―――――零―――――
〜ある山の中で〜


 抜けるような青空に、白い雲がぽっかりと浮かんでいる、春の昼。鳥が飛び、蝶が舞う。季節は春、ぽかぽかした陽気の中に、柔らかい風が吹き抜ける。そんなに広くもない、森の中の空き地に、一人の女性が寝ころんでいた。
 長い黒髪、前髪をそろえ、後ろで一本結びにしている女性だ。灰色がかった作務衣の上着に、厚手のデニム生地のスカートを履き、ごろんと寝転がっている。大きいクリーム色の肩掛けバッグを枕にして、春の日の中で寝息を立てている彼女は、とても幸せそうだ。
「おうぃ。おめぇ、こんなところにいたのけ」
 女性の横に、いつの間に来たのか、一人の老婆が立っている。真っ白い髪を乱雑に縛った老婆は、割烹着を身につけ、手にはカゴを持っていた。
「婆ちゃん。私を探してここに?」
「んにゃ。ワラビを採りに来たのよぉ。おらぁてっきり、おめはまだ部屋で寝でるもんだとおもったでな」
「もうお昼よ。さすがに一度は起きるわ〜」
 かっかっか、と笑う老婆に、女性が返事をした。しかし、相変わらず起きあがる様子は見られない。まるでそれが当然であるかのように、草の上に横たわっている。
「飯は食ったが? 戻って、簡単なもんでもこさえるか?」
 空き地の端に生えているワラビを採り、老婆が聞く。
「もうご飯は食べたから大丈夫よ。婆ちゃんこそ、ご飯は食べたの?」
「ん、食った。もう米がないでな、買いにいかんと。街が遠いのは不便だなあ」
 老婆が頭を垂れた。老婆の家が、山奥の一軒家であることを、女性は知っている。時は二十一世紀初頭。漫画などで見られる未来世紀に入った今、こうした場所で生活をする老婆がいるという事実は、時代錯誤に感じるかも知れない。だが、老婆は老婆で、街で暮らせない事情があるのだ。
「しかし、おめぇはよく寝るなぁ。そのうち、目ん玉ぁ溶けちまうぞ?」
 起きようともしない女性に、老婆がにっかりと笑顔を向けた。
「寝るのが仕事だからね〜」
 体の上を歩くバッタを捕まえた女性が、バッタの腹を眺める。ひごひごと足を動かし、女性の手から逃げようと、バッタが抵抗する。女性がバッタをぽいと投げると、バッタは羽を広げて飛び去った。
「寝るのが仕事かい。こりゃあいいや。はっはっはっは」
 心底楽しそうに、老婆が笑う。それに連られて、女性も笑った。数間の後、二人は申し合わせたように、ぴたりと笑いを止めた。
「……もう一ヶ月経っちゃったんだね」
 名残惜しげに、女性が言った。そう、もう一ヶ月。女性が老婆の元に来てから、もう一ヶ月になる。
「おめぇが望むなら、もっといてもええんだぞ? こんなざいご(田舎の意)で悪ぃが、住めば都、おらぁ……」
「いいの。決めてたから」
 下半身を持ち上げ、女性が足をぶんと振った。その反動で、女性はくるりと回転し、地面の上に立ち上がった。髪から服から、草きれがはらはらと落ちる。
「一ヶ月でここから出るって約束だったしね。ありがとう、楽しかった。また来るわ」
 ぱんぱんと服を叩き、女性が草を払った。それを、老婆が悲しそうに見つめる。
「山に入っだ人間を食うっちゅう、無茶苦茶な噂から守ってくれてぇ、おら感謝してもしきれないよぉ。過去のことなんて忘れなよ? せめてもう一週間だけ……」
「ダメよ。これ以上ここにいたら、迷惑かけちゃう」
 老婆の引き留める言葉を、突き放すように女性が否定した。鞄を開いて、中を確認する。必要最低限の道具と、一見しただけでは何に使うかわからないガラクタ。それが、女性の持ち物だった。
「んだばよ、家の横につけてあるバイクさ乗ってげよ。ほれ、鍵」
 ひょい、と老婆が鍵を投げた。
「いいの?」
 鍵を女性が受け取る。猫のアクセサリのついた小さな鍵。それがスクーターの鍵であることを、女性は知っている。
「いいって。軽トラがあるでな」
 にっこりと老婆が笑う。寂しそうで悲しそうで、でもその心を無理に押しとどめているかのような、そんな顔だった。
「おめぇ、ここから出て、どこ行く? またどっかの知り合いを頼るのけ?」
 老婆の家の方へ戻ろうと、足を踏み出した女性に、老婆が後ろから声をかけた。
「もう知り合いは回り尽くしたわ」
 スクーターの鍵を指でひっかけ、くるくると回し、女性が空を見る。
「私、町に出てみようかと思うの。ほら、私って特徴ない顔してるじゃない。もうずいぶん経ったし、人里に降りてもいいと思うんだよね」
「ええのが? また、追っ手が……」
「その時にはその時で、なんとかするわ。もうそろそろ、逃げてもいられないことになるだろうしね」
 心配そうな老婆に、女性が微笑んだ。
「町さ出て、どうするつもりだ?」
「そうね……」
 老婆の問いに、女性は暫時考え、答えを出した。
「ラーメンが食べたい、かな


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