―――――弐―――――
〜ショッピング、ああ、ショッピング〜
美玉が来た次の日は、土曜屋の定休日だった。と言っても、営業を行っていないだけで、別の雑用はある。仕入れ業者の出入りや古雑誌の処分、あまりにも汚れが目立つ様子ならば店の中を大幅に掃除する。毎日やっている仕事の、やりなおしといったところだ。
どれだけ時間がかかろうと、午前中には終了する仕事である。なので、午後は暇になり、どこに遊びに行くも自由となる。吉田と直樹で、行う仕事の分担はほとんど出来ているために、とても効率良く仕事が出来る。主に、吉田は細かいところの掃除や調整、直樹は力仕事や修理などだった。一応、開始時刻は決まっており、九時までに店に来て、仕事を始めることが言い付けられている。
「今週はガス台の調子が悪いからなー、直さないと」
土曜屋に向かう道すがら、直樹が呟く。と言っても、十歩か二十歩の距離だから、そんなに遠くもない。コンロの調子が何故悪くなったか。月曜日に吉田が中華丼をぶちまけてしまったせいである。恐らくそのとき、ガスコンロのガス噴出口に、何かが詰まったのだろう。外して洗えばきれいになるはずだから、それほど手間ではない。今日一日、コンロを付ける用事はないし、明日には乾くだろう。
それにしても、今日は暖かい。暑いと言ってもいいぐらいだ。少し歩くだけで、じっとりと汗ばむのを感じる。春も中盤だ。
ガラララ
店の引き戸を開いて中に入る直樹。そこでは、箒を持った美玉が、床を掃いているところだった。
「おはよう〜」
昨日の夜と同じ、ゆったりとしたテンションで、美玉が直樹に挨拶をした。
「ああ、おはよう……ございます」
美玉の発する空気に飲まれ、直樹が返事をした。厨房では、吉田がぼんやりと立ちつくしている。
「吉田さん。結局、白沢さんを雇うことにしたのか」
厨房に入った直樹が、ひそひそ声で、吉田に聞いた。
「うん……白沢さんは、ここで働かしてもらえるって言ったって。どうもねー、おじさん、昨日の記憶が曖昧なんだ。言ったかどうだか覚えてない。しかも、春だっていうのに、こたつで寝てたんだよ。もうこたつは片づけたはずだったんだけどなあ、いつの間に出したんだろ? 雇うだなんて……俺、本当にそんなこと言ったかい?」
やはり、昨晩の吉田は、何かおかしな状態だったらしい。半ば惚けた様子で、吉田が直樹に聞いた。
「うん、一応。情熱がどうとか」
「マジで? 覚えがないな……」
直樹の言葉に、懐疑的な視線を返す吉田。今の吉田も、あまりちゃんとした様子には見えない。昨日のアレが、恐らく残っているに違いない。昨日のことを思い出し、おかしなことになっても困るし、あまり刺激しないのが得策だ。
「とりあえず、コンロを洗浄しちゃおう。丸洗いでいい?」
直樹がコンロに手をかけた。と、何かおかしい。このコンロは、もうちょっと黒い色をしていたはずだ。しかし、今は銀色に金属光沢を放ち、顔が映り込んでいる。
「それね、こっちに来たら、もう白沢さんが終わらせてたんだよ。七時ごろから来てたらしい」
頭を掻き、吉田が言った。
「じゃあ、ネジがはずれかけてたフライパンの修理を……」
「それは今終わらせたね」
「じゃあ、週刊マルチングとか週刊ギャンギャンの古い巻をまとめて捨てて……」
「ああ、それも白沢さんがやってくれたんだ」
「座敷の畳を拭いたり、テーブルを拭いたり!」
「それは、ほら」
吉田が顎で美玉を指す。美玉はと言えば、掃き掃除を終わらせ、雑巾でテーブルの上をきれいに拭いているところだった。
「仕事早えぇ!」
叫び声が口をついて出た。その声の大きさに、吉田がびくっとする。
「無理言って入れてもらうんだから、真面目にやらないと。特別仕事が早いわけじゃなくて、先に来ていろいろやってたから、終わるのも早かっただけよ。トイレ掃除もしておくよ」
掃除用具を持った美玉は、トイレの中に入っていった。直樹と吉田は、その後ろ姿をぼんやりと見ていたが、二人同時ににんまりと笑った。
「ムフフフ、ドラいもん、いい人じゃないか」
吉田のだらしない腹を揉みながら、直樹が吉田にからむ。
「よせやいのぶぃ太くん、キミも十分仕事をしているよ」
無益な猫型ロボットごっこをしばらくしていた二人だったが、途中ではたと正気に戻り、手を止めた。
「他にすることは?」
ガスコンロの付き具合を確かめ、直樹が聞いた。ガス管はしっかり固定されているし、問題はないようだ。試しに火を付けると、心なしか昨日より火力が強くなっている。
「そうだなー。空き瓶は回収来たし、冷蔵庫は大丈夫だし……コンロ以外、今日は面倒な仕事はなかったし、終わりかな」
残された仕事を考える吉田。直樹の目から見ても、土曜屋は既に完璧な状態だ。他にすることなど見あたりはしない。
ジャアアアア
トイレを流す音と共に、美玉が顔を見せた。
「終わりました」
用具を片づける美玉。彼女の終わらせたこれが、最後の仕事だ。直樹が来てから、まだ十分も経っていないのに、全ての仕事が片づいてしまった。
「いや、その、ありがとうございます、こんな早くから、その……」
なぜだか礼を言わなければいけない気がして、直樹が頭を下げる。
「別にいいよ。そんな、手間だった訳じゃないもの」
美玉が笑う。やはり、女性というのは良い、と直樹は思った。今まで、男二人のみで切り盛りしていた厨房も、女性が一人入るだけで空気が変わるものだ。華がある、とはこのことを言うのだろう。
「じゃあ、今日はこれでおしまいだな。そうそう。白沢さんは家具も持ってないみたいだし、しばらくうちに下宿するといい。昨日、寝ていたゲストルームを、しばらく自由に使ってくれ。今日のうちに、生活必需品を買ってきなよ。じゃあ、戸締まりよろしく、俺は行くわ」
仕事が早く終わり、ご機嫌な吉田は、にこにこ顔で倉庫の方へ引っ込んでいく。
「そうだ。おじさん、これから出かけるから、鍵を白沢さんに渡しておこう。遅くまで戻らないから、そのつもりでね」
もう一度、顔を出した吉田は、裸身の鍵を一つ美玉に渡した。じゃあよろしく、とだけ言って吉田が奥に引っ込み、後には直樹と美玉のみが残された。
「生活必需品って……例えば何だろ」
イスに座った美玉が、大口を開けてあくびをする。
「洗面用具とか衣服とか、その辺じゃないすか? 来たとき、あのバッグ一つだったでしょう?」
店の鍵を持っていたか、心配になった直樹が、ポケットに手を入れる。もし持っていなかったら、吉田の自宅の方へまた回り込み、鍵をかけてもらわないといけないので、少々面倒になる。だが、ちゃんと鍵はそこにあった。面倒をしないで済みそうだ。
「こっち来たばっかで、どこで買い物すればいいか、わからないの。もしよかったら、教えてくれないかな?」
美玉の言葉に、直樹は一瞬躊躇した。今日の午後は、前から機嫌の悪かった、バイクの定期点検に行こうと思っていたところだ。ブレーキや加速の他に、タイヤもだいぶすり減って、交換時期が来ている。今まで金がないからと、後回しにしていたツケが来ているのだ。
(この人、スクーターあるんだよな。地図だけ渡せば……)
どうするかをぼんやり考える直樹。ここから五キロほど走れば、大型ショッピングモールに行ける。そこならば、雑貨屋や服屋もあるし、レストランもあるから、美玉が必要とする物は全て手に入るだろう。別に自分がついていく必要もない。
「ダメかな? わかってる人に付いてきてもらうと助かるんだけれど……」
そんな直樹の心を見透かしたかのような目で、美玉が直樹の目を見つめた。少し潤んだ瞳が、直樹の心に矢のように突き刺さった。
「……行きましょう」
思考は数秒で終わり、直樹は美玉についていくという判断を下していた。
ショッピングモールの一階駐車場に、直樹の乗るバイクが駐車してある。平日なのに、ショッピングモールは多くの人でごったがえしている。中には、娯楽品から日用雑貨まで、様々な業種の店舗が、約三十テナント入っている。櫛沢路は人口密度の低い街で、郊外型に発展している街なので、このようなショッピングモールもあちこちにある。
「運転までしてもらってありがと」
二階、端側にある和食レストランで、美玉がにこにこ顔でお礼を言った。彼女の前には、刺身天ぷら御膳が並べてある。
「やー、俺もちょっと、ここで買い物をする用事がありましたから」
対面に座る直樹は、和風豚カツ定食だ。買い物をする前に、美玉が食事をしたいと言ったため、二人はモール二階の和食レストランに入っていた。このレストランは、東京は六本木に住む有閑セレブも通い詰めたという板前の元で、三年の修行に励んだという人物が営む店だ。ファミリーレストランのような安価なメニューはないが、値段に見合っただけの味と量が保証されているため、とても人気が高い。
「別に敬語じゃなくてもいいよ? そんな気遣われても困るよ」
美玉が苦笑し、白身魚の天ぷらを口に入れた。
「いやいや、年上の人には、敬語使うのが当たり前だって、今まで習って育ってきましたから」
今までに、自分が生きてきた中での常識。吉田のような例外は別として、当たり前に行っていることだ。が、しかし。
「あれ、私の年、知ってるんだ?」
予想外の答えを返し、美玉が目を丸くした。
「あ……」
ぐっ、と直樹が言葉に詰まる。今まで、直樹は美玉の見た目年齢で物を考えていた。実年齢と見た目年齢が違う人間は世の中にたくさんいる。高校生だというのに二十代を越えているように見えたり、もう三十代なのに十代に見える女性もいる。もしかして、もしかすると、もしかするだろう。これは不味い。非常に不味い。
「なんか昔から、私、年相応に見られないのよ。やっぱ、見た目じゃわかんないもんなんだよねー」
ころころ笑う美玉。これはもう確定だろう。彼女は直樹より年が低い様子だ。彼女にとってはよくある、何でもないことなのかも知れないが、ミスをしてしまったことで、直樹は少し気分が落ち込んだ。
「ま、そういうことで、私には普通に接してください。敬語を使われると、こっちも気を使わなきゃいけない気がして、疲れます。私も敬語は使ってないわけだしね。いい?」
「……はい。わかりました」
「よろしい。あ、その漬け物、食べないならちょうだいね」
直樹ががっくりしているところに、美玉が手を伸ばし、漬け物の皿を持っていった。
(どうすっかな……)
なんとか盛り上げたい直樹だが、言葉を上手く選べない。今まで年上だと思っていて、敬語を使っていた相手だ。いきなりそれをスイッチングしろと言われても、難しい物がある。
「あの……」
「ストロベリーパフェ、おまちどおさまでした」
口を開き、出かけた直樹の言葉を、ウェイターが遮った。
「ありがとうございます」
パフェを受け取り、スプーンを手に取る美玉。気づけば、美玉は自分の分の定食を平らげた後だ。さっきまで半分は残っていたと思ったのだが。
「あ、おいしーね、これ。パフェなんて久々に食べたよ」
直樹の目の前で、美玉が美味しそうにパフェを食べる。この大きなカップは、女性には不釣り合いだと、直樹は常日頃から思っていた。縦に長いガラスのカップに、クリームや果物やチョコレートやイチゴなどが、所狭しと同居している。どれもこれも、自己主張の強いやつらばかりだ。この量は、女性が平らげるには多すぎるのではないだろうか。
(それにしても……)
パフェを食べる美玉の姿に、直樹は釘付けになった。さらりとクリームを掬うスプーンの動きといい、ぱくりと食べる口元といい、仕草一つ一つに女性らしさが溢れる。
(ええなあ……)
ここ一ヶ月、女っ気のかけらもない生活をしていたのだ。彼女に振られたショックだって残っている。そんな中、こんな間近で女性と食事を共に出来たというだけで、欠乏していたものが満たされている感じがする。
「……だからねー。ま、仕方ないのかな。でさー……」
美玉が何かを話しているが、その内容が頭に入らない。直樹はぼんやりと、美玉に見とれていた。
「……なのよ。で、どう思う?」
「え? あー、えー、うー……」
いきなり意見を聞かれて、直樹が口ごもった。話がわからないのだ。
「だから蒸留酒はよせと言ったんだ」
「飲んでないし宇宙人出るからそんなこと言うのやめて」
やれやれと言った表情の美玉に、直樹が冷静に返事をする。
「よーし。じゃあ、精算して買い物行こっか。夕方には戻らないとね」
美玉が席を立った。直樹の皿には、まだカツが半切れ残っているが、美玉はそれを残したものだと判断したらしい。直樹はそれを、箸でつまんで口に入れ、残りのお茶を喉に流し込んで、美玉の後に続いた。
「あれ?」
直樹が追いつくと、美玉が既に二人分の精算を終わらせて、外へ出ていた。
「美玉さん、お金……」
「いいよいいよ。バイクまで出してもらったし、ガソリン代ってことで。お金使うの久々だしねー」
直樹が差し出したお金を、するりと避ける美玉。取り出した千円札が、行き場を失ったまま、直樹の手の中でひらひらしている。
「あ、じゃあさ、じゃあさ、これ買ってよ。それでチャラにするから」
向かいの大きな生活雑貨スペースにするりと入った美玉が、マグカップを取り出した。黒い猫のマークが入った、陶器のカップだ。赤地と碧地のカップが、タグで一セットになっている。
「こういうカップで、ミルクコーヒーを飲むのが好きなんだ。二つセットだし、一つずつ使おうよ。コーヒー淹れたげる。私の淹れるコーヒーは美味しいんだ」
二つのコップを手に取る美玉。嬉しそうに、にこにこ笑っている。この女性が、自分より年下だというのが、わかった気がした。彼女の笑っている顔は、とても無邪気なのだ。
「何も二つセットじゃなくてもいいんじゃ?」
「このデザインがいいのよ。迷惑なら、二つとも私が使うから」
「あ、いいんだ。俺、ちょうどこういうの欲しかったし。そういうことなら……」
カップを受け取る直樹。その足で、レジに向かう。なんとなく、つきあってもいない女性とお揃いのカップを持つというのが気恥ずかしいが……。
(あかんわ……)
妄想が暴走しそうになった直樹は、自分で自分を抑えた。こんなことばかり考えていてはいけない。レジに立っていた年輩の女性は、直樹からカップを受け取り、レジに通した。
「三千円になります」
「なっ……さんぜんえん!?」
昼飯代より高い。思わず、美玉の方を振り返る直樹。美玉は何も言わずにただ笑っている。あの顔は、カップの値段を知っていた顔だ。
「キャンセルしますか?」
レジの女性が、心配そうに、直樹の顔を見つめる。
「……買います」
がっくりと肩を落とし、直樹がカップの代金を、トレーに置いた。なけなしの五千円札。この中には、バイクのメンテナンス費用の一部も含まれている。
「ありがとうございました」
お釣りを渡し、レジの女性が挨拶をした。帰ってきた二枚の札を、財布に入れ、直樹がため息をついた。
「うんうん、ありがと。大好きよ」
精算を終えてレジから離れる直樹に、嬉しそうに抱きつく美玉。もし美玉に尻尾があったら、ぶんぶんに振っていることだろう。美玉の体の柔らかさが、直樹にダイレクトに伝わり、頭の中にピンク色の霧をかける。
「太っ腹ねー、直樹君」
「それほどでもないよ、あは、あははは」
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