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キャッチコピーや宣伝などは、時として思わぬ誤解を生む。客を呼びたくてたまらない店が、嘘八百を並べ立てる場合があるからだ。店に必要なのは、売り物と場所と店員だ。何を売るか、どこで商売するか、そして誰を働かせるか。中でも、店員はかなり重要である。雇っている従業員の質によって、その店は繁盛も衰退もする。
この物語の主人公である青年は、アルバイト斡旋で見たキャッチコピーに吸い寄せられ、労働をすることになった一人だった。ミディアムヘアーを金色に染め上げ、赤いダイヤ形のピアスをして、エプロンを身につけているその青年。体型は痩せ形で、整ってはいるが美男子と言うほどでもなく、特徴のない顔をしている。彼は名を、常田直樹(ときたなおき)と言った。年は二十歳、現在フリーターをしている。大学を中退したのは十九歳の時で、それから一年間、アルバイトをして生計を立てている、二十歳になる青年だ。
「はーい、ご注文伺いまーす」
直樹が狭い店の中を駆け回る。赤を基調とした内装、座敷席とテーブル席の分かれる座席、置かれた古い本棚にはボロボロの漫画雑誌が何冊も置かれている。厨房には、太った中年の男性がおり、網お玉を手にスタンバイしていた。流れているのは、醤油の匂いと、テレビの音声だ。
そう、ここはラーメン屋。赤銅の日が昇ると共に目を覚まし、陽光照りつける昼日中に戦場になり、月の光に照らされてのれんを下ろす、典型的なラーメン屋だ。この街、櫛沢路(くしざわろ)市に建つ、ありふれたラーメン屋。否、ありふれてはいない。この店には、一つ通常のラーメン屋と違うところがあった。
「ラーメン、厚揚げ乗せて」
枯れ木のように細い体をした男性客が、ぼそぼそ声で言った。直樹は、それを注文書に書き、厨房に戻る。
「お客さん、今の時間<ヒト>はいないし、気を抜いてもらっていいよ? いつもみたいにさ」
直樹の持ってきた注文書を、厨房の換気扇の前に貼り、オーナーが声を出した。客の男は、店の中を見渡した。男以外、客はいないし、新たに入ってくる様子もない。男が顔をごしごしとこする。と同時に、見る見るうちに髪の色が黄色くなり、手や足からも同じ色の毛がざわざわと生え始めた。草原が緑化していく映像を、早回しで再生しているような状態だ。その男……否、その狐男は、頭をテーブルの上に置き、ふぅぅと息をついた。
(怖えぇなぁ……)
その、人間離れした様子に、直樹が背筋を凍らせた。このラーメン屋「土曜屋」は、あまり人通りのない、裏通りに面している。名前の由来は、休日である土曜日から来ており、のんびりした休日のような雰囲気でラーメンを食べてもらいたい、という意味らしい。そしてこの店は、妖怪変化の訪れる「人外の来るラーメン屋さん」なのだ。この狐男も、何度かこの店に食べに来ている、常連の一人である。
直樹がこの店を知ったのは、インターネットの求人広告だった。前に勤めていた、コンビニエンスストアのアルバイトを首になって数週間、貯金はまるで、穴の空いたバケツから水が漏れるように、減っていった。もうなりふり構っていられないと、アルバイトを探していた直樹は、広告に偶然載っていたこの店に目星をつけた。
フリーターである直樹にとって、まずは給与額が大きな問題だ。税金や年金も納めなければならないし、保険だってある。この店は、あまり時給自体はあまり高くないのだが、部屋を貸してくれると書いてあったことが決め手となった。櫛沢路市は、あまり大きな街ではないため、アパートの部屋代は平均してあまり高くはない。しかし、それでも月に万単位の出費は、収入が不安定な直樹にとっては嬉しくない。もし部屋を貸してくれるのならば、その出費を軽減することが出来る。
最初、この店で働き始めたとき、直樹は不安感でいっぱいだった。求人広告を見直すたび、書かれている謳い文句が危ないように見えて仕方がなかったからだ。しかも、オーナーの欄には「ジェイムス吉田」という名が書いてある。直樹は、テレビのCMに出てくるような白人系外国人を想像し、不安になった。英語は上手くないのだ、もしかすると、コンタクトにすら辞書が要るかもしれない。貸してくれると言う部屋も、どんな部屋だかわかったもんじゃない。数人をまとめて押し込むような、タコ部屋という可能性だってあった。
しかし、直樹の予想は良い意味で全て外れた。オーナーであるジェイムス吉田氏は、名前こそ外国人だったが、れっきとした日本人で、日本語がバリバリに通じた。彼は直樹のことを、まるで同年代の友人かのように、丁寧に扱ってくれた。
更に部屋だ。吉田が貸してくれたのは、彼の所持しているアパートの二階の一室で、風呂とトイレが別となっている部屋だった。部屋の広さは八畳で、壁は簡単な防音が入っている。好待遇と言っても過言ではない。こんな環境ならば、例えどんなきつい仕事であろうとがんばれると思っていた。しかし、これでは……。
「おまちどおさま、ラーメンプラス油揚げです」
直樹がラーメンの丼をお盆に乗せ、テーブルに持っていった。狐男は、だいぶ空腹だったようで、はふはふ言いながら箸を握って麺を啜り始めた。この狐男は、いわゆる化かし狐の一種だろう。狐、狸、そして犬や猫など、獣の化け物の類は、比較的多く見かける。否、通常では見かけるはずがないのだが、この店に来るようになってから、よく見かけるようになってしまった。町中で外国人に会ってしまったなんてレベルではない。未知との遭遇であり、恐怖の連続であり、エンカウンターである。
「常田君、大丈夫かい? 顔、青いぞ」
吉田が、直樹の顔を覗き込む。黒髪刈り上げで、軽く太った外見の、どこからどう見ても日本人の男だ。話を聞くに、これは親から付けられた名前ではないらしい。なぜジェイムスなどという名前になったかを聞いても、彼は答えてくれない。その名前自体がコンプレックスであることは、何度か耳にしているが、なぜこんな珍妙な名前になったかを、直樹は知りたかった。
「あ、大丈夫……うん」
一応の返事をする直樹。吉田は、直樹にため口で話をしていいと言っているので、直樹はそれに従って敬語を使ったりはしない。
「最近、多いね。しっかりしておくれよ?」
吉田がはっはっはと笑い、直樹の頭をぽんぽんと叩いた。大丈夫だ、と返事はしたが……大丈夫なはずがない。今日の客も、また化け物の類だ。おとぎ話では、妖怪は大抵人を食うという話になっている。食ったり食われたり、殺したり殺されたりという血生臭い世界の生き物たちだ。今は普通にしているが、そのうち暴走して、いつ自分に襲いかかるとも知れない。そう思うと、少々怖いのだ。
ちょうど、直樹がこの店で働き始めた時の話。そのとき、直樹はまだ、妖怪変化がこの世の中に存在するという事実を知らない、ただの青年だった。
初めて人外と出会ったのは、働き初めてから一週間経った時。そのときに入ってきた二人組は、いかにもおかしな風体をしていた。着ている服もどこか変だったし、二人がしている話も理解出来ない。言語こそ日本語ではあったが、内容が理解出来ないのだ。なので、直樹はその二人組のことを、外国人だと認識した。
そのときに、吉田がこっそり言ったのだ。彼らは人間ではないと。そんな馬鹿な話を信じられるほど、直樹は夢見る少年でもなければ、非常識人でもなかった。が、しかし。それからもどこかおかしな客が入ってくることが何度かあり、ついに運命のその日を迎えた。
その日は風の冷たい、どんよりと空が曇っている日だった。入ってきたのは、一人の女。髪の短い、目の丸い女だったと記憶している。閉店間近の時間で、既に店の中には客がいなかった。その時、女がワンタンメンを頼んだことを、直樹は今更ながらに覚えている。小柄な女は、丼に顔を突っ込むようにラーメンを食べていた。誰が見るでもないテレビの音だけが流れ、店の中は気怠い空気に満ちていた。そのときだった。
突然、女がくしゃみをしたのだ。その一瞬。女の顔に、動物のような毛がぶわっと生え、箸を握っていたはずの手に肉球が浮かび上がり、ぺたんこだった鼻は犬か何かのように、にゅうっと伸びた。
『ぎゃああああああああ! 化け物ぉぉぉぉぉぉぉ!』
『うわああああ! 見られたぁぁぁぁぁぁ!』
直樹はその顔を見て、叫んでいた。女も、その顔を見られ、同じく叫んだ。
そのとき、吉田が言った。「ほら、ヒトではないだろう?」と。吉田は、その犬女にも、普通の客にするような対応をしたが、直樹は怖くて仕事にならなかった。皿を洗えば割るし、鍋の湯を浴びてやけどするし、トイレ掃除にトイレ洗剤ではなくて消臭剤を使ったりもした。
店を閉めた後、直樹が聞いたのは、吉田の正気を疑うような内容だった。曰く、世には人間の形を借りた「何者か」が存在している。その何者かとは、おとぎ話で言うような、いわゆる妖怪変化達だ。ヒトのソトにある者、人外だとも言える。店を開店した当初から、客に違和感を感じていたが、今では来客の一割が人外であることがわかった。
彼らがどこに住んでいて、どこから来るのかはわからない。だが、騒ぎを起こす様子もないし、払う金銭も葉っぱを化かしたものでもない。吉田のポリシーとして「面倒を起こさない相手は客であり一般人である」というものがあり、彼らも普通の客として扱っているのだと。もし騒ぎが起きたら、それなりの対応はするが、そうでない限りは彼らはあくまで普通の客なのだと。
相手が、人間以上の何かである場合、有事の際にそれなりの対応なんてものが出来るとは思えない。すぐにでも逃げ出したくなった直樹だったが、他に行く宛はなかった。こうなったらもう仕方がないし、そのうち不思議な客達にも慣れるだろうと、直樹は今まで勤めてきた。
が、しかし。やはり人間というのはそう簡単には変われないもので、勤務一ヶ月の今まで、人外の客にまだ慣れることなく、今まで来ている。背景には、直樹が彼らを意図的に避けているというのもあるだろう。直樹の、慣れようという努力も足りないのだ。
「常田君は寝るのが遅い傾向にあるね。いいか、仮にも君は社会人なんだから、時間にはもっと気を配ってだね……」
ぶちぶちと、吉田が説教を始めた。直樹のことを心配しての説教なのだろうが、直樹にしてみればうっとおしくて仕方がない。ピアスはダメだの、髪染めはやめた方がいいだのと、いつもうるさいのだ。
「そんなこっちゃ、次の彼女も出来んだろう?」
にしし、と吉田が笑う。ぷつり、と音を立てて、直樹の堪忍袋の緒が切れた。
「うっせえ、彼女のこと言うんじゃねえ! この似非日本人がぁぁぁ!」
「んだぁ、やる気かガキが! 俺は純粋な日本人だっつってんだろぉぉぉ!」
「うっせぇ糞ジェイムス! なめんなごら!」
「んだ、やんのかぁ! っざっけんなよぉ!」
げし! げしぃ! どがっ!
直樹と吉田が殴り合いの乱闘を始めた。これも日常風景だ。客ももう慣れたもので、二人がケンカをしても止めようともしない。
この土曜屋で働くようになる数日前のことだ。収入などの面の問題を、長い間付き合っていた彼女に突きつけられ、直樹は彼女と別れることになった。曰く、経済力のないまま結婚を考えた付き合いを続けていてもしょうがない、との話だ。今までに直樹は、ない金を工面して、彼女に何度もプレゼントをさせられていた。していたのではない、させられていたのだ。今ならわかる。要は、体のいいATM扱いをされていただけだったのである。
それを知っているはずなのに、吉田は何度も彼女のことを言う。そのたびに、直樹と吉田は殴り合いになっていた。吉田は五十代だということだが、年齢の割には体が丈夫で、非常に好戦的な性格をしている。まだ二十歳の直樹と殴り合っても負けないのは、日頃の鍛錬の成果だという話だが、定かではない。大体、鍛錬をしているならば、この太ましい腹が引っ込んでいるはずだ。
「食らええぇぇ!」
どぐぅっ!
「うげほっ!」
直樹が宙を飛び、壁に頭をぶつけ、動かなくなる。ケンカは、直樹が吉田にクリーンヒットを許してしまい、直樹の負けで終結した。
「糞ジェイムスがぁ……いつか痛い目見せてやる。息の根止めてやる」
呪いの言葉を吐き出しながら、薄暗い厨房で、直樹が皿を洗う。時刻は十時だ。九時に営業時間は終わっているが、雑事が多かったため、直樹はまだ厨房にいた。吉田は既に、明日の仕込みを終わらせて、家の方へ戻っていた。
どうも、吉田とのケンカでは、勝算が良くない。この前のケンカのネタは、ラーメンの具材に刻みリンゴを入れないかという話だったはずだ。直樹が全力で否定すると、吉田は理不尽な怒りを直樹にぶつけ、ケンカが始まった。
その時には、直樹はかろうじて勝利し、吉田はリンゴを諦めた。しかし、果物ラーメンの夢を諦めきれない吉田は、代わりに輪切りバナナをプラストッピングに入れた。こんな無茶苦茶なトッピング、誰も注文するはずもなく、バナナトッピングは三日で消えた。こんなことばかりしていては、店が潰れてしまうのではないかと心配な直樹だったが、毎日多くの客が来ているし、あまり問題はないようだ。
かちゃん
洗ったコップを、ひっくり返して置く直樹。皿洗いや掃除などの雑事は、アルバイトである直樹の仕事だ。吉田がアルバイトを雇ったのは、これらの雑事を誰かに任せることによって、自分のラーメン作りに集中することが出来るからだ。彼はラーメンを作れればそれでいいらしい。そもそも、吉田はラーメンがとても好きな、ラーメン狂いらしい。南は沖縄から、北は北海道まで、百以上のラーメンを食べて作り上げたのが、この土曜屋のラーメンなのだ。趣味と実益をかねた、「美味しい」商売である。
(妖怪も食いにくる美味さ、ってか? 宣伝打てそうだよな)
かしゃん
ガラスのコップを濯いで、直樹がぼんやりと考えた。妖怪に対する、様々な固定概念。これは偏見に当たるものなのだと、直樹は自覚している。吉田にしてみれば、自分のラーメンを人間に食べてもらおうが妖怪に食べてもらおうが、あまり大差はないはずだ。むしろ、多くの他人に食べてもらうことを目標とするならば、相手が誰であろうと嬉しいだろう。
余計な差別意識だということはわかっているつもりだ。だからこそ、それを直さなければならないこともわかっている。どこから金を得ているのかは知らないが、相手が妖怪でも人間と同じように金銭は払う以上、彼らはいわばお客様である。商売の原則である「お客様は神様」という言葉に則るならば、どんな魑魅魍魎であろうと、たちまち神様に早変わりだ。
また、下手な人間よりは、人外達の方がよほど話が通じる場合もある。だが、直樹は人外を受け入れることが出来ない。考えてみれば、それはそうだろう。この現代社会で生活する一般的な人間は、そんな非科学的で超自然的な存在のことを、信じていない方が普通なのだろうから。
(そうだよな、何もこんなことで気に病む必要なんかないんだ)
そう思うと、少しは気が楽になる。存在しないと言われている、非科学的な者のために、罪の意識を感じるのは良くない。直樹だって人間だ、これぐらいの心は持ってしまうのだから、しょうがない。開き直りも、多少は必要である。
「はぁ……くそっ、ようやく終わった」
皿を洗い終わった直樹は、店の明かりを半分だけ消して外に出た。今夜はまるで盆のような満月だ。春の夜の満月には、風流を感じる。日本的な美しさというやつだろうか。住宅街の真ん中、桜も梅もコブシも咲いていないところで、日本美を感じるのも間違っているかも知れないが、直樹はなぜかこの月に「和」を強く感じた。
「和、か……」
前の彼女と、最後に旅行に行ったのは、一年ほど前の春だった。彼女の強い希望で、温泉に行くことになったのだ。旅館の浴衣を着て、湯上がりの匂いを漂わせ、桜の咲く夜道を歩く彼女の姿にも、強い「和」を感じた。今はもう、彼女は直樹のそばにはいない。連絡も取れない。
「だいたい、女の子と出会いがありゃ、俺は……」
ぐだぐだと、聞く者のいない言い訳をしていた直樹だったが、すぐに口を閉じた。何の意味も持たない言い訳をしても無駄だ。出会いがあれば、なんて言うのは、ダメな男の言うことだ。良い男は、街へ繰り出し、自分で出会いを作り出すものである。
「……外も掃除するか」
直樹は箒を手に取り、屋外の掃除を始めた。この土地は、吉田の所有している土地である。そこに、吉田の所有する物件として、家が建っていて、まだ土地が余っていたらしい。元より、ラーメン屋を開くことが夢だった彼は、貯金のほとんどを犠牲にして、店を建てたという話である。まさに、多額の金と命を懸けた道楽だ。
土曜屋と吉田の家は、建物的に繋がっている。家の方が、店より大きく、両方とも基本は長方形なので、繋がった建物はL字の形をしている。家は二階建てで、九部屋もあるという巨大さだ。この広い家に、吉田は一人で住んでいるらしい。元々は誰かと住んでいたらしいが、その時の話はあまり聞かない。
家の裏の、歩いて一分のところには、吉田所有のアパートがある。家とアパートの間には、他人の家と小さな道があり、地面的には繋がっていない。このアパートが、土曜屋の住み込み店員に貸し出されるアパートだ。
一階層三部屋で二階建て、部屋の広さは八畳一間、平均的なアパートで、光熱費水道費のみで部屋を貸し出してもらえる。今は三部屋空いていて、二階の一部屋には直樹が、一階の二部屋には学生と独身サラリーマンが入居している。決して悪い物件ではないし、店の方と違って妖怪が出ることもないが、なぜかいつも空室ばかりらしい。
『なぜか人気出ないんだよなぁ……』
吉田が、不思議そうに言っていたのを、直樹は思いだした。この点については、直樹も不思議に思う。
「終わり、と」
からん
箒を置き、直樹が駐車場に向かう。店の前には、客用の駐車場がある。直樹はこの一部を借りて、バイクを駐車していた。セルリアンブルーに光るこのバイクは、直樹がまだ大学生だったころ、なけなしの金を使ってローンを組んで買ったものだ。大きさは中型、ちょうど車検のいらないサイズで、彼女がいたころには後ろのシートに乗せてドライブにも行った。大学生時代は、数人の友人とバイクシェアしていたこともある。その名残で、直樹のバイクにはガソリンメーターがついていた。
通常、大型バイクや中型バイクは、メーターが付いておらずに、走行距離でガソリンの減り具合を確認する。計算ミスをしてタンクを空にしないように、リザーブという保険的なパーツも存在する。直樹は以前、バイクを数人で乗り回すことをしていたが、メンバーが走行距離を見ないで走り回ったり、リザーブを使用したままガソリン切れを起こしたり、燃費計算をミスするなどの事件が多発した。
一同が取った行動は「メーターを付ける」だった。これにより、一目でガソリンの残量がわかるようになり、ガス欠事件が起こることはもう二度となかった。今はラーメン屋の方が忙しく、乗り回すことは出来ないが、それでも眺めるくらいのことはしていた。
次の休みには、メンテナンスに出したいところだ。最近、ブレーキの利きもあまりよくないし、全体的に加速が遅い気もする。ガタがくるほどの年数を乗り回しているわけではないが、機嫌が悪くなっているのだ。構ってやらないと機嫌を悪くするのは、人間もバイクも同じだ。今年の春に、保険は入り直したから、そこだけは問題ない。また時間を見て、メンテナンスに……。
「……ん?」
ばーーー
どこか遠くから、スクーターの走ってくる音が聞こえてくる。この時間、この住宅街をスクーターで走る輩がいるのは珍しい。スクーターの音はどんどん近くなり、店の正面に伸びる、真っ直ぐな道の向こうから、スクーターのライトが見えた。
店の前の道は、横に一本、正面に真っ直ぐ一本通った、丁字路になっている。土曜屋から見て、右に曲がると県道で、左に曲がると住宅街の奥へと通じており、それなりに車通りは多い。あのスクーターもまた、右か左に曲がるのだろうと、直樹はぼーっと眺めていた。が、しかし。
「え?」
減速しない。真っ直ぐに走ってくる。曲がらない。そしてスクーターは、そのまま駐車場に入ってきて……。
ずがぁん!
「ぎゃあああああ!」
直樹の愛車の横っ腹に衝突した。バイクがぐらぐらと揺れる。スクーターもバイクも、見た目に傷はついていないようだが、こんな速度で突っ込んでくる相手の非常識さに、直樹は腹が立った。
「危ねーよ! てっめ、酔っぱらってんのか!」
直樹が突っ込まれたバイクを手で撫でた。まだローンも終わってないのだ。むらむらと怒りが沸き上がる。
「今すぐ警察を……呼ん、で……」
言葉が尻窄みになる。スクーターから降りてきたのは、デニムのミドルスカートに灰色の作務衣の上着という、おかしな出で立ちの女だった。白色の肩掛けバッグを肩に掛けていて、バッグは大きく膨らんでいる。女だと一目でわかったのは、細い体のラインと、胸の大きさ。スイカとまではいかないが、まるでメロンのように大きい。
女がヘルメットを外す。眉上を横ラインにそろえた前髪に、やけに細長い一本結びという黒髪が、月光の下に姿を現した。何より特筆すべきは、その顔だろう。目鼻立ちの整った、すらりとした顔。鋭い目が少々三白眼気味なのが気にはなるが、それを差し引いても美人の部類に入るだろう。
(きれい、だな……)
直樹が言葉を失う。一体、どこに住んでいるのか。なぜここに来たのか。もしかしてスクーターが壊れて曲がれなかったんじゃないかなど、いろいろな思考が直樹の脳内を駆け巡る。
「ごめんなさい、ぶつけてしまって」
女性が、申し訳なさそうに謝り、スクーターのエンジンを切った。
「……と、ああ! いいんすよ! なんせこいつ、もうガラクタみたいなもんすから!」
それが、自分に向けて発せられた言葉であると気づいた直樹が、適当なことを言った。心なしか、直樹のバイクが怒っているようにも感じられる。すまん、俺は女に弱いんだと、直樹はバイクに心の中で謝った。
「それよりあれっすよ、お姉さんの原チャの方が気になりますよ! あの、もしよかったら、俺が直して……」
「土曜屋ってここ?」
直樹の下心丸出しトークをカットして、女性が質問をした。
「そうっすけど……もうお店、閉めちゃったんで……って、あ?」
がらがらがら
中途半端な愛想笑いを浮かべる直樹を無視して、女性が引き戸を開けた。半分だけ蛍光灯のついた店内に、女性が勝手に上がり込む。
「あ、ちょっと。閉めたって言ってんだろ」
女性の後ろについて、直樹が店に入った。女性は、座敷席に肩掛けバッグをおろし、ふうと息をついている。
「店長、いる? 呼んできてくんない?」
当たり前のことのように、女性が直樹に言った。この珍妙な行動をとる客に、直樹は戸惑っていた。夜中に訪れて、勝手に店に入って、さらに店長を呼べとまで言っている。クレーマーの類かとも思ったが、考え直した。こんな美人がクレーマーなはずがない。
(それは偏見か……女の子にだってクレーマーはいるもんな。どうしたもんかな)
考えたあげく、彼女が吉田の知り合いなのではないかという結論に達した。この間、約三秒である。
「わかりました。ちょっと、オーナー呼んできますんで、少々お待ちください」
客を一人残していくのは、少々不安だった直樹だが、仕方なく奥に行くことにした。店の奥にある、磨りガラスの戸を開く。中は、店に出す食品などを備蓄しておく大型冷蔵庫や、塩や砂糖の大袋、丼、割り箸、その他ラーメン屋に必要な物が所狭しと並べられた倉庫になっていた。
この倉庫部分までが土曜屋である。土曜屋は小さな店なので、在庫品を置くには場所が足りないということで、吉田の自宅の一部を改造して使っている。倉庫の奥には鍵付きの勝手口があり、ここから吉田の家に出入りが出来るが、夜は防犯上の理由で家側から鍵を閉めていた。ここの鍵を開ければ、家から店への出入りが出来て、店の鍵だけを開ければ、店と倉庫への出入りが出来る。勝手口の前は一段高くなっていて、店内で履くための靴とスリッパが転がっていた。
「吉田さーん。よーしーだーさーん」
どんどん
勝手口のドアを叩く直樹。倉庫の向こうは廊下で、廊下はすぐ居間に繋がっているため、ドアを叩くだけでも居間までは音が響くが、二階まで行ってしまうとドアを叩いても音が聞こえなくなってしまう。前から、こちらにもドアチャイムを付けた方がいいという話をしていたのだが、手間の関係でまだそれは行われていなかった。こういう時には、チャイムを付けておいた方がよかったと思う。
「……もう二階あがっちまったのかな」
独り言をつぶやく直樹。もし二階に上がっならば、既に寝ている可能性が高い。こうなったら、あの女性には、オーナーはもう寝てしまったとでも言わねばなるまい。
察するに、この近所に住んでいるわけではない様子だが、一体どこから来たのだろうか。もしかして、もしかすると、泊まって行ったりはしないだろうか。遠くから来たけど、今晩の宿がなくて、どうすればいいか、などと言ったりしないだろうか。
『ごめんなさい、この辺りにビジネスホテルとかないかしら……』
『ないんですよねえ……あれっすよ! もしお困りなら、今晩うちに泊まりませんか?』
『それは助かります。でも、いいんですか? そんなに親切にしていただいて……』
『大丈夫です! 布団も用意出来ますし!』
『あら……ならば、お言葉に甘えてしまおうかしら。ありがとうございます』
『いいんすよ! あ、お酒とか飲まれます? ビールぐらいならありますが?』
『何から何までありがとう。いただきます。でも、いいのかしら……』
『良いに決まってます! 困ってる人は見過ごせないんです!』
『あら、優しいんですね。ありがとう。素敵だわ』
そして、夜が始まり、夜が終わるころには……。
「あかんわ、こらええわ……へへへ……」
「……気持ち悪い笑いしてるね、君は」
「うおっ!?」
にへらにへらと笑っていた直樹の前に、いつの間に来たのか、吉田が怪訝そうな顔で立っていた。既に、店で着ている男性用割烹着を脱ぎ、普段着に着替えている。
「あ、えーと。お客さん。吉田さんの知り合い? 今、お店の方に上がって……」
「客? こんな時間に? 心当たりないなー。ともかく行くわ」
直樹の後ろに、吉田がついていく。どうやらこの珍客は、打ち合わせてここに来たわけではないらしい。ますます、謎が深まる。
「どうもー」
店の方へ戻ってみれば、女性は勝手に給水器の電源を入れ、水を飲んでいるところだった。
「……どちら様?」
「え?」
吉田の言う一言に、直樹が凍り付く。てっきり吉田の知り合いだと思ってばかりいたが、一転して彼女は正体不明の女に変化してしまった。美人だし、悪い人物にも見えないが、勝手に給水器の電源を入れるくらいには図々しい様子だ。
「連絡してあったでしょ? 今日の昼から夕方頃、アルバイトの件でお伺いしますって。白沢美玉(しらさわみたま)っていう名前で連絡していたはずなんですが」
水のコップを置いた、美玉と名乗る女性が、眉間にしわを寄せる。ああ、またコップを洗うことになるのかと、直樹がげんなりした。ようやく食器を全てきれいにしたと言うのに。床も洗い終わって、今日はこれで終わりだと思っていたところが、また仕事が増えてしまった。
「……あー! はいはいはい、聞いていましたよ、おじさん聞いていました! シラサワさん!」
しばらく考えた後、吉田が首を縦にぶんぶんと振った。今日は客も多かったし、忙しくてすっかり忘れていたのだろう。アルバイトということは、この女性と一緒に働くことになるのだろうか。だいぶアクが濃い様子だが、女性と一緒に働けるのは大歓迎だ。
何より、人が増えると、仕事の割り当てが減る。店員が二人しかいないという時点で、割り当てられる仕事は多い。席数は座敷席と椅子席を合わせて二十二席ある。二十二席あるということは、最高で二十二人飲み食いが出来るということだ。二十二個の丼を洗う羽目になったときに、新しい客がやってきたら、もう瞬時に対応など出来ない。食器もそれほど多くはないのだ。この規模の店ならば、せめてもう一人いると仕事が楽になる。
「しかしまあ、もう夜なんだよねえ。悪いけれど、また明日……」
「ええぇ〜?」
明日、という単語を吉田が口にした途端、美玉が顔をしかめた。
「遠くから来てて……宿も取ってないのに、また明日はちょっと困る」
「宿も取ってないって、君。面接終わった後はどうするつもりだったのよ?」
「住み込みで働かせてもらえるんでしょ? アパートの部屋でしたっけ」
吉田の問いに、さらりと答える美玉。そのあまりの無計画さに、直樹は耳を疑った。面接をした後、ある程度の期間をおいて、採用か不採用かを報せる通知が来る。そこから、さあ労働だとなるのが、この店の流れだ。いきなりアパートの部屋を貸してもらえるわけではない。
「お姉さん、そんな当日にいきなり部屋を貸してもらえるわけじゃ……」
直樹が眉をハの字にした。直樹の場合は、その時に住んでいた別のアパートに採用通知が来て、その日の内に吉田の元に行き、雇用契約と引っ越しの相談をした。それから一週間ほどで荷物をまとめ、貸してくれると言う部屋についての説明を受け、契約書と保険料を渡して引っ越しを行った。家賃ゼロ、資金礼金ゼロという無茶苦茶に良い条件、しかも引っ越しの時には軽トラックを借りてきて手伝ってくれた吉田には、まさに足を向けて眠れない。
「ちょっといいですか、従業員と話をして来ますんで。おい、常田君」
手招きをする吉田に連れられて、直樹が倉庫に入る。
「どうするよ。俺、こんなパターン初めてだよ。うーん……」
吉田が腕を組んで唸り始めた。
「今日は一応泊めて、明日店を開ける前に軽く面接ってことでいいんじゃ?」
「それが一番無難かねえ。こんな夜中に、追い出すわけにもいかないしねえ。どっから来てるかわからんが、遠くから来ているみたいだしね」
「うん。判断は明日に保留にしよう。今日はさすがに唐突すぎる」
直樹と吉田が目を合わせ、頷く。
「じゃあ、うちに泊めるわ。うち、布団二枚あるし……」
「いや待て。俺の家の方が大きいだろ?」
がしっ
いそいそと外に出ようとした直樹の肩を、吉田が掴んだ。
「いやいやいやいや、雇用主にそんな重荷を背負わせるほど、俺は残酷な男じゃないぜ? 安心してくれよ」
「それこそ、ここはおじさんに任せておけよ、少年は一人ですることだってあるだろ? 他人がいたら困るんじゃないのか?」
「いいっていいって。友達泊められるように普段からいろいろ用意してるしさ」
「まあ、任せろよ。ここはおじさんに気を使わせてくれよ」
暫時、二人の間に沈黙が流れた。そして……。
「うるっせぇよ、この野郎! てめぇに任せたら何かありそうなんだよぉぉぉ!」
「んだと、この糞ガキ! てめえこそ下心丸出しにしてるんじゃねえぇぇ!」
ばき! ばき!
またケンカが始まった。結局、二人とも考えてることは同じだ。ラーメン屋なんて仕事をしていると、遠くに遊びに行くこともなくなるし、おしゃれをすることもなくなる。客以外で女性と知り合う事もなくなる。その客も、老人がほとんどで、デートに誘える相手はなかなか来ない。そんな状況で、見目麗しい女性が一人転がり込んできたのだ。下心が涌いても、おかしくはない。
「ちょっと〜、私はどうすればいいわけ?」
拳の飛び交う戦場に、美玉が入ってきた。殴り合いをしていた二人がぴたりと手を止める。美玉は二人を放置して、冷蔵庫を開け、勝手にビールの瓶の栓を抜いた。
「おい、あんた、何を……」
んぐっ、んぐっ、んぐっ
呆気にとられる吉田の前で、美玉がビールを喉に流し込んだ。泡が瓶の尻の方へ溜まり、金色の液体が見る見るうちになくなっていく。
(これ、隠し芸か何かか?)
直樹は言葉を失った。五○○ミリリットル以上あるビールは、約十秒で空になり、美玉は瓶から口を離した。
「えーと、ねえ。あんた。何か言うことは?」
眉毛をひくひくと動かして、吉田が美玉に詰め寄った。
「うん、美味い」
「そうじゃねえだろぉ!」
にっこりと笑った美玉に、吉田が突っ込みを入れた。
「もう面接するまでもないね。ほら、帰って。不採用」
どうやら吉田の下心は、怒りで上書きされてしまった様子だ。しっしと、ハエでも追い払うかのごとく、吉田が手を振った。その手が、美玉の握りしめていたビール瓶をひったくり、瓶回収箱の中に入れる。
「ええ〜? 何で?」
「そりゃあねえ、勝手に給水器の電源入れたり、勝手にビール飲んだり、協調性無きことこの上無しです。ぼかーね、言った通りに働いてくれる、ちゃんとした従業員が欲しいわけです。そのために、わざわざアパートの部屋を融通するわけですから。いわば家族ですよ」
嫌に丁寧な口調でまくし立てる吉田。確かに、家族という言葉は上手い言い方だと、直樹は頷いた。親子というわけでもないのに、吉田と仲良く出来ているのは、吉田が体当たりで直樹のことを気遣ってくれるからだ。悩みも聞いてくれるし、世話も焼いてくれるが、直樹がそれを望まない場合は、吉田は直樹を放っておいてもくれる。その点においても、直樹は吉田にかなり感謝している。
「あなたは不的確、今回は縁がありませんでした。ご健闘をお祈りします。おしまいおしまい。さあ、出てった出てった!」
ぐいぐいぐいぐい
「あ、あ。ねえ、ねえってば」
美玉の背中を押して、吉田が外に追い出そうとした。その矢先。
くるり
押されていたはずの美玉が、おかしな身のこなしで、いつの間にか吉田の後ろに回り込んでいた。例えるならば、犬か猫が足の間を抜けるような、おかしな動きだ。
「れ?」
押していたはずの手に手応えがなくなった吉田が、軽くよろける。
「ねえ、お願い。ここを追い出されたら、もう行くところがないの。ちゃんと働くし、もうビールを勝手に飲んだりしないから。ね? お願いします」
ぺこりと美玉が頭を下げる。束ねた髪が、たらりと前に下がり、美玉の膝辺りまでぶら下がった。
「ダメです。うちは普通ではないお客さんも来られるお店で、雇うにはかなりの壁があります」
口をとがらせる吉田。嘘をつけ、と直樹が心の中で突っ込んだ。直樹を雇ったときには、あまり深く考えていない様子だったのに、今更そんなことを……と。しかしまあ、これだけ自由奔放な相手だ。雇用を見合わせたくなるのも、わからないでもない。
「普通じゃなくても大丈夫よ。私、がんばる」
「だーめ。図々しいね、君は。おじさんはもうダメって決めたの」
ガッツポーズを取り、食い下がる美玉に、吉田は疲れてしまったようだ。手を頭に置いて、ため息をつく。
「もう無理だと思いますよ。諦めて帰って、別の仕事を探した方が、話が早いんじゃないすか?」
最後の一本でいっぱいになった瓶回収箱を、直樹はよいしょと持ち上げた。いっぱいになった回収箱は、指定の曜日に出入りの業者が回収することになっており、明日の定休日がちょうどその日だ。なので、回収しやすいように、店の入り口近くに置いておく。
こんな小さい店までも、仕入れや回収を請け負ってくれる業者は、非常にありがたい。前までは、週一日のペースで、遠くの業務スーパーまで仕入れに行っていたらしいが、今はもうそんなこともしなくていい。大変便利である。
「しょうがないなあ……」
ちゃら
美玉は財布を取り出し、中をごそごそと漁る。取り出したのは五円玉。それを、抜いた髪の毛に縛り付け、ぶら下げた。
「はい、あなたは私を雇いたくなりますよー。働きますよー。いいですかー?」
ぶらん、ぶらん
吉田の目の前で、美玉が五円玉を揺らし始めた。
「君ねえ、ふざけるのも大概にしなさいよ」
吉田の額に、青筋が浮かんでいる。だいぶ怒っているらしい。度胸のある女性だと考えながら、直樹が瓶のケースを店の方へ運んだ。もし吉田が怒るようなことがあれば、止めないといけない。
「仕事を任せたくなりますよー。アパートに住ませたくなりますよー。あとお酒を飲ませたくなりますよー。ついでにラーメンも食べさせたくなりますよー。あ、イチゴとか好きなんで、それもくださいー。いいですかー?」
「いいわけないでしょうが!」
規則正しいリズムで、美玉の声が聞こえてくる。それをかき消すように、吉田の怒鳴り声も響く。重い箱を置き、直樹は給水器の電源を切った。テーブルの上にあるコップを取り、洗い場へ持っていく。
じゃー
水を出し、コップを洗う直樹。恐らく、口紅か何かついているだろう。きれいにしなければと、スポンジを手に、直樹がコップを持ち上げる。
(あれ?)
コップは水洗いをしただけできれいになった。口紅をしていないのだろうか。思えば、ファンデーション特有のあの匂いが、美玉からは漂ってこなかった。つまり、彼女はすっぴんであれだけの肌だということになる。
「なわけないよな……人の肌って、どんだけ気を使っても劣化するし……お化粧くらいするよな……」
ふふっと笑い、直樹が倉庫の方へ戻った。
「働きますよー。働くんですよー。まず一週間だけでいいですー。運命預けてくださいー。お願いしますー」
真剣な面もちで、ぷらぷらと五円玉を揺らす美玉。やはり、この女性はかなり特異な性格のようだ。まるで小学生のようなことを、真面目になってやっている。
「よし……」
吉田さん、と名を呼ぼうとして、直樹はとどまった。吉田は、さっきまでの怒り顔を解き、目をとろんとさせている。今にも寝入ってしまいそうだ。
「吉田さん?」
吉田の肩を掴み、ぐらぐらと揺さぶる直樹。ようやく吉田は起きたようで、はっとした顔で辺りを見回した。
「……うん、常田君。この子、一週間だけでいいから雇おうか」
眠そうな目で、吉田が言った。瞳孔がすっかり開いてしまっているのが恐ろしい。
「はぁ?」
直樹は我が耳を疑った。対する美玉は、髪の毛のついた五円玉をポケットにしまい、にこにこと微笑んだ。
「情熱が普通じゃないヨ。やっぱり、こういう店員が欲しいんだヨ」
語調すらも普通ではない。どこか、おかしくなってしまった様子だ。先ほどまでの吉田との、あまりの違いに、直樹は唖然とした。
「ああー、後さ。今度久しぶりに、僕ん家でお酒でも飲もう。いいのがあるんだ。今日はもう遅いから、そうだな、今週中に。早めに店が終わる日があったら、飲もうヨ」
千鳥足で、吉田が勝手口から家へ入っていった。酒など飲んでいないはずなのに、既に出来上がってしまっている。美玉のせいであることに間違いはない。驚くより先に、直樹は納得してしまった。この常識のなさといい、おかしな妖術といい、この女性は何かこの世界の法から外れた人間らしい。美玉は、そんな直樹の思惑を見透かしたかのように、嬉しそうに微笑んだ。
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