かなりの距離を走った。空は暗くなり始め、森の中は薄暗い。森の中に、煙が立ち、火がついている。火を噴く獣でもいたのかと、バルは警戒しながら近づいた。
「君は?見かけない顔だが…」
 階級証を胸につけた軽装兵が、バルを見て立ち上がった。煙が立ち上っていたのは、森の中の空き地だった。テントはられ、数人の兵士が忙しく出入りをしている。火の近くには、救われた商人であろう男性が、茫然自失で座り込んでいた。よく匂いを嗅げば、この火が危険な生物によるものではなく、調理をするために起こしたものだということに気が付いたはずだ。バルは自分の洞察力が足りないと反省した。
「俺のことはどうでもいいんです。商人の人は無事でしたか?」
 ここで嘘をついても、すぐにばれてしまうだろうと、バルは相手の言葉を遮った。
「あ、ああ。彼自身は助けたよ。ただ、馬車は引きずりこまれてしまったが…」
 兵士がちらりと商人の方を見る。転がっていたのは、馬車の破片らしきものと乗っていたであろう大きな箱。破片の大きさから見て、相当な大きさの馬車だった様子だ。それを引きずり込むケダモノが、この先にいると思うと、バルは身震いした。
「リキルはここにいますか?」
 リキルのことが心配になったバルは、兵士に問いただした。
「リキル…いないな。彼は恐らくこの先だ。一人、先に行ってしまったんだ」
 兵士が奥を指さした。小さな道が一つある。その道の奥には、竜巻でも通ったような、木がなぎ倒された跡があった。
「俺はリキルの友人です。ここで何か事件があったと聞いて、居ても立ってもいられなくて…」
「そうか。魔物うろつく中、ここまで来られると言うことは、相応の腕なんだろう。大丈夫、彼はすぐ戻ってくる。ここで休んでいるといい」
 火の近くに招かれ、バルは腰を下ろした。カップに入ったココアが、バルのところまで回ってきた。バルはそれを、お辞儀一つして受け取った。
「…」
 隣に座っている、商人風の男は、ヒューマンのようだ。黒めの肌に赤い髪が伸び、体が大きい。よほどのショックを受けているのか、何もしゃべらない。
「あの…」
 バルが恐る恐る話しかけた。商人は、バルの方を少しだけ見て、また目を落とした。
「君は、旅人かな…早くこの森から出て、安全な街へ行った方がいい…」
 先ほどの負傷兵と似たようなことを言う商人だが、言葉にこもった感情が違う。先ほどの兵士は無関係な人間の安全のため、この商人は自分が知る恐ろしさのためだ。
「でかい犬が、現れて…わしの馬車を引きずって行って…くそぉ、あれはわしの全財産なんだ…どうすれば…」
 商人は絶望しきった声を出した。こういう状態の人間を見るのは好きではない。元気のなさが移る気がするからだ。何も言わず、カップの中のココアを、バルは口に流し込んだ。今にも、化け物がまた現れる気がする。
「この陣地の周りは、結界が張ってある。悪しきものが入れんようになっておる。案ずることはないよ。これもまた、旧世界の技術の一つなんだがね」
 向かいに座る兵士が、快活に笑った。この陣地の周りに、何か粉のような灰のようなものが撒かれていることに、バルは気づいた。恐らく、魔法系統の何か、呪術的なものだろう。道理で見張りも立てず、のんきに夕食を作っているわけだ。
「いつまでもここで休んでるわけにもいかない。俺、行きます」
 階級証の兵士に、バルが空になったカップを渡す。
「そうか、わかった。気をつけて戻るといい」
 兵士がカップを水場に持っていく。どうやらこの兵士は、バルが街の方へ戻るものだと思ったようだ。だが、今のバルの中に沸き立つよくわからない気持ちは、彼をもっと先へと進ませようとしている。バルは兵士の目を盗み、木のなぎ倒された方向へ向かった。
 空はすっかり暗くなった。足下も危うい。バルは、木の倒れて出来た道をなぞるように、先に進む。道はかなり続いているようだ。
「グオオオオ!」
 またもや犬が現れた。それも2匹だ。複数を相手にして、無傷でいられるだけの強さを、バルは持たない。まずは1匹ずつ、確実にしとめないといけない。バルは、2匹が固まっている方へ向かって、石を蹴った。
「キャン!」
 犬の1匹が石を食らい、一歩後ろへと後ずさった。2匹が離れた瞬間に、バルは片方の頭に、ナイフを抜き放ち振り下ろした。
「ギャヒィン!」
 犬の片割れが地面に倒れる。もう1匹は、それを見て怒りを駆り立てられたのか、防御も何も考えずに遮二無二バルに突っ込んできた。
「ふっ!」
 その顔に拳を打ち込むバル。鼻面を打たれた犬は、どうっと地面に倒れた。起きあがって、なおも攻撃してこようとする犬に、バルはナイフの一撃を打ち込んだ。2匹とも、これで戦闘不能だ。
「ふぅ…もう少し休んでこればよかったかな…」
 体力の低下が激しい。どうやら、少し急ぎすぎたようだ。ここから先は、走りではなく歩きで移動した方がいいかも知れない。
 がぶっ!
「くう!」
 思案していたバルの足に激痛が走る。いつの間にか、3匹目の犬が現れ、バルの右足に牙を立てていた。
「このっ!」
 犬を蹴り飛ばし、バルがバックステップを入れる。足に痛みが走り、バルは尻餅をついた。犬の顔からは、敵意しか感じられない。普通の生物と違う、恐ろしいところがこれだ。
「うっ…」
 もう1匹、闇の中から犬が現れた。このままでは、先に進むことも出来なくなってしまう。バルはナイフを強く握りしめ、向こうの攻撃を待った。相手の攻撃に、カウンターを入れるようなやり方ならば、今のこの機動力のない体でも、確実に犬をしとめることが出来るだろう。しくじれば、痛い目を見ることになる。
「ガウウー!」
 犬が飛びかかる。バルはそれを、身を固くして待った。
 ザクゥッ!
「ギャアン!」
 横から、いきなり鋭い刃が現れた。刃と同時に、背の低い少年が転がりだしてくる。
「リキル!」
 その横顔に、バルは声をかけた。
「バル。こんなところまで来るなんて、一体どういう風の吹き回しだい?」
 向かってくるもう一匹を、剣で迎え撃ち、リキルがバルに聞いた。
「君の考え…その、人の役に立つっていうのを聞いて、俺もそんな気分になったんだ。それに、君が少し心配でね」
 リキルの差し出す手を取り、バルが立ち上がった。
「そうか…ありがとう。ここから先、君はどうする?」
「ついていくよ。手伝おう。好奇心もあってね」
「本当にありがとう。実は僕も、一人で突っ走って、少し不安だったんだ」
 剣を鞘に収め、リキルが歩き始めた。バルは、周囲を警戒しながらついていく。ここに来るまでに、両手の指では足りないほどの魔物を倒している。ここから先に、また新手が出てくることは、間違いないだろう。だが、2人でいれば、1人の時よりはまだ安心できる。タッグを組んだ相手が剣士ならばなおさらだ。
「いいか、バル。もし僕の身に何か起きたら、僕を置いてすぐに宿営地に戻ってくれ。そして、小隊長に応援を頼むんだ」
 足下の茨を迂回して、リキルが言った。
「わかった、そうする」
 リキルの通った後をバルがついていく。リキルの剣の腕が、かなり高いかと言えばそうでもない。いっぱしに成り立ての剣士と言ったところだ。バルは旅人だし、戦闘にはそれほど強くもない。万が一に備えることが必要なのだろう。
「…!」
 リキルが立ち止まり、木のなぎ倒された道から右側へと逃げた。バルが何事かと、リキルの肩越しに向こう側を覗き込む。そこには、遺跡があった。街にある、石の入り口だけの遺跡ではない。高い塀に囲まれた、台形立方体の建物だ。左右に伸びる大きな塀は、ぱっと見渡しても終わりが見えない。石の塀には、大きな扉がついており、その前には奥幅100メートル、横幅200メートルほどの、石畳の空き地があった。
 石畳の上に、大きな犬が寝そべっていた。犬の身長は、成人男性の身長4人分程度だろうか。殺意の漏れる目、長い鼻、そして鋭い爪に大きな牙。犬と言うよりは狼に近いかも知れない。バルの頭から上半身まで、この口ならば一口で噛める。通常の狼と違うのは頭だ。目の上に、バイソンのような長くて大きな角が出ている。狼の前には、ぐちゃりとつぶれた馬車が転がっていた。馬車を引いていた馬の姿は見えない。もう逃げたのか、それとも狼の胃袋の中か…。
「あれか…」
 バルが木の陰から、狼の様子をうかがった。ぺたんと腹を置き、遺跡の前に座っている狼は、大きさと角さえ除けばまだ普通の動物のようでもあった。狼は、倒れた馬車の中から出た荷物を、くんくんと嗅ぎ回っている。どうやら、何かを探している様子だ。餌でも探しているのだろうか。
「あの遺跡は、古代の神を祭ったピラミッドらしい。神の名前を取って、カルバ遺跡と呼ばれてる」
「カルバ?神の名前?」
「うん。その昔、カルバは主神に刃向かって、力を奪われたと言われている。いわば、反逆神なんだけど、あのピラミッドには、そのカルバが封印されているという話らしい」
 バルは、向こう側のピラミッドの上に、何か石像が建っているのを見た。悪魔人のようでもあり、トカゲのようでもある。
「この辺りの物語なんだ。カルバ以外にも、2人の星神が、主神に刃向かったと言われている。彼らの神殿もこの地にあるんだ。もし興味があれば、城の書庫を見せてもらうといいよ。おとぎ話の本が置いてある」
 ざっ
 リキルが土を踏み、後ろに下がった。
「あの門には鍵がかかっていてね。どこかにその鍵があるんじゃないかと、一時期この国を中心に探されたんだけど、見つからなかった。未だに、あの中には何があるかわからないんだ。あの門には、鍵穴らしきものも見あたらないし、お城の兵士が10人集まっても壊すことが出来なかったんだよ」
 バルはもう一度、ピラミッドの方を見た。ピラミッドは、漆黒の空の下にその身を置いていた。ふっと、小さな風が流れる。森の葉鳴りとピラミッドの姿が、バルの目の前で奇妙な符合でマッチした。
「神秘的だね」
 バルがぽつりと感想を漏らした。
「そうかい?主神に刃向かう悪神という話を知ってる僕には、邪悪に見える」
 リキルがその感想に対して返事をする。しばらく、2人は何も言わず、ピラミッドを眺めていた。
「…と、こんなことしてる場合じゃない。応援を呼ぶ?それとも、あの馬車を諦める?」
 バルがリキルに問う。
「うーん。馬車自体は諦めてもいいらしい。だが、あの中にある金で出来たブローチだけは、手に取り戻したいそうだ」
「ブローチ…あのおじさんの大事な物?」
 あの商人の男は、ブローチをするような顔には見えない。彼自身の持ち物ではないことは明白だ。
「うん。彼の、奥さんの形見だそうだ。この国にある奥さんの墓地に、一緒に埋葬したいらしい」
 やはりか、とバルは心の中で納得した。そういう理由ならば、是非ともブローチを取り戻したいが、目の前の狼は石畳の空き地から去るような様子すら見せない。
 バキリ…
 箱の一つを、狼が噛みつぶした。中から、ざらざらと金属と石がぶつかる音がして、貴金属がこぼれた。その貴金属を、狼が前足でじゃらじゃらとかき回していたが、中から何かをくわえあげた。この距離では、何をくわえたのか見えない。
「…?」
 バルは、自分の左側から声が聞こえたような気がして、道の方を見た。2つの影が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。いや、バル達を目指しているわけではない。狼の方を目指しているのだ。
「いたぞ、奴だ」
「でけぇな。あいつを殺れば、たっぷりと恩賞をふんだくれる」
「ああ。当分遊んで暮らせるぜ」
 どこかで聞いた声だと、バルが耳を澄ました。そして気が付いた。昼、3人のシケラネ教徒を恐喝していた傭兵だ。悪魔男も獣人男も、昼とは違う、重そうな鎧を装備している。2人とも、長い柄の付いた戦斧を手に持っていた。
「俺がまずやつを引き寄せる。その間に、お前が奴の横っ腹から斬り掛かれ。後は、2人がかりで何度も斬りつけてりゃ、そのうちおだぶつだ」
「この鎧なら、たかだか犬野郎の牙なんざ簡単に防げるからな。適当に斧を振り回してるだけで勝てるなんて、楽な相手だぜ。ぬかるなよ」
 ゆっくりと、狼に近づく兵士。2人を止めようと、バルが声を出すのを、リキルが止めた。
「少し様子を見よう。あの装備なら、即死はない。何より、今僕たちが声をかけて、連携を取れるかと言えば疑問だ。仲間割れをしていちゃ、成功する任務も成功しない」
 冷静に言うリキル。彼の言うことももっともだと思った。彼らは彼らのコンビネーションがあるのだし、ここは様子見に任せてもいいだろう。何より、彼らは力や装備の強さだけならば、バルとリキルを数人集めてもかなわないほどのものがあるだろう。
「ハァーッ!」
 悪魔男が戦斧を構えて突進した。狼は、その男の姿に気が付き、ゆっくりと体を起こした。
「でぇい!」
 悪魔男が戦斧を狼の頭めがけて振り下ろす。この速度ならば、狼の頭にすんなり入るだろうとバルは思った。前にいる傭兵2人もそう思っていたことだろう。だが、狼は胸をのけぞらせ、頭を後ろに下げるだけで、その斧の一撃をかわしてしまった。
「素早い…」
 バルがぽろりと感想を漏らした。あの体の大きさで、ここまで素早い動きが出来るとは、やはり群のボスというものは違うのだろう。
「ガオォォオオウ!」
 げしぃっ!
「ぎゃあ!」
 狼が、まるでうるさい虫だとでも言うような様子で、悪魔男を踏みつけにした。
「野郎!」
 獣人男が、その腕に向かって戦斧を打ち込んだ。食い込んだ斧は、狼の毛皮を切り裂いた。狼の前足から血が流れ出す。斧の振り方を見るに、ただの無鉄砲な傭兵とは違い、それなりの場数は踏んでいる様子だ。
「グゥオオオウ!」
 まるでコインでも蹴飛ばすかのように、狼が悪魔男を蹴り飛ばした。蹴り飛ばした男は、獣人男にぶつかり、2人は遠くに吹っ飛ばされた。
「ぐぁぁ…!」
 ごろん、と獣人男の兜が転がる。2人とも、全身に強い打撲を負った様子だが、まだ戦えるようだ。斧を取り直し、立ち上がり、狼の次撃を待つ。
「不味いな、加勢しよう」
 バルがナイフを抜き放ち、兵士の方へ向かう。
「ああ。君は、あいつらと反対方向で奴を引きつけてほしい」
「わかった。その間になんとかしてくれ」
 たったったったっ
 駆け足でバルが狼の前に滑り込む。狼は、兵士2人に追撃をかけようとしていたのを、止まった。
「来いよ、こっちだ!」
 バルは大仰に体を飛びはね、狼のことを挑発した。狼は、バルのことを敵だと認識したらしく、バルの方にターゲットを変えた。バルは、狼を誘導するように、兵士と反対側へ駆け出す。
「立てるか?」
「あ、ああ」
 大きな兵士の脇の下に潜り、リキルが兵士を立たせた。昼間、ケンカをした相手だということに気づいて鋳ない様子だ。バルの前にいる狼が、振り上げた前足を振り下ろす。バルは、サイドにステップし、それを間一髪で避けた。
 バキィ!
 狼の前足が、転がっていた木箱を蹴った。木箱は砕け散り、破片が飛び散る。その破片の一部が、鎧を着た兵士の背中にぶつかった。
「ぐっは!」
 獣人男が背中に直撃を受けて再度倒れる。倒れる途中、固い鎧が悪魔男にぶつかり、こちらも倒れた。ここで、獣人男の意識は衝撃に耐えられなくなったらしく、ぴくりとも動かなくなった。
「おい!しっかりしろ!」
 リキルが鎧を揺さぶるが、反応がない。死んでしまったということはないだろうから、恐らく気絶してしまったのだろう。
「い、今、助けを呼んでくる!」
 悪魔男は、落ちた兜を拾うこともなく、その場を走り去った。後には、男の持っていた戦斧だけが残った。ここで、獣人男を放置して逃げることは出来ない。事実上、バルとリキルは退路を断たれてしまったのだろう。助けが来るまで、この狼の相手をせざるを得ない。
「ゴアアアア!」
 怒り狂った狼が、バルに向かって噛みつこうとした。バルは、その口が近づいた瞬間に右に転がった。同時に、バルの右手が狼の頬毛を掴んだ。狼が顔を戻す反動で、バルは空高く舞い上がった。
「バル!」
 リキルからすれば、バルが狼に放り投げられたかのように見えたのだろう。バルは、彼を安心させるために親指を立てた。くるりと空中で一回転したバルは、狼の背中にしがみついた。野生の獣だというのに、ノミ一匹も見あたらず、泥ひとかけもくっついていない。どことなく気品も漂うその姿は、ただの魔物という枠から外れた相手に見えた。
「ガウウ!ガウウウ!」
 狼が首をぶんぶん振って、バルを振り落とそうとした。その首元に、バルが強く抱きつき、離れまいとする。バルは自分が、まるで大海で時化に出会った小舟になったかのような気持ちになった。
「バル、時間を稼いでくれ!」
 リキルは、倒れている獣人男を、なんとか戦闘区域から離脱させようと必死になっている。だが、彼の力では、鎧を着た重量のある男を担いで逃げるのは不可能だった。
「ああっ!」
 どさっ!
 とうとう、バルは振り落とされてしまった。地面にぶつかり、握っていたナイフを取り落とす。
「あ…!」
 ナイフが転がっていく。普段なら、ぱっと手に取る事が出来ただろうが、全身がきしむような痛みが、バルの動きを鈍くした。彼の横に、肩下げ鞄の中身が散らばる。携帯食、カンテラの予備油、鉛筆。その中に、黒い六面体があった。
「あれは…」
 バルはその六面体に手を伸ばした。この状況でなら、13階の悪夢の力を借りてもいいだろう。本当に、不思議な力がバルに宿るのかどうかはわからないが、機械と共に生きる人間が与えてくれた物だ。試してみる価値はある。
『もう少し、もう少しで手が…』
 ドスッ!
「ああ!」
 13階の悪夢を、狼が踏みつけにした。バルの手に、狼の肉球がぶつかる。バルは1度転がり、起きあがった。武器も何も手元にない、ここは逃げるより他あるまい。立ち上がったバルは、右足が痛むのを感じた。さっき犬に噛まれた場所だ。
「グルル…」
 狼は、踏みつけにした13階の悪夢を、口で器用に拾い上げた。ちゃら、と鎖の音が鳴る。狼の大きな目が、バルのことを睨み付けている。
『俺、死ぬんだな…』
 バルが拳を握りしめる。ストレスが一気に頭に昇り、バルは耳の奥がぐわんぐわんと鳴るのを感じた。胃液が突発的に口まで昇る。体中が熱い。
「来いよ。ただじゃ殺されねえぞ!」
 バルは負けずに狼の目をにらみ返した。ただ食われるだけじゃ収まらない、舌にでも一発噛みついてやる。
「…」
 狼は何も言わなかった。くるりと方向を変え、壊れた馬車の車輪を踏み、のっしのっしと遺跡の方へ帰っていった。人ならば3人分ある高い塀を、狼がジャンプで飛び越え、中に姿を消した。
「…なんだったんだ」
 バルが呟く。まるであの狼は、自分に向かって何かを警告したかのようだった。これ以上来るな、とでも言いたかったのだろうか。だが、巨大な狼に睨まれたくらいで、バルの好奇心は萎えはしない。この地に眠る、不思議な何かに、バルは心を惹かれていた。例えあの大きな牙でも、探求心を殺ぐことは出来ない。
「バル、今のは一体…君は魔物と会話が出来るのか?」
 狼の消えていった方向に顔を向け、リキルが聞いた。
「会話なんて出来ないよ…でも、今のは…」
「今のは?」
「今のは…なんだか…ううん、なんて言えばいいかわからないけど、あいつの言いたいことがわかった気がするんだ」
 痛みをこらえ、足を踏み出すバル。馬車の被害状況が気がかりだ。壊れた箱の近くに来たバルは、何かを踏みつけてしまった。屈んで拾い上げ、星明かりに透かす。それは金で出来た太陽で、真ん中には赤、青、緑の3色の宝石がくっついていた。
「リキル。これ」
「ん?」
 バルの差し出した太陽をリキルが受け取る。
「…これは…うん、これがあの商人のブローチだろうね」
 しげしげと眺めた後、リキルはバルの手にブローチを返した。
「後で返しに…」
「おーい!」
 突然聞こえた大声に、バルはブローチをポケットに入れ損ね、地面に落としてしまった。森にいくつもの松明が光り、鋼の光沢が並んでいる。
「こっちだ!」
 森の方から、ぞろぞろと兵士の群が現れた。さっきの兵士が呼んだ応援が、今来たらしい。
「来てくれたんだ」
 リキルがほっとした声を出す。バルも、体から緊張が抜けるのを感じた。痛みがじんじんと戻ってくる。
「とりあえず、まず陣地に戻ろう。肩、貸すよ」
 バルのナイフを拾い、リキルが言った。バルは、ナイフを受け取って鞘に収め、リキルの肩に手を回した。


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