたイチゴは、上手く育てないと、親の代より劣化するんだってさ。テレビでやってた」
「ええ〜? じゃあ、イチゴを育ててもメリットがないじゃん。あーあ」
 直樹がさらりと言った一言に、美玉は意気消沈してしまったようで、がっかりといった様子で肩を落とした。
「そうだよね。スイカだってピーマンだって、むちゃくちゃ種あるもんね。ああいうのを育てて自分で食べる方が美味しかったら、農家の人の努力はないものになっちゃうか」
 はあ、とため息をつく美玉だが、なにやら納得した様子だ。見た目は妖艶な魅力漂う大人の女性なのに、仕草などは幼子を連想するかわいさだ。そのギャップがまた良い。直樹は何も言わず、ペットボトルの紅茶を口に含んだ。
「あ、それ。一口ちょうだい?」
 美玉がペットボトルを直樹の手からもぎ取る。
「え? 何なら、新しいの買うよ?」
「そんなにいっぱいいらないもの。一口でいいんだけど」
「え……あ?」
 あわあわする直樹を後目に、美玉がペットボトルの蓋を開ける。このままでは間接キスだ。美玉は、気づいていないのか、それともなんとも思わないのか。どちらにしても、直樹の方は非常に恥ずかしい。
「いやいや、回し飲みは虫歯とかうつる原因じゃんかよ」
「直樹君、虫歯あるの?」
「いや、ないけど……」
「私もないよ。ならば問題ないよね」
 美玉は直樹が止める間もなく、紅茶のペットボトルに口をつけた。
「あっ……!」
「ありがとう」
 何も言えなくなった直樹が、美玉からペットボトルを受け取った。飲もうか迷った直樹だったが、今は口をつけるのが恥ずかしい。家に帰ってから飲もうと、直樹はペットボトルを袋に入れた。
「そうそう。さっきのイチゴの話に戻るけどさー。私、イチゴがすっごい好きでね。甘いのもいいけど、酸っぱいのもそれはそれで……」
 美玉が話をしているが、その内容はあまり直樹の耳には入らなかった。直樹が考えているのは、美玉のことだ。今まで、どんなところで、どんな生活をしていたのだろう。アルバイトをしなければいけないほどに金がなく、住まわせてもらわなければいけないほどに居場所がないのだろうが、やはりよくわからない。
(もしかして、家出少女?)
 ぼんやりと考える直樹。家を飛び出し、もう行くところがなくなった彼女が、住み込みアルバイトを探し、飛び込みで雇ってもらおうとしたのだろうか。
(いや、でも……)
 それにしては、美玉は小綺麗だ。風呂もちゃんと入っているようだし、衣服もヨレてはいない。確かに、作務衣の上とスカートという組み合わせは珍妙ではあるが、最近では甚平の上着とジーンズであるとか、浴衣の上からジャケットなどという組み合わせもあるし、個性の範囲と考えることは出来る。少し服装は奇抜ではあるが、家出少女などではないのかも知れない。汚れだって、飛び出してすぐだから、という理由も付く。
「……それでー、こういう縛りで食べ放題って私、初めてでねー。ああいうのって、すっごい彩り豊かじゃない? 別の物も食べたくなるけど……」
 まだ話が続いているが、あまり耳に入らない。家出少女ではないとしたら、何なのだろうか。前もって、吉田のところには面接の連絡が来ていたようだが、どんな内容だったのだろうか。先ほどの食事代を持つほどには、金があるらしい。
(金と言えば……)
 今度は、別のことが気になり始めた。今晩の食事のことと、買ってしまったカップの使い道だ。今日は土曜屋が休みだということは、残り物で勝手にまかないを作るということも出来ないから、何か作らなければいけないだろう。カップの方は、今度折りを見て、美玉と一緒にコーヒーを飲むこととしよう。少し出費はしたが、楽しみが増えた。一つ千五百円というのは、直樹にしては高い方だが、たまにはこんな買い物も悪くはない。
「……でさー。そのストロベリーサンデーが美味しいのよ。なんていうの? ああいうの。もうマジ美味しくて。で、店内の物全部が食べ放題だと思ってたら、そのエリアだけ別料金だったのね。もう焦っちゃってさー……」
 女性の長話にあまり耐性のない直樹には、美玉の話を処理するだけの能力はなかった。まとめてみるに、どうやら、食べ放題の店に行って、肉類や魚類を全然食べず、イチゴ系食品のみという縛りで自己耐久イベントをしたときのことのようだ。ストロベリーシェイクやイチゴタルトなどの食べ放題料金内のスイーツに混ざって、別料金のスイーツが混ざっていたという話らしい。
「もう大変だったのよ、持ち合わせがぎりぎりで。もうちょっと食べてたら、それこそお金が払えなかったわ。食べ放題の中に、そうじゃないメニューが混ざるなんて、紛らわしいと思わない?」
「え? あ、うん。俺もそう思う」
 話を振られた直樹は、とっさに相づちを打った。
「うんうん。直樹君もそう思うよね。あー、あのときは失敗したなあ」
 美玉が後頭部を柱にくっつけ、手をぎゅんと伸ばしてのびをした。今度はさっきと違って、上手く反応出来たようだ。
「俺、ちょっとトイレ」
「うん。荷物見てる」
 荷物を置いたまま、直樹が席を立った。ホールから少し行き、化粧のコーナーの前を通れば、目の前にトイレがある。
「ふぅー……」
 小便器の前に立つ直樹。いろいろな考えが頭の中を駆けめぐる。直樹は比較的、人見知りをする性格なので、人に物を頼むときには、比較的親しい人間を選ぶ。が、美玉はすんなりと、それほど仲良くもなっていない自分に頼み事をしてきた。きっと、すぐに人とうち解けられる、社交的な性格なのだろう。あの明るさは見習わなければと、直樹は考えた。
「ん?」
 手を洗い、トイレから出た直樹は、柱の下に荷物だけが置いてあることに気が付いた。美玉がいない。彼女もトイレだろうか。
「せめて俺が出るまで待っててくれよな……」
 ベンチに座る直樹。何の気なしに、周りを見ていた直樹は、エスカレーターの方に人だかりが出来ているのに気が付いた。最初は、何か大道芸のようなものでも行われているのかと思った。このホールにはたまに、ギターを弾く人や、パントマイムを公開する人がいる。このモールの管理人に話を通せば、案外簡単にそういったイベントを行うことが出来るらしい。が、どうも様子がおかしい。
「うわあああああん!」
 エスカレーターの、かなり高いところに、一人の女児がぶら下がり、泣き声をあげている。二階から三階へ上るエスカレーターの、上の方だ。既に誰かが、緊急停止ボタンを押したようで、エスカレーターは動いていない。
 何をどう間違ったのか、二階から三階へ昇るエスカレーターには、大小さまざまな段ボール箱と、台車が転がっている。恐らくエスカレーターの乗り口前で、荷物を積んだ台車が事故をしてしまい、女児がエスカレーターの外に投げ出されたのだ。
「おい、警察に電話しろ!」
「梯子ねえのか梯子!」
「なんとかならないの!?」
「警備員呼んでこい! 警備員!」
 多くの人があたふたと走り回っている。女児は、背負っているリュックサックが、ぶら下げてある広告板に引っかかっており、支えられている。まだ少しは耐えることが出来そうだが、リュックサックの肩掛け紐がちぎれれば、奈落の底へ真っ逆様だ。大人ならば、上手く受け身を取れば酷いことにはならないだろう高さだろうが、あのくらいの子供となるとどうなるかわからない。一瞬、トマトが地面にぶつかり、ぐちゃりとつぶれる図が頭をよぎり、直樹はぞっとした。
「下にこいつを!」
 誰かが売場から運んできたのだろう。掛け布団と敷き布団のセットが下に敷かれた。布団はかなりボリュームがあるが、これでも子供が助かるには足りないかも知れない。
「な、なんかないのかよ」
 直樹はポケットの中に手を入れた。入っていたのは財布と携帯と鍵だけ。どれもこれも、今の場面で役に立つものではない。いや、ポケットの中に、今役に立つ物が入っていると思うのが間違いなのだ。警察や救急に電話、ということも考えたが、いかに早く来ると言っても、女児はそれまで保たないだろう。
(やべ、俺だいぶテンパってんな)
 野次馬の一人に混ざって、少女をなんとかしようとあたふたする直樹。女児はなんとか上ろうとしているが、あの腕力では無理だ。もがけばもがくほど、体力を消耗する。
「あ!」
 野次馬の一人が素っ頓狂な声をあげた。エスカレーターのステップに転がる段ボールを、ひょいひょいと踏みつけて上る影。
「なっ……!」
 美玉だ。一本結びが、美玉が足を踏み出すたびに、まるで動物の尻尾か何かのように揺れる。
 直樹は絶句してしまった。段ボールはどれもこれも、重そうでなおかつ不安定なものばかりだ。その上を、まるで飛び石でも渡るみたいに、美玉は簡単に渡っているのである。かなり危険な試みであることは容易に想像出来る。そのバランス感覚もさることながら、大胆な発想にも、直樹は舌を巻いた。
 ずるっ
「あ、っと」
 段ボールが滑り、転びそうになる美玉。すぐに彼女は足を別のところにかけ、転ぶのを回避した。
「くそっ、大丈夫かよ……」
 直樹がはらはらしながら、野次馬を掻き分けて中に入り、真下に位置取って上を見上げる。
「あ……」
 見えそうだ。何がかと言えば、美玉のスカートの中である。光の関係で、奥の奥までは見えないが、足が……。
(この緊迫した状況で、俺は何を考えてるんだ!)
 自己嫌悪という名の杭を、心に打ち込む直樹。女の子が大変な目に遭うかも知れないこの状況で、スカートの中などに頓着する余裕などないはずだ。
「俺も、手助けに……」
 エスカレーターを登ろうと、直樹は野次馬を押しのけようとした。だが、一度野次馬の輪の中に入ってしまっては、もう外に出られない。同じように、エスカレーターを登ろうとする人もいるが、転がっている荷物が邪魔で上に行けない。
「ほら、大丈夫?」
 女児の手を取り、上に引き上げようとする美玉。女児は泣きながらも、美玉の声に頷いた。と……。
 がくん!
「わ!」
 リュックサックの肩掛けが、広告板と絡まり、ぶんと揺れた。美玉が女児の手を離さなかったため、腹を支点に身を大きく乗り出す形になった。
「うあ!」
 女児のことをぎゅっと抱く美玉。彼女はくるりと回転し、足だけでエスカレーターの手すりに掴まっている状態になった。腕には女児が、そして女児のリュックサックが広告板につながる。二人の体重が広告板をぶら下げる鎖にかかっている。
 ばきっ!
 広告板はアクリルかプラスチックの板だ。成人女性一人と少しの重さに耐えられるはずもなく、鎖と繋がっている金具の部分が割れ、美玉は大きく背中側にのけぞった。美玉が穿いていたパンプスが片足脱げる。
 ずるん
「きゃあ!」
「うああああああああん!」
 支えていた足が滑り、もう片足のパンプスも脱げる。頭を下にして、美玉が落ち始めた。女児の泣き声に、ドップラー効果がかかる。
「美玉さん!」
 落ちてくる美玉を抱き留めようと、直樹は床を蹴ったが、野次馬の足に引っかかって転んでしまった。もうだめだ、と彼は判断した。が。
「ん!」
 美玉は一声かけると、くるりと回転し、女児を抱いたまま足を下に向けた。
 どすっ!
 そのまま、美玉は床に敷かれた布団に、足の裏から着地した。まるで新体操で吊り輪の選手が着地したときのような鮮やかさだ。一瞬の静寂の後、ホールに集まっていた野次馬から、拍手と歓声が沸いた。
「まおちゃん! もう、目を離すとすぐこれなんだから……あなたがいなければ、大変なことになってました。ありがとうございました」
 母親らしき女性が、美玉の腕から女児を受け取り、頭を下げる。
「いいえ。お母さん、しっかり見ていてあげてくださいね」
 美玉がにっこりしながら返事をする。埃を払い、立ち上がった直樹は、美玉の元へと駆け寄った。
「美玉さん! もう、見てて冷や冷やしたよ!」
「結果オーライよ。ところで……」
「え?」
 突然、美玉が深刻そうな顔をした。もしかして、今ので体のどこかを痛めたのかも知れない。直樹は、近くにある総合病院への行き方を、脳内でマッピングし始めた。緊急事態だ、迅速な行動を……。
「この布団って買い取りになっちゃうのかなあ。でもいいかも。ふかふかで寝心地良さそうだよ。今持ち合わせないんだけど、直樹君少し貸してくれない? ちゃんと返すよ」
 しかし、直樹の予想に反して、美玉の口から出たのは脳天気な言葉だった。そんなこと考えていたのか、心配したんだぞ、と直樹は文句を言いそうになったが、彼女があまりにも幸せそうな顔をしていたので、やめることにした。
「お金ないの? 俺もあと少ししかないよ」
「下ろせばあるよー。ねえ、貸してよ。お布団欲しい〜」
 おねだり少女のように、美玉が直樹を説得にかかった。回りの野次馬達は、事件が終わったことで、少しずつ散り始めた。ショッピングモールの警備員が二人、美玉と直樹の方へ走ってくる。きっと、何が起きたかを話すことになるのだろう。
「……あれか」
 その二人を、柱の陰から見つめる影がいることに、二人はまだ気づいていなかった。影は、直樹と美玉が荷物を取りに近づいてくるのを見て、その場を去った。


 買い物を終え、二人は店へと戻ってきた。戻ってきたころには、既に日は落ち始め、夜になっていた。美玉は布団が痛く気に入ったらしく、上下セットにタオルケットまでセットで買うことにした。さすがにバイクで布団を運ぶことは難しいので、宅配を依頼したところ、明日の朝一番に運んでくれるそうだ。
 布団ならば、吉田に貸してもらえばいいのではないかと、直樹は思っていた。美玉曰く、一人暮らしをするときに必要になる、とのことだ。いつまでも、吉田の家に仮住まいし続けるわけにもいかないというのが、美玉の考えのようである。
「今日はここでお別れかな」
 ちゃら
 吉田の自宅の前で、ポケットから鍵を出し、美玉が言った。本当ならば、もう少し一緒にいたいと思う直樹だったが、どうせ明日からまた毎日会うことになるのだから、今は我慢することとしよう。
「うん、じゃあ、また明日」
「じゃあね」
 かちゃ
 鍵をドアの鍵穴に入れる美玉。そのままかちゃりと回し、中に……。
「あれ?」
 がちゃがちゃと、美玉が鍵穴をいじくる。
「どうした?」
「鍵が、回らなくて」
 鍵を取り出す美玉。他に受け取っている鍵はないし、間違えているというわけでもない。家の鍵が壊れているのかとも思ったが、そんなこともない様子だ。
「これ、別の場所の鍵じゃ?」
 鍵を美玉の手から受け取り、直樹が店の方へ回った。試しに、店の引き戸に鍵を差し込むと、かちゃりと音がするが、鍵は回らないし開く気配もない。
「店の鍵でもないのか。どこの鍵なんだろ」
 うーんと唸り、頭を掻く直樹。このままでは、美玉は家に入ることは出来ない。
「困ったねえ」
 美玉も参った様子で、胸の前で腕を組んでいる。
「ちょっと俺、吉田さんに電話してみるわ」
 携帯電話を取りだし、吉田の番号を探す直樹。メールアドレスと電話番号は、この店で働くようになったとき、真っ先に交換した。直樹は最初、吉田が雇い主として直樹に強く介入してくるのではないかと、少し不安だったが、そんなこともなく。お互いに、つまらないことをメールでやりとりしている。
 プルルルル、プルルルル、プルルルル
 かちゃ
「あ、もしもし、吉田さん……」
 電話が繋がる音がして、直樹は話を始めた。
『ただいま、電話に出ることが出来ません』
 しかし、応対したのは、無機質な機械音声だった。二度ほどかけ直すが、繋がらない。どうも、電話での連絡は無理らしい。
「電話、繋がんないな。鍵がないこと、メールしとくよ」
 仕方なく、直樹はメールを打ち始めた。メールならば、向こうの都合の良いときに見ることが出来るし、返信をすることも出来る。
「どうしよう……」
 右手に持っていた袋を左手に持ち替えて、美玉が呟いた。だんだんと日が暮れてくる。今日はよく晴れているせいか、日が沈むにつれ、だんだんと寒くなってきた。
「くしゅん!」
 かわいらしくくしゃみをする美玉。ここは、やはり……。
「うち来る?」
 という流れが正解だろう。直樹は常に部屋をきれいにしているため、女性を部屋に入れても問題はない。アダルト雑誌も、押し入れの中に隠してあるから、問題ないはずだ。直樹が誘いをかけると、美玉は顔を上げて、一つ頷いた。
「じゃあ、そうしようか、うん」
 やや緊張しながら、直樹がアパートへと歩いていく。その後ろを、まるでカルガモの子供か何かのように、美玉がついてくる。なんだか違和感を感じながら、歩いていた直樹だったが、すぐにその正体に気が付いた。美玉には、警戒心がないのだ。大学時代にサークルで仲良くなった女の子も、それなりに警戒心はあった。「男の子に誘われる」ということが、どういうことだか理解していたのだ。だが、美玉はそんなことはなく、まるでお菓子で釣られる子供のように無警戒だ。悪いおじさんに誘われたら、どうするのだろうか。心配になってしまう。
「夜ご飯、どうする?」
 アパートの部屋の前に来た直樹が、ポケット内の鍵を出し、美玉に聞いた。彼の部屋は左端で、ベランダ以外にも外に面した窓がある。
「出前とか取ったらいいんじゃないかな。案内してくれたお礼に、また奢るよ」
 後ろで美玉が言った。
「この辺りに、デリバリーやってる店、ないんだよな」
「そうなの?」
「うん。ピザ屋はあるけど、圏外で、ここまで来てくんないんだ」
 大学時代、よく出前を利用していた直樹は、最初に同じノリで出前注文をしようとしていたが、不可能であることを知って唖然とした。飯屋自体はあるのだが、出前を行っていなかったり、デリバリー圏外だったりと、ここら一帯が空白地帯になっているのだ。そのせいというわけでもないが、今の直樹は自炊をよくしており、冷蔵庫には常に食材が入っている。
『デリバリーには人が要るからねえ。せめてバイトがもう一人増えればね』
『だよなあ。うち、狙い目だと思うんだけど。俺、バイクの免許あるし、店にもう一人いればいいんだろうな』
『うん。やりたいねえ、出前。土曜屋出前サービスってね』
 以前、吉田とこんな会話をした覚えがある。曰く、吉田は三人は人が欲しいのだそうだ。自分一人とアルバイト店員を二人である。もしアルバイトが二人いたら、片方が急な用事などで休むことになっても、補填が効くからだそうだ。直樹が来てから一ヶ月間、求人をかけているにも関わらず、働こうとする人はいなかった。美玉が、直樹に続いて二人目だ。人も増えたし、もしかすると、吉田も出前サービスの開始を考えるかも知れない。
 かちゃり
 鍵を開き、直樹がドアを開けた。入って左にがキッチンとコンロ二つのガスレンジ、そして冷蔵庫が鎮座しており、右側にはトイレと風呂場のドアが並んでいる。廊下を抜けた先に、八畳の部屋が広がっており、廊下と部屋の間にはカーテンがかかっている。
 カーテンの向こう側が、直樹の生活部屋だ。畳敷きの部屋に、テーブルや棚、テレビなどが置いてある。棚は二つあり、片方には食器や炊飯器や洗面用具などが入っており、もう片方には漫画本などが並んでいる。半開きの押し入れの上の段には、突っ張り棒を使ったクローゼットが作られており、下の段には布団が押し込められていた。
「直樹君、こんな感じの部屋に住んでるんだ。いいねえ」
 パンプスがどこかへ行ったせいで急遽買ったスニーカーを脱いで、美玉が部屋に上がった。直樹はなんとなく落ち着かない気分で、座布団を出した。
「ありがと」
 その上に、鳶足で座り、美玉がにっこり笑った。
(やっぱ、かわええな)
 何も言わず、何も言えず、直樹が美玉の顔を注視した。にやけそうになるのを、必死にこらえる。女の子の顔を見てにやにやしていては、変態だ。
「テレビ見ていい?」
「あ、うん」
 テレビのリモコンを手に取り、美玉が電源を入れた。ちょうど、夕方のニュースをやっているところだ。
「俺、晩飯作るわ。もちろん食ってくだろ?」
 こほん、と小さく咳をして、直樹が立ち上がった。
「いいの?」
「うん。元より、自炊するつもりだったし、別に問題ないぜ」
「じゃあ、ご相伴に預かろうかな」
 美玉がにこにこしながら頷いた。冷蔵庫を開けて、中身を確認する直樹。ショウガが半欠け、ネギが少し、そして豚肉のパック。肉のパックの下には、豆腐もある。後は、少しだけ残っているキャベツだ。
(ショウガ焼きと、みそ汁かな。付け合わせに千切りキャベツで)
 作れる献立を脳内で構築する。ショウガ焼きならば、食べられないと言う人はいないだろう。
「美玉さん、食べられないものとかある?」
 念のためにと、直樹が美玉に聞いておく。
「うーん、そうねえ。レモンとか、ダメかな」
「レモン? そのままってこと?」
「うん。レモンとかオレンジとか、酸っぱいのはダメなの」
 問い直す直樹に、美玉がえへへと笑う。
「わかった。注意するよ」
 返事をした直樹は、キッチン下の収納スペースを開いた。まずは米からだ。米を規定の分量だけ測り、ざるに入れる。水を流しながら、しゃかしゃかと米を研ぎ、白い水がうっすら透明になるまで水を流す。研ぎ終わった米は、炊飯器に入れ、規定量の水を入れてから、スイッチをオンにする。たったこれだけで、待っていれば美味しいご飯が炊けるのだ。
(文明の利器ってすげえ)
 直樹がしみじみと考えた。炊飯器や電子レンジを使うたびに、直樹は同じことを考える。これらがない時代の人間は、調理や炊飯に、とてつもない時間と労力をかけていたのだ。現代に生まれてよかった、つくづくそう思う。
『今日、市内の大学で、春の親子理科教室が行われました』
 テレビでやっているニュースに、美玉が熱心に見入っている。ニュースにそれほど興味のない直樹だが、このニュースには興味を惹かれた。確か子供の頃、一度参加したことがあるイベントだ。
『訪れた親子は十五組。子供達は、慣れないロボットキットに戸惑いながらも……』
 画面には、ロボットおもちゃをがちゃがちゃといじくって遊ぶ子供と、それを見ている母親の画像が流れている。微笑ましいニュースだ。
「懐かしいな。俺、これ行ったことあるんだ。まだやってるんだな」
 何の気無しに、直樹が話題を振った。
「そうなんだ?」
 くるっと、美玉が直樹の方に向き直る。
「どうしても出たいって親に言ったら、申し込んでくれたんだけど、親父がその日、仕事でさ。母親と一緒に行ったんだよ」
「へぇ、お母さんと。楽しかった?」
「うん、楽しかった。でも、親父ならともかく、母親はロボットとかおもちゃとか全然わかんなくてさ。キットを組み立てて遊ぶって趣旨だったんだけど、母親が話に付いてこれなくて。なんか、場違いというか仲間はずれというか、母親が浮いてる感じがして、ちょっと悲しかったよ。無理にわがまま言ったかなってさ」
 懐かしい思い出を、訥々と語る直樹。その場では浮いてしまっていた母親だが、後々に機械などのことに興味を持ち、通信講座の電子回路講座を受講していた。今では直樹などより、機械のことに詳しいくらいだ。
「いいなー」
 美玉が、ぽつりと呟いた。
「ロボットが?」
 ネギを刻み、直樹が聞いた。
「ううん、お母さんが」
「お母さん? 俺みたいな息子なのに?」
「それもそうだけど、お母さんがいるのが羨ましいな」
 はっとした直樹が、美玉の顔を見る。美玉の横顔は、どこか切なげで、悲しげだ。
「いないのか……?」
 なぜだか、聞いてはいけないことを聞いたような気がして、直樹が目を逸らした。
「うん。ちょっとあってね。お母さんいないの」
 ふふっと笑う美玉。テレビでは、理科教室のニュースは終わり、櫛沢路市の天気の話になっていた。
「そ、そういや美玉さん、なんでここで働こうって?」
 話を逸らそうと、直樹が別の話題を振る。
「お家ないから、住み込みで働かせてもらうところ探してたの」
「家が? マジかよ、辛いな……」
「あんま辛くはないよ。いろんな友達のところ、渡り歩いてて。案外楽しいのよ」
 また下手を打ってしまったようだ。だんだんテンションが下がる直樹に対して、美玉はあまり辛そうでもない。昼間考えていた、家出少女という話は、とりあえず半分は合っていたわけだ。
「でも、やっぱ一所に長い間はいられなかったからさ。お母さんがいて、家がまだあったら……とか思うことある。あー、お家欲しいー」
 ごろん
 寝転がった美玉が、ぐぐんっと伸びた。辛そうどころから、楽しそうにも見える。おちゃらけているのだろうか。
「なんかねー、帰るって感覚がわかんなくなっちゃってね。戻るとか、お邪魔するっていうのならわかるんだけど、家に帰るってのがよくわかんないんだよ。ちょっと寂しい、かな?」
 目を擦り、大きなあくびをする美玉。リラックスしているようで、直樹はほっとした。が、それと同時に、罪悪感も強くなった。自慢話をしているつもりはなかったが、美玉には自慢話に聞こえたのかも知れない。どうすれば……。
「そうだ!」
 いきなり大声をあげた直樹に、美玉が驚いて起きあがった。
「<帰って>こればいいんだ」
「え? 誰が?」
「美玉さんが、ここに!」
 突拍子もないことを言い始めた直樹を、美玉が腑に落ちない顔で見ている。
「つまりさ、ちょっとつまらんごっこ遊びなんだけどさ」
「うん、つまり?」
「美玉さんに、ちょっと部屋から出てもらって、もう一度部屋に入ってもらう。そんとき、俺がおかえりって言うから、美玉さんはただいまって……」
 一瞬、部屋の中が静寂に包まれた。思いついたはいいが、それを口に出すんじゃなかったと、直樹は後悔し始めた。あまりにも子供っぽ過ぎただろうか。
「いいよ。やってみる?」
 意外にも、美玉は乗り気になったようだ。よいしょと立ちあがり、美玉が廊下の方へと来た。
「う、うん。美玉さんさえよければ」
「ん」
 靴を履き、部屋を出る美玉。どきどきしながら、直樹はショウガをおろし器で削り始めた。
 がちゃ
「おっ、おかえり」
 どもりながらも、おかえりを言う直樹。なんだかとても照れくさい。
「ただいま」
 対する美玉は、それが当たり前のように、部屋へと入ってきた。
「今日の夕飯は?」
「ショウガ焼き作るつもりなんだ。美玉さん、食べられる?」
「うん。酸っぱい物以外なら」
「よかった。じゃあ、待っててくれよ。すぐ作る」
 アドリブで、言葉がするすると出る。が、会話が続いたのはここまでだった。美玉は部屋の中に入り、テレビの前に座り込んだ。
「あー、えーと……」
 なんだか間抜けなことをしていたような気がして、直樹が黙り込んだ。美玉も、同じような気分なのだろうか。しかし……。
「ちょっと、楽しかった」
 美玉は、いかにも面白かったという様子で、くすくすと笑い始めた。幸せそうなその顔に、直樹は癒されるのを感じた。
「そっか……よかったよ」
 美玉が笑ってくれて、直樹はほっとした。思いつきは無駄にはならなかったらしい。コンロの鍋で、湯がだんだんと沸いてきた、そろそろ豆腐を入れてもいい頃合いだろう。豆腐を入れて煮立つ寸前で、鰹だし粉を入れ、火を止めてから味噌を入れねば。
「ご飯、後どれくらいかかりそう?」
 長い髪を後ろに払い、美玉が問う。
「あと三十分くらいだな」
「んー、そっか。じゃあさ」
 よいしょと立ち上がり、美玉が伸びをした。
「その間に、シャワー浴びていいかな?」
 暫時、また沈黙が流れた。
「……マジ? 下着とかどうすんの?」
 どきどきと高鳴る胸を感じ、直樹が問う。豆腐のパッケージを開け、手の上で切ろうとするが、豆腐を握る手が震えてしまう。
「買ってきたの使う。タオルはちょっと借りないとダメだけど」
 袋の中から、新品の下着のパッケージを見せる美玉。黒色の、レースの下着だ。上下ひとそろいになっているそれを見て、直樹は頭に血が昇るのを感じた。
(中学生じゃあるまいし、なんでこんな興奮してるんだ、俺は!)
 もう成人しているのに、こんなに興奮してしまうことが、恥ずかしい。どうも、ここ一ヶ月、特殊な環境でのんびり働いていたせいか、感受性が若くなってしまったようだ。大学時代も、それほど大きく成長していたわけでもないのだ。体は二十歳ではあるが、精神はまだ高校生程度なのかも知れない。
(言い訳にならん!)
 心の中で、ぐだぐだと続く言い訳を、直樹が切り捨てる。やはり、節操を持たなければならない。
「借りていい?」
 美玉が廊下の方へとやってきた。自分がここにいるわけにはいかない。
「あ、うん、その、風呂、汚いけど」
「気にしないよー。ダメ?」
「だ、ダメだって言ったらどうする?」
 直樹が何も考えず、とっさに返した。
「えー? マジ? 信じられない。女の子にシャワーすんなとか、外道にも程があるでしょ」
 途端に、美玉は不機嫌を露わにした。牙でも見せるんじゃないかという豹変っぷりだ。
「ダメじゃないけど! ち、ちょっとまって、退くから!」
「ん、よろしい」
 直樹は、切ろうと手の上に乗せた豆腐と包丁を持ったまま、部屋の方へ移動した。
「はい、タオル」
「ありがと」
 包丁を置き、バスタオルとフェイスタオルを渡す。美玉はそれを受け取り、カーテンを閉めた。
「じゃあ、入ったら呼ぶからねー」
「よ、よ、よ、よ、呼ぶ?」
「調理まだ終わってないんでしょう? 廊下に私がいると、狭いだろうし、いなくなったら呼ぶよ」
「ああ、そういうことか……」
 つまらないことにも、鋭敏に反応してしまう。だんだんと、豆腐を持っている左手が、だんだんと冷たくなってきた。とりあえず、切ってだけおくかと考えた直樹は、豆腐に包丁を入れはじめた。
 ぱさっ、かちゃっ、するっ
 布の擦れる音。金属の何かがぶつかる音。また、布の擦れる音。直樹は、廊下に近い壁に背を預け、耳をそばだてた。だんだんと恥ずかしくなり、顔が熱くなる。
(みっ、見たい)
 直樹の興奮が高まってきたそのとき。
 ぐしゃあ!
「ああ!?」
 持っていた豆腐を、直樹は握りつぶしてしまった。白い欠片が、畳に散る。
「直樹君、どうしたの?」
「なんでもない!」
 心配そうに聞く美玉の声に、直樹は慌てて返事をした。包丁をテーブルの上に置き、ティッシュペーパーで豆腐を包んでは捨てを繰り返す。みそ汁の、唯一の具が無くなってしまった。
(乾燥わかめでも入れるか……)
 げんなりとして、直樹が考えた。
「いいよー」
 ばたん
 美玉の声がすると同時に、ドアの閉まる音がした。畳をきれいにした後、意を決してカーテンを開けると、そこに美玉の姿はなく、風呂場の電灯が点いていた。足下に、美玉の着ていた服が、小さくまとめて置いてあった。上には、さっき渡したタオルが置いてある。
 ザアアアア
 シャワーの音が聞こえる。風呂場のドアは、磨りガラスがはめ込んであり、向こう側に何があるのかはよくわからない。だが、美玉らしき影が動いているということだけは理解出来た。シャワーの音が止み、美玉の手らしき場所が頭らしき場所で動いている。シャンプーだろうか。
「……」
 落ち着け、深呼吸しろと、直樹は心の中で呟いた。ショウガ焼きのタレを作ろうと、削ったショウガに、醤油を注ぐ。
 どぽっ
「うおっ!」
 醤油が跳ね、床にこぼれてしまった。豆腐に続き、醤油までも零してしまうとは。やはり、動揺しているに違いない。
(しまった、靴に)
 美玉のスニーカーに、醤油が飛んでしまった。ちゃんと処置をしないと、染みになってしまう。まず軽く拭き、部屋の方へスニーカーを置く。事情を説明して、後で風呂場で洗わせてもらおう。床に飛んだ醤油を、しゃがみ込んでキッチンペーパーで拭く。 
「あ……」
 香ってきたのは、香水とも違う、甘い香り。美玉から漂う香りと同じものだ。目の前にある、彼女の脱いだ服から、ふんわりとした匂いが流れてくる。
(こ、これは……)
 直樹は暴走寸前の機関車だ。石炭が入りすぎたのだ。蒸気が噴き出しまくり、ピストンは折れんばかりに回っているのだ。このままでは事故は確実だ。否、もう事故なのだ。
(ぼく、おとこのこだもの!)
 ぷちっと切れた何かが、直樹の理性を冥王星の裏側までけっ飛ばした。電光石火の速さで、直樹は美玉の衣服を手に掴んでいた。
 ピンポーン
「そぉい!」
 唐突に鳴ったチャイムに驚き、直樹は衣服を放り投げた。
「常田君、いるかい?」
 外から聞こえてきたのは、吉田の声だ。やばい。美玉を部屋に引き込んでいるところなど見られたら、どんなからかいを受けるかわかったもんじゃない。否、美玉が来ていること自体は問題はないだろうが、風呂に入っているのが問題なのだ。働き初めて、一日も経ってない女の子を部屋に引き込んだとあっては、どんな責め苦を受けることか。からかいどころの話ではない。
(どうする!? どうする!?)
 靴は部屋の中、服も今どこかに放り投げた。ということは……。
 ぱちん!
「はーい!」
 直樹は風呂場の電灯を消し、部屋との間のカーテンを閉めた。これで、美玉が部屋に来た痕跡はない。何事もないかのように、吉田に返事をする。
 がちゃ
「おう、常田君。白沢さん、こっち来てる? 帰る途中にメール来たから、こっち来てるんじゃないかと思ってね」
 人好きのする笑顔で、吉田が言った。いつもならば、長話をしても楽しいのだろうが、今はそんなことをしていたくはない。
「さ、さあ。来てたんだけど、どっか行っちゃった」
 あははと笑う直樹。上手くごまかせば……。
「ちょっとー」
 浴室にいる美玉が、何か言っている。やばい、このままでは見つかってしまう。
「何を……」
「靴に画鋲てんこ盛りぃぃぃ!」
 美玉の言葉をかき消すほどの大声で、直樹が叫んだ。あまりの大声に、目の前にいる吉田がびくっとする。
「ど、どうしたよ、常田君」
 不安そうな笑い顔で、吉田が聞く。
「いやあ、ちょっと、最近疲れてるらしくて。突然叫びたくなるんだ」
 吉田に気付かれないよう、直樹は浴室のドアを手で掴み、固定した。もちろん、美玉が外に出て来られないようにだ。
「誰か来て……」
「携帯電話をカレー鍋で煮込むぅぅぅ!」
 またもや聞こえた美玉の声を、直樹が意味不明な言葉でかき消した。
「なんだよ、そんないじめでも受けてたのかい?」
 これはただごとではないと思ったのだろう。吉田の顔から、笑みがじんわりと消えていく。
「そうじゃない、そうじゃあないんだ。ただ今日は木曜だから。休みだからフリーダムなんだ」
 適当なことを言い、直樹がごまかそうとするが、それが帰って吉田の心配心を刺激するらしい。なんだか微妙な表情で、直樹のことを見ている。
「と、ともかく。俺、今は飯作ってる途中なんだ。さっき美玉さん、友達んところ泊まるとか言ってたから、今日はもう、うちには戻らないんじゃないかな」
 我ながら、上手いこと思いついたと、直樹は心の中でほくそ笑んだ。これだけ言えば、吉田は自分と美玉を関連づけして考えなくなる。
「そうかぁ……常田君に鍵渡してもしゃあないよな。明日、美玉さんが帰って来てから渡そう。今日はもう帰るよ、お疲れ」
 ばたん
 部屋を出た吉田が、ドアを閉めた。耳をドアにくっつけ、外の様子を伺う直樹。かん、かん、かんと階段を下りていく音がする。危機は去ったようだ。
「はぁぁ……」
 がくっと、直樹がしゃがみ込んだ。疲労感が半端ではない。フルマラソンをしても、これだけ疲れることはないだろう。
「直樹君? 電気を点けて貰えると、非常にありがたいのよね」
 美玉の要求に、直樹はすぐに立ち上がり、電灯を点けた。両腰に手を当てた、美玉のシルエット、磨りガラス越しに見える。
「で、これは一体どういうこと?」
 妙に優しい声で、美玉が直樹を呼んだ。嫌な予感がする。この感じは、絶対に怒っている。
「いやはは、吉田さんに知られると、何言われるかわからんから……」
「それって要するに、保身のために嘘ついたってことよねえ? 私は今晩どうすればいいわけ?」
「えー、えーと。ああ、そうだ、布団あるし、うち泊まってってくれよ。ほんっとごめん、ほんっと」
「あーそう」
 だんだんと、美玉の声のトーンが低くなる。理性が戻ってきた直樹は、だんだんと恐ろしくなってきた。
「じゃあそうするわ。で、ちょっとちっちゃい方のタオル欲しいんだけど、そこ退いて?」
 美玉に言われ、直樹はさっき、服を放り投げたことを思い出した。あれを探さねばと思い、辺りを見回すと、服はばらばらに散らばっていた。吉田に見つからなかったのが不思議なくらいだ。
「ごめん、ちょっと、服散らばしちゃって」
 スカート、そして作務衣の上を拾い上げ、直樹が言った。確か衣服と一緒に、タオルがあったはずだが、見あたらない。どこにいったのか……。
「あ」
 みそ汁用に沸かした湯の中で、ふわふわ漂う黒い影。それは、紛れもない女性物の下着だった。ブラジャーはショウガ醤油の中に、ショーツは湯の中で揺らめいている。
「……美玉さん、怒らないで聞いて欲しい」
 恐怖は最高潮だが、言わねばならぬ。
「なあに?」
 優しい猫なで声を崩さず、美玉が聞いた。
「ぱんつ、鍋で煮ちゃった」
 かちっ
 火を消し、お玉でショーツをすくい上げる直樹。ぐっしょりと濡れ、湯気を放つそれは、もう新品の匂いすらしない。このままでは着用出来ないだろう。
「ちょっと、電気消してくれる? お風呂場と廊下」
 怒られるとばかり思っていた直樹は、美玉がそうも怒っていないことに、安堵した。彼女はとても優しいようだ。言われた通りに風呂場と廊下の電気を消すと、暗くなりほぼ何も見えなくなった。次は、部屋の方へ引っ込めとでも言われるのだろうか。カーテンの隙間から、部屋の電灯の明かりが漏れて……。
 ガラッ、ぐいっ!
 突然、風呂場のドアが開いたかと思うと、直樹は中に引きずりこまれた。
 がつん!
「あだっ!」
 乱暴に床に倒され、頭をぶつける直樹。なま暖かい湯が、背中と髪に染みる。ぐにゃりと、柔らかいものが腹の上に乗った。
(これは、足……?)
 と思った、その次の瞬間。
 がすっ! がすっ! げしぃっ!
「うげっ! ぎゃあ! うああ!」
 容赦のないストンピングが直樹を襲った。舞い散る飛沫。飛び散る泡。暗すぎて、美玉の姿は確認できない。
「ごめんって! ごめん! 許してくれええええ!」
 叫ぶ直樹の腹を、顔を、そして足を、美玉が容赦なく踏みつけた。


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