どこか遠いところから、人の声が聞こえてくる。自分に関係のない、知らない人間の発する言葉達。それらは望まないのに耳に入ってきて、バルの意識を覚醒させる。まだ眠っていたいのに。体は重い、意識ははっきりしない、さらに眠気が瞼を開かせないように頑張っている。
「う…」
 それでも、自分の置かれた状況は気になる。小さなうめき声をあげたバルは、目をうっすらと開いた。宿とは違う、見慣れない木の天井。鼻から息をすうっと吸うと、なんだか苦い匂いがどこからともなく漂ってくる。
「ここ、どこだ…」
 眠気の中、無理矢理に、バルは上半身を起こした。上にかけられていたタオルケットが滑り落ちる。着ているのは、紅白のチェックのシャツと、肌触りの良いグレーのズボンだ。こんな服、持っていないはずなのだが。
 落ち着いて辺りを見回してみると、そこは小さな空間だった。ベッドに、小さな棚、そして壁とカーテン。それぞれ、右と後ろが壁、左と前がカーテンに覆われている。
「…それなら安心ね〜」
「ええ。少し休めば、問題ないと思います」
 かちゃ
 カーテンの外から、ドアの開くような音がする。そして、すぐにカーテンが開いた。
「あら、お兄さん、起きてたんだ。ごめん、いきなり開けて」
 カーテンの向こう側から入ってきたのは、エミーだった。その隣には、どこかで見覚えのある少女だが、どこで見たのかは覚えていない。リスの獣人だろうか、丸い耳に、灰色の毛をしている。
「また会いましたね」
 リスの少女がにこりと笑う。どこで見たのだったか、必死に記憶をたぐるバル。声にも聞き覚えがある。
「えーと…」
 バルは、どう返事をするか、考えあぐねていた。覚えていない、と面と向かって言うのも良くないかもしれない。少女はそんなバルの葛藤を察したようで、半歩下がってきゅっと頭を下げた。
「あなたに地の神が手を貸してくれるよう…」
 聞き覚えがある。確か…。
「ああ!君は!」
「思い出しましたか?」
 すっかり思い出した。この少女は、機械と大地神を信仰する集団、シケラネ教団の少女だ。以前、よくわからないがらくたと交換に、13階の悪夢なるマジックアイテムを受け取った相手でもある。あのときは、彼女はローブを着てフードを被っていたせいで、顔をよく見なかったが、獣人だったようだ。今の彼女が着ているのは、茶色のワンピース服で、袖が肩までしかない。
「知り合いなんだ?この子が私の友達だったのよ」
 意外そうな顔をして、エミーが言った。
「名をジェカと言います。よろしく」
 丁寧に、ジェカが頭を下げた。よろしく、とバルも言う。
「ところで、ここは?病院のような感じがするけど」
 バルがエミーとジェカに聞く。カーテンの感じと言い、ベッドと言い、時折流れてくる苦い匂いと言い、病院のそれ以外の何物でもない。
「大当たり。お兄さん、倒れて運ばれたんだよ。ギカームが背負ってきてくれたの」
「そりゃ、悪いことをしたなあ…さっきの話をちらっと聞くに、過労か何かかい?」
「そうね。寝不足も重なってたみたいよ。旅先では、大変だったんでしょう?」
 エミーがころころと笑う。ここも旅先だ、と言おうか迷ったバルは、言わないことにした。バルは自分のことを、宿に泊まるただの客だと思っていた。しかし、エミーはバルに対して、まるで長い間、下宿部屋を貸している女主人のような顔をして見せたのだ。
『そういえば、そうだったな』
 バルが宿に戻ると、エミーもロザリアも、おかえりなさいとバルに言う。おかえりなさい、という言葉は、少し恥ずかしくてとても嬉しいものだ。おかえりなさいと言われると、そこが自分の家であり、相手が自分の家族であるような錯覚に陥る。それは決して気分の悪いものではない。
「じゃあ私は、バルさんは無事だって、先生に伝えてきます」
 ジェカがカーテンを開けて出ていく。
「あの人は、なんでここに?」
 身につけているものをチェックしながら、バルが聞いた。ドッグタグは装備しているが、それ以外はこの服と下着くらいしか着ていないようだ。ナイフも荷物も財布さえもない。
「あの子はここでお手伝いをして、食料品やお金をもらってるのよ」
「食料品やお金を?」
「ええ。シケラネ教団の孤児院で育ったあの子は、孤児院の役に立とうと、外に出て働いてるの」
 なるほどとバルは思った。確かに孤児院には、多数の子供がいたし、常にお金も食べ物も足りていないのだろう。お世辞にも、あの孤児院は裕福には見えない。
「そうそう。さっき、お医者の先生に聞いたんだけど、ただの過労だし、お兄さんさえ大丈夫なら、帰って大丈夫だって。どうする?帰るなら先生のところに顔を見せてからにしよう」
「そうだね、帰ろうかな。今日は、鍛冶屋に頼んでいたナイフを取りに行きたいんだ」
 バルが床に下りる。いつの間にかそこには、バルがいつも履いている旅靴があった。どうやら持ってきてくれたらしい。
「うーん、ナイフは明日の方がいいかもね」
 エミーが苦笑する。意味がわからないまま、バルはカーテンを開け、外に出た。
「あ…」
 外を見ると、既に夕方になっていた。今から鍛冶屋に行っても、もう今日の営業は終了しているかも知れない。
「俺、だいぶ寝てたのか…」
 なんだか、頭が痛くなってきた。昼まで寝ているということはあったが、夕方まで寝ているというのは初めてだ。旅先で、野宿をしているときでなくて本当によかった。半日も眠りこけていたら、危険な魔物に襲われたり、野盗に襲われたりしていたかも知れない。
「じゃあ、そのまま直帰しようか。ロザリアも心配してるよ」
 部屋を出るエミーに、バルがついていく。病院は2階建ての構造になっているらしく、ここは2階部のようだ。同じような部屋が数部屋あり、奥には医者や看護士のいるらしい部屋への扉がある。病院も夕食時らしく、料理をするいい匂いが漂っていた。
「ここは、ギレナカ医院っていう病院でね、街にある小さな病院の1つよ。優秀な薬剤師の作った、質のいい薬が売りで、主に体の中を悪くした人がここに来るわ。入院患者はあんまりいないけど、薬を売ることで利益を得ているの」
 こつこつと、靴音を立てて歩きながら、エミーが説明した。病院だって、貨幣経済の中にいるのだから、儲けを出さねば存続できない。医者や看護士は、患者の苦痛を取り除くことを第一に考えてはいるだろうが、それだけでは腹は膨れないのだ。だから、患者があまり来ない病院や診療所では、金がないせいで満足な治療を施せない。この病院は、薬屋と診療所が一体になったような場所で、薬屋の収入の方が多いのだろう。
「街で売ってる内服薬には、ここの薬がたくさんあるのよ。お兄さんも見たことない?」
「ギレナカって書かれた瓶はよく見るよ。良い薬だって噂はよく聞く。俺は主に、傷薬を買うね」
 バルの持っている、油と植物エキスの傷薬にも、ここギレナカ医院で造られたものがある。強い痛み止め効果を持ち、傷の治りを早くする良い薬だ。
「ジェカも、ここで薬のことを学んでいるから、薬を作ることが出来るのよね。後は、そうね。彼女はユニークな魔法を使える」
「ユニークな魔法?どんな?」
「人の体に効果のある、不思議な魔法よ。力を強めたり、弱めたり、眠くしたり。それが治療に役に立つらしいわ〜。回復魔法も使えるけど、そっちの方が得意みたいね」
 治癒魔法と同じ類だ。自然現象を扱うものではなく、生物の体に作用する魔法である。自然現象を扱う魔法より、少し高度なところに位置するこの魔法は、魔法を使える人間の中でも更に限られた人種になる。全体の3割程度といったところだろうか。
 魔法の才能がある者は、修行すればなんでも使えるようにはなるらしい。しかし、それだけ万能な魔法使いになるには、10年や20年の修行が必要だ。偏屈な魔法使いは、人里離れた場所に自分で塔や屋敷を作り、一人で魔法の研究に勤しむ…とも言われているが、そんな魔法使いも実際に存在する。
「あたしも魔法は使えるけど、軽いのばかりでね。ロザリアは治癒魔法が使えるんだけど、あれは便利だね。痛いとか辛いとか苦しいっていうのを、すうっと治すのよ。落ち込んだ気分まで戻しちゃうのもあるし、すごいよね〜」
 ぎしっ、ぎしっ
 階段を下りていくエミー。と、下りた先、左側にある休憩スペースで、ソファに座ったギカームが、隣に座ったジェカと話をしていた。ソファは四角く配置されており、真ん中には四角いテーブルが置いてある。ギカームとジェカは、階段と反対方向に向いて座っているため、バルとエミーに気付いていないらしい。
「…で、そいつぁいつからなんだよ?」
 何か飲み物を飲んでいたギカームが、ジェカに聞いた。
「もうつい2週間前です。あなたとバルさんとリキルさんが地下遺跡に潜ったころからで、お婆さまが異変を感じたころからです」
 ジェカがギカームに返事をする。座っている2人の背中は、かなり大きさが違う。まるで、兄と妹…否、父親と娘だ。
「あの日か。あの日から、婆さんはなんだか変になっちまったなあ。すぐ怒るし、かと思ったらいきなり優しくなりやがる。気味が悪りぃったらありゃしねえ」
 ばりばりと頭を掻くギカーム。お婆さまというのは、シケラネ教団の孤児院を運営している、グローリアというヒューマンの老婆のことだ。そういえば、あの日以来、グローリアに会いに行っていない。この国に何か異変が起きようとしている、何か情報を手に入れたら報告に来てくれと言われていたのだが。報告するべきことはたくさんある、まとめてから行こうと、バルは心に刻み込んだ。
「お婆さまはお婆さまなりに、この国の未来を案じているのでしょう」
「だろうな。早いとこ面倒が終わって、元の婆さんに戻ってもらいたいもんだぜ」
 グローリアを信じきった口調のジェカに対して、ギカームは呆れ声だ。バルの知らないうちに、グローリアが変わってしまったという話だろうか。2人の話がとぎれたところで、エミーは2人に後ろから近づいた。
「ギカーム、ジェカ。お兄さんが帰るっていうから、あたしも一緒に宿に帰るわ」
 エミーに声をかけられ、2人は初めてエミーとバルがここに来たことを知ったらしく、揃って後ろを振り向いた。
「おう、そうだったか。俺はこいつと一緒に、今日は病院に泊まることにする」
「どこか悪いの?」
「そうじゃねえ、ちょっとした依頼を受けてな」
 疑問符を浮かべるエミー。ギカームは、ジェカに目配せした。
「つい数日前から、この病院に、夜間の侵入者が現れるようになったんです。ギカームと私で、夜番をするのです」
 侵入者とは穏やかではない。侵入者と言えば大抵の場合、何かを盗んだり破壊活動を行ったりする。特に、ここは病院だ。入院患者もいるのだし、何か起きてしまっては困る。
「どんな侵入者が?」
「姿を見た奴はいないらしい。が、物音を聞いたり、気配を感じたりした人間も多いらしくてな」
 バルの質問に、ギカームが返事をした。
「おかしな話ねえ…」
 ぼんやりとエミーが言う。
「真相を解明したら、院長が個人的に礼をしてくれるって話でな。ここの薬を1ヶ月間、優先的に俺の店に卸してくれるらしい。こいつぁ、やるしかないよな」
 今から、その薬の売れ行きを考えているのだろう。ギカームがにやにや笑っている。この街は、物が多く裕福なだけに、人々は質の良い物を求めて買い漁る。ここの薬は質も良い、売れるのだろう。
「頑張ってくれよ。じゃあ、俺は帰るから…」
「え?」
 バルの言葉を遮ったのは、ジェカの残念そうな疑問符だった。眉をハの字にして、とても残念そうな顔をしている。食べようとしていた飴を落としてしまったかのようだ。
「てっきり、バルさんも残って下さるものだと…バルさんはリキルさんのご友人ですから…」
 すっかり、ジェカはしゅんとしてしまった。
「こらこら。俺がいれば十分だろう。バルハルトは疲れてるんだ、無理言うんじゃねえ」
「でも…」
 苦笑しているギカームに、物言いたげな目を向けるジェカ。プレッシャーがバルにのしかかる。リキルはシケラネ教団のあの孤児院で、どんな風に言われているのだかわからないが、きっとヒーローだなんだと言われているのだろう。バルのことも、きっと「困った人がいたら見捨てられない性格」だとかなんとか言われているに違いない。
「…わかった。俺も、今夜は付き合おうかな」
 まず、宿に戻って、武器と道具を取ってこなければ。そんなことを考えながら承諾すると、ジェカの顔がいきなり嬉しそうな顔へと変化した。
 そう。悪い気分では、ないのだった。


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