「こっちまで、来ると、思う?」
息をついたエミーが、バルに意見を求めた。
「わかんない。目の前にいない物は存在しないって考えるタイプだったら、こっちにこないかもね」
「そうであることを願いたいわ。あたし、もうそんなに走れない…」
どごぉぉ!
「うわっ!」
淡い期待は泡となって消えた。背後の壁が、大きく破壊されている。扉がはずれ、がちゃんと音を立てて床に倒れた。怪物の赤い目が、こちらを伺っている。
「走って、お兄さん!」
言うが早いか、エミーは駆けだした。その後ろを追うように、バルも走る。エミーに抱かれたスウは、泣けば皆に不安を与えることを知ってか、泣かないように必死にこらえている。
「はあっ、はあっ、はあっ」
舌を出し、荒い息をするバル。ここまでハードな運動をするのは久しぶりだ。それだからか、体が重く、息が続かない。思えば、昼間には広い平原を一人、長い間歩き回っていたのだ。体力が尽きても不思議ではなかった。
「バルハルト、ワタクシを放り出して、あなただけでも逃げなさい!」
バルのつらそうな様を見て、シンデレラが叫んだ。
「面白いご冗談です、姫様」
「でも、このままじゃ、あなたまで餌食に!ワタクシは、民のためならば、命を惜しみません!命令です、ワタクシを置いて行きなさい!」
「俺はこの国の人間じゃないんですよ。だから、姫様の命令を聞く義理はないんです」
シンデレラを抱きなおし、バルは走り続けた。彼女から、ふわっと漂う甘い匂い。バルはなぜか、故郷の母を思いだした。と同時に、母の作る料理を思い出し、自分が空腹状態であることを思い出した。疲労、空腹の2重枷を背負っていることに、今更ながら気づいたバルは、ちゃんと逃げ切ることが出来るか不安になり始めた。
どぐっ!
「ぐっは…!」
背中に刺すような痛みが走る。怪物がまた石を投げつけたらしい。かなりの衝撃と痛みが、バルの背中を走り抜けた。よろよろ、とよろけたバルは、シンデレラのことを取り落としてしまった。
「お兄ちゃん!」
スウが悲痛な声で叫ぶ。
「バルハルト!しっかりなさい!」
膝をついたバルの肩を、シンデレラが揺する。肺に空気を吸い込めないバルは、返事が出来なかった。シンデレラは、バルがかなり危ないと思ったのか、立ち上がって弓を構えた。
「お兄さん!今…」
「あ、あ、お姉ちゃん!」
後ろを振り返ったエミーに、スウが声をかけた。怪物がいる方とは反対側に、白い樹脂の肌が浮かび上がる。マネキンだ。暗い中に、3体分の影が見える。
「この忙しいときに…!スウちゃん、ここにいて。今、逃げ道を確保するから」
スウをおろしたエミーが、マネキンに向かって蹴りかかった。さっきまではバルと2人で相手を出来たが、今はそうもいかない。少々、エミーが手間取っている様子だ。
「よくも…!許しませんわ!」
ひゅがっ!
鋭い矢が、怪物めがけて一直線に飛んでいった。シンデレラが怪物に向けて矢を放ったのだ。矢は怪物の右足に刺さり、怪物が怒りの叫び声をあげる。矢立の矢を取ったシンデレラは、次々に怪物に矢を浴びせた。
「ガア!ゴアアー!」
矢が刺さった怪物が、のたうち回っている。ようやく体が回復してきたバルは、ナイフを抜いて立ち上がった。まだ走ることは出来ない、時間を稼がないといけない。こうしてみると、怪物が哀れな気もするが、敵意を持って攻撃をしてくる者を哀れんでいる余裕などない。
「ふっ!」
ナイフを振りかぶって、バルが敵に向かって突進した。狙うは足の腱。一時的にでも切断出来れば、逃走が楽になる。飛んでくる石さえ避けきれば、なんとか太陽の下にでることが出来るだろう。バルはナイフを振りかぶり、矢の刺さっている右足めがけて振り下ろした。
ドスッ!
「ガアアアア!」
バルのナイフが深々と刺さった。血や体液が吹き出すことはないが、ひどい臭いが漂う。吐き気をこらえながら、バルはナイフを抜き、怪物と対峙した。目や口が弱点ではあるだろうが、そこに向かってナイフを突き出すには、バルでは身長が足りない。なんとか後ろに回り込めば、腱を切断出来るはずだ。出来ることならば、二度と追ってこないように退治もしたいところだが、今この怪物に致命傷を与えられるほど自分は強くない。
『手投げ爆弾があればな』
旅先で見た、火薬兵器のことが、頭をよぎる。それを売っていたのは、東の方にいる熱帯地方の商人だった。曰く、大きな岩の山に穴を空ける工事をするとき、その爆弾を使用しているという。試用をさせてもらい、実際に威力を確かめたバルは、冷や汗を流した。轟音とともに、地には大きな穴が空いたのだ。そんなに強力な装備は必要ないし、荷物になるだけだと、バルはそこで購入を踏みとどまった。今それが手元にあれば、目の前にいる怪物程度ならば吹っ飛ばせるはずなのだが、後悔しても始まらない。
「グア、グア、グアア!」
怒りに満ちた怪物の拳が、自分に向かってやってくる。やられる、死ぬ、と思ったバルは何も出来ず、怪物のするに任せた。
ガギィン!
大きな金属音が響き渡った。もう死んでいると思ったバルは、自分が生きているころに気づき、自分の手足を動かした。感覚は生きている。体も生きている。怪物の拳が自分を避けたのだろうか。
「あ、あなたは…」
シンデレラの声で、バルは怪物の方を向いた。剣と盾、そして軽そうな鎧を装備した少年剣士が、盾で怪物の攻撃を受け止めていた。人種は、猫獣人と人間のハーフで、耳と尻尾、そして胸元の毛だけが獣人だ。
「こ…の…!」
シンデレラは、そのハーフ少年が攻撃を受け止めている間に、矢をつがえて怪物の目を射抜いた。
「グォアアアアア!」
怪物の、この世の物とは思えない叫び声が響き渡る。シンデレラはひるまず、何度も何度も矢を撃ち続けた。怪物の攻撃を受けていた剣士は、足をそのショートソードで斬りつけ、怪物がこれ以上歩けないようにした。
「う、うわあああああん!」
スウが大声で泣き始めた。泣き声が天井を、床を揺るがす。と、スウの体から、紫色の何かがすっと抜け、怪物に向かって吸い込まれた。
ボォォォオオウ!
「ギャアアアアア!」
突然に、紅蓮の火炎が、怪物を中心に燃え上がった。長い間、旅を続けてきたバルには、それが魔法によるものだということが理解できた。自然界に存在する、様々な物理現象を、見えない力によって操る法。どうやらスウは、かなり強力な力を持っている様子だ。白い水蒸気が煙になり、みずみずしかった怪物の肌が、少しずつ少しずつ焦げていく。
「ふぅっ!」
剣を握った剣士が、火にまみれて悶え苦しむ怪物の頭を、ざっくりと斬りつけた。頭には大きな亀裂が入り、怪物は声もなく倒れた。しゅううう、と何かが蒸発するような音と共に、怪物は溶け始めた。レタスの腐った臭いが強くなる。
「ふっ!」
ばきっ!
マネキンを回し蹴りで吹っ飛ばしたエミーが、ふうと息をついた。剣士の、あまりにも勇猛果敢な戦い方に、スウが怯えてエミーの影に隠れる。
「本当に助かった、ありがとう」
ぱちん、と音を立てて、バルのナイフが鞘に収まった。剣士が剣を腰の鞘に、盾を背中の固定具に固定して、こちらを向く。
「シンデレラ姫!あなたほどの方が、遺跡に入る危険をわかっていないわけでもないでしょう!傷でも負われたらどうなさるつもりですか!」
すうっと通る、低い声。その声に、シンデレラがびくっとした。
「で、でも!ワタクシは、お兄さまを…」
「言い訳は無用です!僕がどれだけ心配したことか!あなたを探し回って、もう1時間になります!」
叱責を続ける猫剣士の前に、スウが立ちはだかった。手を大きく広げ、仁王立ちになったスウは、怒り顔で剣士を睨み付ける。
「お姉ちゃんを怒っちゃだめなんだよ!お姉ちゃんは、スウを助けてくれたんだよ!」
スウの剣幕に気圧されたのか、剣士が黙り込む。
「君は?見たところ、姫様と知り合いみたいだけど…」
すっと、バルがスウの横に立った。後ろでは、マネキンの球を抜き終えたエミーが、それをポケットに入れている。
「…申し遅れた。僕はシンデレラ姫の護衛を任された、リキル・K・シリウスだ。傭兵をしてる」
剣士、リキルが自己紹介をした。鎧の着こなしや、身のこなしから、彼の几帳面な性格が伺える。傭兵ではなく、城お抱えの剣士と言っても通用しそうだ。
「俺はバルハルト。こっちのエミーさんと一緒に、遺跡に入った女の子スウを探していて、姫様に会ったんだ」
バルが事情を説明した。姫と会ったこと、姫がスウを見つけていたこと、怪物が出たことなど。途中、やんちゃがすぎる、とシンデレラに説教をしようとしたリキルを、スウが止めた。
「理解した。まずは、シンデレラ姫を助けてくれてありがとう」
リキルは3人に深々と頭を下げた。
「偶然だしね。お礼を言われるようなことはしてないわ」
ひゅん、とエミーが尻尾を振った。
「まず外に出よう。またこんな怪物が出てきたら、非情に骨だ。僕たちが来た方向は遠いし危険だ。君たちが来た方向はどちらだい?」
「あっち。3階層くらいかな」
エミーが尻尾で出口方面を指さした。
「よし、行こう。すまないが、後少し、我々と一緒に来てくれ。姫を助けてくれたお礼をしたい。きっと国王も、そう言うはずだ」
すぐに抜ける位置に剣を差し直し、リキルが言った。
前へ戻る 次へ進む
Novelへ戻る